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第310話  3月3日(7)

■その310  3月3日(7)■


 ご近所さんのお祝いと、不審者襲来事件が一段落して、主役の桃華ももかちゃんのお腹も満たされた頃、時計の針は20時を指していました。松橋さん達学年組は、主の手作りの桜餅をお土産に、お家へ帰ります。入れ替わりに、お仕事が終わった坂本さん達が来ました。

 そして、本日2回目の乾杯です。お酒もお料理も、しっかり残っています。


「本当、いつ食っても旨い。あ~、仕事頑張って良かった~」


 身体中から『疲れた!』オーラを出している高橋さんですが、ご馳走を食べる度にお顔に生気が戻ってきています。でも、その食べ方が、まるで赤ちゃんです。恋人で保育士の工藤さんに、食べさせてもらっています。高橋さんは、お口を開けているだけ。


「サクさん、赤ちゃんみたい~」


「手、怪我したの?」


 夏虎かこ君と冬龍とうりゅ君が唐揚げを食べながら寄ってきました。


「今日はね、カラーとか縮毛矯正とかパンチパーマとか… そんなんばっかで、手の握力が奪い取られたの。こぶし作るのもムリ」


 高橋さんの手、小さいですもんね。


「じゃぁ、変態が来たらどうするの?」


「足がある! でも、足で食事したら、お行儀悪いだろう?」


 夏虎君の質問に、高橋さんは胡坐をかいていた右足をヒョイと上げて見せました。体、柔らかいですね~。


「足だけで、倒せるの?」


「あ、疑ってるな~、俺様の黄金の右足を!」


 胡坐をかきなおして、工藤さんから唐揚げを口に入れてもらいました。


「さっき、桃華ちゃん目当ての変質者、1人蹴り倒して警察に突き出したもんな」


 岩江さんもゲッソリとしたお顔をしていましたけれど、モリモリご飯を食べた今は元気になったみたいです。アルコールも入っているみたいですね。


桃華ももか目当て?」


 お酒の相手をしていた笠原先生が、チラッとお雛様の方を見ました。

テレビの反対側の壁際に、修二さん作ってくれた台があります。ローテーブルよりも低くて長細い台の上に、こじんまりとした二人雛の『親王飾り』が飾られています。七段飾りとかの豪華なものではありませんが、それでも、お花、茶器、雪洞、屏風、お菓子といった小物が、華やかさを増してくれています。例年なら2組なんですが、今年は3組。そのお雛様を見ながら、主達女子組はデザートを食べながら歓談中です。


「そう、桃華ちゃん目当て。昼間、商店街の役所で婚姻届けを出してでしょう? そこに居合わせた人か、職員か… 職員なら問題だけれど、とにかく桃華ちゃんが結婚したことが一気に広がって、他の男に渡すなら、って無理心中なんて血迷った事を考える奴が出て来たのよ。で、バカだから「桃華ちゃんの相手のお家を教えてください」って、うちの店に聞きに来たのよ。大切なお客様の個人情報、教えるわけないでしょうにね!」


 坂本さんは喋りながらも、しっかりとサラダとワインを味わっています。


「そいつを、疲れて気の立ってた高橋がけり倒したわけ」


 岩江さん、完璧に呑みのスイッチが入りましたね。


「ある意味、『あぶり出し』ね。暫く、気を付けなさいよ。こっちも目を光らせてるから」


 そんな人が、まだ出て来るかもってことですよね?


「ありがとうございます」


 坂本さんに言われて、笠原先生は素直に頭を下げました。そして、雛人形の前でデザートを食べながら歓談している女子組を見ました。

 飾られたお雛様は3組。1つは僕の主の桜雨ちゃんの、1つは桃華ちゃんの、1つは和桜なおちゃんのです。その真横で、はしゃぎ疲れた秋君が丸くなって寝ています。


「ママ達のお雛様はないの?」


 菱餅風ムースケーキを食べながら、和桜ちゃんが聞きます。


「ママのはね…」


和桜なおちゃんのママと私のお雛様は、お家が火事になった時に焼けちゃったのよ」


 和美さんが寂しそうな表情を見せた時、隣で白酒を呑んでいた美和さんが、代わりに答えました。


「お家、焼けちゃったの?」


「無事に逃げられたから、きっと、私達の身代わりになってくれたのね」


 和桜ちゃんの質問に、美和さんがゆっくり頷きました。


「雛人形ってね、元は五節句の1つ「上巳じょうしの節句」だったの。この日は、古代中国では忌日とされていて、そのケガレを祓うために水辺で体を清め、厄払いが行われていたの。それが日本に伝わったのが平安期頃。土や紙の人形にケガレを移して水に流す「流しびな」の行事になって、貴族の子どもたちの間で「ひいな遊び」というお人形遊びになったのよ。これが節句になって、ひな人形を段飾りにして、美しく飾って祝うようになったのが江戸時代になってから。でも、そんな形でお祝いを行えたのは、武家や貴族だけね。贅沢だものね。そして、この慣習が一般家庭に定着したのが、明治以後のことなのよ。

 私も家が貧しくて兄弟が沢山いるから、雛人形は「流しびな」だったわよ。1年に1度、母さんが私の健やかな成長を願って、やってくれていたわ」


 美世さんのお話しに、皆はジッと聞き入りました。桃華ちゃんも梅吉さんも、美世さんの結婚前のお話を聞くことは中々ないんです。


「美世…」


 不意に、キッチンで白酒を呑んでいた勇一さんがフラっとやって来て、美世さんの手を取りました。あまり自分から動かない勇一さんの行動に、皆は息を潜めて見守りました。


「遅くなってしまったが、新婚旅行に行かないか?」


 あまりにも予期しない勇一さんの言葉に、そこにいる人たちは、誰もがポカーンとしてしまいました。美世さんですら、お口が開いてしまいました。


「桃華と笠原の新婚旅行に付いて行く、って事じゃないよな?」


 梅吉さん、思わず確認です。


「美世、2人で旅行に行くのは嫌か?」


「もちろん、行きます」


 勇一さん、梅吉さんの声が聞こえていないようですね。皆がますますポカーン… としている中で、美世さんはそっと勇一さんに抱き着きました。それは、泣きじゃくる子どもを優しく抱擁するお母さんのようでした。


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