■その314 …もう少し■ 卒業証書授与式が終わり、最後のホームルームも終わり、卒業生は友人や在校生と別れを惜しんでいる間、教員は会議に集められた。諸々の連絡事項と注意事項を言い渡され、解放されたのは約1時間後··· 「水島先生」 早く
時に小さな体を揺らしながら、時に激しく動きながら、時に調子の外れた鼻歌を歌いながら… 目の前のキャンパスに思いの丈をぶつける。
この時だけは、桜雨の中に俺はいなくなる。
それでもいい。桜雨がそれだけ夢中になれる事だから。
それだけ夢中になっている桜雨を見ているのも、好きだった。だから、どんな形でも、あと少しだけでも、この空間で描かせてやりたかった。
今日向かっているのは、小さめのキャンパス。少し調子が外れている鼻歌は『ビリーブ』。
もう、描き終わったのだろうか、キャンパスの前に座ったまま、腕が動くことはない。
確か、あのキャンパスの絵は…
「卒業記念か?」
細い肩に手をかけて、キャンパスの絵を覗き込む。小さな体が一瞬ビクッとした感触が、手から伝わった。
「みた… 水島先生。さっき、最後の一筆を入れ終りました」
俺の顔を見上げて、桜雨は俺の顔を見ると手にしていた筆を少しだけ振って見せた。
「可愛い絵だな」
小さめのキャンパスの真ん中に、2本足で立っているカエルがいる。そのカエルは黒い傘を逆さまに、買い物
「三鷹さんを想ってドキドキするハートは、ピンクや赤い色で丸みのある綺麗な形。けれど、たまに黒くなっちゃうのは焼きもちや嫉妬。悲しい時は青色で、しぼんだ風船みたい。でも、清々しい気分の時も、青。その青は、透明なの。怒っている時は、真っ赤でトゲトゲしていて攻撃的。何かを期待している時のドキドキは、ピカピカの金色。誰かを恨んだ時は、真っ黒でとても
なるほど… さしずめ、このカエルは桜雨自身か。
「この、黒い傘は…」
「私の宝物のカエルちゃん。私の心の支えだから」
言って、桜雨はスカートのポケットから、不格好な黒いキーホルダーを取り出した。折り畳み傘の持ち手で、真ん中にボロボロのカエルのシールが貼られたキーホルダー。
「そうか」
雨の日に、差し出した1本の傘。桜雨を濡らしたくなくて差し出した傘は、結局、その命を守ってくれた。
「カエルちゃんを、どうしても描きたかったの」
言いながら、桜雨は少し後ろに立てかけてあるキャンパスを筆で指した。
「卒業制作はあっち」
桜雨は立ち上がると、今まで見ていたキャンパスを下げて、筆で挿したキャンパスを前に出した。
形とは言えない、真っ白なモノ、真っ赤なモノが小さく描かれている。よく見ると、所々に青や白や黄といった色も覗き込むかのように見えている。形の崩れた三角形が2つ、歪に重なったモノか? 丸みのある鳥の羽根が、
「テーマは『気持ち』。このキャンパスとテーマは、入部した時に芳賀先生がくれたの。最後の筆は、卒業式の日に入れなさいって」
「キャンパスを貰った日は、オレンジのハートを描いたの。
高等部の生活がスタートしたばかりで、色々な事にドキドキしていたし、ようやく三鷹さんとの学校生活がスタートしたから。その日から、事あるごとにオレンジのハートには、色々な色と形が重なったの。
三鷹さんとの事で嬉しい事があった日は、丸に近いピンクのハート。三鷹さんのお家に三島先生が上がった日に気持ちは、真っ黒のバッテン。
時間が経っていても、このキャンパスの前に立つと思い出すから不思議なんだよね。
テストで悪い点を取った日は、くすんだ紫。秋君が初めて学校に来た日は、ビックリしたから先が丸いトゲトゲの黄色」
つまり、このキャンパスに詰まっているのは、桜雨の3年間の感情か。
「それでね、この絵にはまだ最後の一筆を入れてないんだ。
水島先生…、一緒に入れてくれますか?」
ジッと、桜雨が俺を見つめている。目尻が軽く下がった、可愛らしい焦げ茶色の瞳に吸い込まれそうになる。スベスベとした白い頬を手で覆って、ほんの少し開いた、ふっくらとした桜色の小さな唇に、思いっきりかぶりつきたくなる。細い首にも噛みついて…
…もう少し
俺の体内にあるなけなしの理性を総動員して、その衝動をぐっとこらえる。ぐっとこらえて、少しだけ頷いた。
「ありがとう」
桜雨は微笑みながら、手にした筆に色を付けた。
「… 金色?」
「うん。希望の色っぽいでしょう?」
桜雨はその筆を俺に持たせ、俺の背中を少し押してもう一歩、キャンパスの前へと立たせた。
「水島先生、肩から力を抜いてください。私が動くから、抵抗しないでね」
そう言って、桜雨の小さな手が、筆を持つ俺の大きな手の上に重なった。
「いきます」
その動きは素早く、力強かった。金の絵の具は、形というよりは影だった。
「激しくて、ビックリしました?」
正直、ここまで力強く描いているとは思わなかった。顔に出ていたのか、桜雨がクスクス笑っている。
「… これは、翼か?」
キャンパスに現れたのは、白をベースに、色々な色が覗く横向きの二枚の羽根。それは、今まさに広げられようとしていた。
「だって、これから飛ぶんですもん。
片方は私の翼。もう片方は… 三鷹さん。三鷹さんは、いつも私の未来を作ってくれるから」
…もう少し
「先生…」
…もう少し
我慢している俺の前で、桜雨はエプロンを外し、胸元の朱色のスカーフを外した。
桜雨、イケない、それは完全にアウトだ。
「女子は第2ボタンがないから…」
そう言いながら、桜雨は精一杯背伸びをして、俺のネクタイを撮ろうと悪戦苦闘し始めた。一生懸命な表情が可愛いく、邪な気持ちが少し薄れた。
「… 椅子に座ってください」
背伸びでは上手く出来ないと観念したのか、桜雨は近くの椅子を持って来た。笑うのを我慢してその椅子に座ると、ようやく桜雨の手は動きやすくなったようで、俺のネクタイを外した。
「ちょっと、浮いちゃうかな?」
そして、朱色のスカーフをネクタイの代わりに巻いてくれた。
「先生、3年間ありがとうございました」
そして、小さな温もりが、優しく頬に落ちて来た。
桜雨、アウトだ。
「私、先に皆の所に行ってます。戸締り、お願いします」
我慢の限界。
思いっきり目の前の小さな体を抱きしめようとしたら、それよりも先にスカートを翻して逃げられた。
…もう少し、もう少し。
それでも、制服姿は今日で最後だ。この後ろ姿も…