■おまけの話 勇一と美世1・出会いの冬1■
私が田舎の実家を出たのは、7つになる年の冬だった。
幼い私から見ても、身なりの良い男性が粗末な小屋のような我が家にやってきたのは、旧正月が明け春撒きの種を準備する頃だった。私は兄妹と一緒に、引き戸の合わせを少しだけ開けて、隣の部屋のから覗いていた。
冷たい床の上に、申し訳程度に敷かれたツギハギだらけの薄い座布団。その男性は、そんな座布団に嫌な顔一つしないで正座で座った。
横から覗いていたので、シュッと伸びた背筋と無駄な肉のついていない横顔のラインがとても綺麗だった。艶やかな黒髪を後ろになでつけ、キリッとした眉とその下の切れ長の黒い瞳。少し薄めの唇は真一文字に結ばれて、とても真面目そうに見えた。広い肩幅に、厚みのある胸元。男性の正面に、肩を並べて座る両親が酷く年老いて、小さく見えた。
三人が何を話しているのかまでは聞こえなかった。けれど、三人の口元が動くのは少なく、その表情は明るいモノではなかったから、良い話ではないのだろうと幼心に思った。
男性が両親との間の床に、厚みのある紙袋を出した。両親は黙ったまま顔を見合わせて、しばらくしてから私の名前を呼んだ。
「ミヨ、おいで」
その頃の私はとても痩せていた。着ている洋服は姉のお下がりで、襟や袖は伸びていて色は褪せているし、ツギハギだらけだし、何よりブカブカだった。一本に結んだだけの髪も、服から出ている肌にも艶は無く、顔も薄汚れていたから、その男性の前に出るのが恥ずかしかった。
モジモジしていると、引き戸の合わせが兄と姉の手でスッと開けられてしまったので、しょうがなく一歩だけ前に出た。恥ずかしくて、
「二女のミヨです。家の仕事も、幼い弟や妹の面倒も、よくやってくれています」
父の口から、初めて聞く言葉だった。裸足の指先は霜焼けだらけで、赤黒く晴れてかゆくて、両足の指を合わせて揉む様に動かして気を間際らせた。
「ミヨ、こちら東条様。お父さんの遠い親戚だよ。こっちに来て、ご挨拶しなさい」
俯いたまま、目だけを上に上げる。両親の前に座る男性は、こっちを向くことなく座っていた。私は、その近くまで歩いて行けず、両足を揉む様に動かしながら、俯いたまま挨拶をした。
「こんにちは、東条ミヨです」
「ミヨ、ちゃんと顔を上げなさい」
怒っている声ではなかった。けれど、男の人は父に向かって軽く片手をあげた。
「ミヨ… これから、おまえは東条家の本家でお世話になるんだよ」
母の一言がショックだったのは覚えている。その一言の後は記憶がマチマチで、一番強く覚えているのは、村まで歩いた雪道の冷たさだった。
■
まだ雪解けには早いけれど、私はツギハギだらけの粗末な洋服を数枚重ね着して、風呂敷に纏めた荷物を持って、親戚の東条さんの後について歩いた。
少し歩いて、一度だけ振り返った。父と母が大きく手を振っていた。風が運んでくる冷気も、靴に所々に開いた穴から触る雪の冷たさも、いつもと変わらなかった。
幼心に、売られたのだと分かった。私は7人兄妹の3番めで、一番上の兄はその時10才だったと思う。姉は8才で、すぐ下の双子の弟は5才。その下は3才、1才と妹が続いた。
私は上にも下にも年が近く、両親とも仲は良かったと思う。だから、悲しくてしょうがなかったけれど、知らない人の前では泣きたくなかった。手を握りしめて、唇を噛んで、泣くのを必死にこらえて、村まで歩いた。
「今日はもう電車はありませんよ。お急ぎでも、明日の朝まで電車は来ませんからねぇ…。もちろん、町行きのバスも終わっていますよ。タクシーも呼べない事は無いですが、時間も金額もかかりますよ。私なら、そこの宿に一泊して、早朝の電車に乗りますよ。町の宿屋に比べたら粗末ですけれど、ご飯と風呂と布団はありますから」
駅の人が、そう教えてくれた。
村の宿は、駅の隣に一軒あるだけ。
村の粗末な宿屋と言っていたけれど、私の実家より遥かにマシで部屋は掃除が行き届いていて綺麗で、畳のいい匂いがした。その綺麗な部屋を、畳を汚してしまうのが嫌で部屋に上がるのをためらっていたら、東条さんは私の手から風呂敷を取って部屋に置くと、お風呂へと連れて行ってくれた。
部屋とは別の所にあるお風呂は広くて、靴の代わりに渡されたスリッパと、着替えにと渡されていた浴衣はやっぱりブカブカだった。そんな私とは正反対に、東条さんの浴衣姿はとても様になっていて、また恥ずかしくて下を向いていた。
「腹は、空いていないのか?」
部屋に戻った時、畳の上に二人分のお膳が向かい合わせで用意されていた。出された料理も食べたことがないものばかりで、どう食べていいのか分からなかったし、ご飯が麦ではなくて白米だった。戸惑う私に、東条さんは食べ方を静かに教えてくれた。
美味しくて、涙が出た。両親や兄妹にも食べさせてあげたいと思った。浴衣の袖で拭いながら確りと食べて、ご飯は3杯もお代わりをしたのを覚えている。