■その334
お昼休みも終わる頃、新入生の生徒達はそれぞれ体育館に向かい、部活紹介をする2年生と3年生は準備で大慌て。
「もう少しだからね」
そんな周りがバタバタしている時間、中庭の満開の八重桜の見事な枝に人影がありました。
時々、薄く入れた紅茶色のハーフアップの髪を枝に引っ掛けながら、時々、桜色のスカートから伸びた白い脚を幹で擦りながら、少しづつ登っています。
「せんぱ… 先生、リボンはもういいです。危ないから、下りてきてください」
白い手は何かを取ろうと伸ばされて、ゆっくりですが更に登っていきます。樹の下にいる生徒達は、心配して声をかけています。
白いセーラー服に、胸元を飾る朱色のスカーフ。襟や袖には朱色細い3本のセーラーテープ。それが、この学校の制服です。
「朱色のリボンは、合唱部のお揃いでしょう?
今日は新入生に初めて皆の歌声を聞いてもらうんだから、きちんとしなきゃね」
「でも、せんぱ… 先生が危ないです」
どうやら、生徒の長い黒髪に結んでいたリボンがとれて、風で樹の枝に引っかかったようです。軽く下がった愛らしい焦げ茶色の瞳には、少し上の枝に引っかかっている赤いリボンが映っています。
「私、こう見えても木登りは得意だから。もうちょっと… 取れた!」
白い指先が木の枝から絡め取ったのは、合唱部の女の子たちがお揃いで付けていた、朱色のリボンでした。
「取れたよ~… あらぁ… 結構、高く登っちゃった」
手にしたリボンを生徒に見せようとして、焦げ茶色の瞳が下を見た瞬間、自分がどれだけ高くのぼって来たか分かりました。
「先輩、下りれますか? 先生、呼んできますか?」
「職員室、行ってくる」
「武道場じゃない?」
下では、生徒達がハラハラして先生を呼ぼうとしています。
「登ったんだから、下りられると思うわ。大丈夫よ~」
ハラハラしている生徒達とは反対に、桜の上から返ってくる声は随分と落ち着いています。
「おいで」
白い脚が、枝を確認しながら降り始めようとした時です。ハラハラしている生徒達の横に、白い剣道着姿の男の人が現れました。
硬めの黒い髪はベリーショート。180センチを少し超えたぐらいの背に、綺麗に筋肉が付いた体格で、剣道着姿がとてもよく似合っています。褐色の肌に、キリッと力強い黒の三白眼は慣れてもちょっと怖いうえに、左側の額には大きな傷跡があって、怖さを倍増しています。口数の少ない唇は、いつもキュッと結ばれています。その口が、短く優しく動きました。
「
そして、筋張った大きな両手を、満開の八重桜の上に向けて伸ばしました。
「… はい」
小さくふっくらとした桜色の唇を緩めて、小さな体は何の躊躇もなく樹から飛び降ります。桜の花弁と共に落ちてくるその小さな体を、剣道着姿の男の人は羽をキャッチするように上手に抱き留めてくれました。桜の花弁を絡めたふんわりとした髪が褐色の頬を、甘い香りが鼻をくすぐります。逞しい両腕の感触と体温を感じて、白いホッペがポッと桜色に染まります。
「怪我は?」
頭を軽く撫でられながら耳元で聞かれて、小さな頭が横に振れました。髪に絡まっていた薄いピンクの花弁が、フワフワと宙に舞います。
「そうか」
男の人は安心して呟きます。
「やだ… いいもの見ちゃった」
「ねー」
「動画、撮っておけばよかった~」
そんな2人を見ていた生徒達は、キャッキャと騒いでいました。
チャイムが鳴ります。あと5分もすれば、オリエンテーションが始まります。
「先輩、先に行ってますね」
「リボン、ありがとうございます」
「水島先生、遅れたら東条先生に怒られちゃいますよ~」
生徒達は口々に言うと、体育館に向かって走り始めました。
「ありがとうございます、水島先生。オリエンテーション、行きましょうか」
小さな体が廊下に下ろされると、桜色のフレアースカートの裾がふんわりと風で膨らみます。言葉と一緒に差し出した左手には、薬指に緑色のガラスのリングがはまっていて、キラキラ光っています。男の人は言葉も無くその手を取って、生徒達が向かった方へと歩き出しました。
「白川先生、美術部の生徒がお待ちですよ」
「はい。今、行きます」
前方から呼ぶ声に、少し恥ずかしそうに、けれど元気な声で返事をします。
「
「
不意に、サァー… と音がしました。足を止めて、渡り廊下の屋根の下から空を見上げます。雲は出ていません。青いお空から、優しく雨の雫が落ちて来て、中庭の花弁や葉を濡らしていきます。
『
これぐらいの弱い雨の日は、僕の出番でした。僕は傘でした。何の飾りもない、黒の折りたたみ傘。持ち手の頭に、子ども用の可愛いカエルのシールが貼ってあります。あの日、持ち手を残して、事故で壊れてしまうまでは。けれど、僕は今キーホルダーになって、主の側に居ます。僕の主は僕の事を『カエルちゃん』って呼んでくれる素敵な人です。
「今日は、相々傘で帰ろう」
「はい」
主と三鷹さんは優しく微笑みあって、ゆっくりと体育館に向かって歩き出しました。
今は、僕の代わりに三鷹さんが主を雨から守ってくれます。何の飾りも無い、コウモリ傘で… ですけれど。