■おまけの話 勇一と美世2・新しい生活4■
初めて勇一さんを見た時も横から。シュッと伸びた背筋と無駄な肉のついていない横顔のラインが、幼い私の目から見てもとても綺麗だった。
いつも盗み見るのは、縁側の隅から。壁に手をついて、そっと覗き込む。弓道の練習に励む横顔も、変わらない。艶やかな黒髪を後ろになでつけ、キリッとした眉とその下の切れ長の黒い瞳。少し薄めの唇は真一文字に結ばれて、真剣そのもの。広い肩幅に厚みのある胸元を白筒袖(弓道着)に包み、約60度に開かれた下肢を覆うのは黑袴と白足袋。重心を体の中心に置いてから、一連の動作を通して矢を放つ。矢が発したあとも、暫くは気合を抜かない… 勇一さんが纏う空気は、とても清らかで緊張感が漂うものだった。
私は雷の様にピリッと走っている緊張感は少しだけ苦手だったけれど、清らかな空気は好きで、真っすぐ前だけを見つめる横顔が一番好きだった。今の私なら、そんな勇一さんを『高潔な姿』と表現するだろう。
「お前、だれだよ?」
奥様に呼ばれていたにもかかわらず、弓道の鍛錬に勤しむ勇一さんの姿に見とれていた私に、少し下の位置から声がかかった。それは、このお屋敷に来て初めて聞く子どもの声だった。
「…」
「だれだって、聞いてんだよ」
あまりの場違いな恰好に固まっていた私に、彼はイライラしながら再度聞いてきた。
彼は、私の双子の弟と同じぐらいの子どもだった。元は真っ白なシャツだったのだろう。埃や泥で黒や灰色に色付けしたシャツに、たぶん紺色であろうズボン。膝下までの靴下は、シャツと同様に黒や灰色に色付けされた白… その真っ黒な足元は見るからにじゃりじゃとり音が聞こえて来るほどに砂利が広がっていた。そんな恰好と、目尻のつり上がった黒い瞳は、彼の人となりを表すには十分だった。
「私は、このお屋敷で働くミヨです。貴方はどちら様ですか?」
慌てて、姿勢を正す。足を揃えて、両手を前掛けの前で合わせる。
汚れてはいるけれど洋服は上等なものだし、短く刈られた黒髪も、夏を過ぎて焼けた肌も艶があって綺麗だ。女中仲間の兄妹だとしたら上女中、もしかしたら東条の親戚か、お客様のお子様かもしれない。
この頃の私は、そう考えられるぐらいにはなっていた。まぁ、タカさん達、上女中の嫌味のおかげだ。
「お前、女中のくせにオレの事知らないのか?
そっちの方が、私より小さいくせに。
余計な言葉は、ゴクンと飲み込む。サヨさんを見ていて学習したこと。
「申し訳ありません。こちらにお世話になり始めたのは半年ほど前からで、平日は学校に通っています。平日の日中にお越しになるお客様は、まだ把握しておりません」
私より小さな子供でも、私より身分は高いはず。滅多な言葉使いは出来ない。とは思っていても、この頃の私にとって敬語も尊敬語も謙譲語も、混ぜこぜだった。「失礼にならない様に」と、心がけて話すが精一杯。
「学校? 姉ちゃんと同じか」
男の子は少し移動しながら、私をジロジロ見る。黒い靴下が床から放れる度に砂利が落ちて、再び床に付くと微かな水分の音がした。ジャリ… ペタ… ジャリ… ペタ…小さな足のスタンプが、床を埋めていく。
こんなに汚れるなんて、どこで遊んでいたんだろう?雨が降ったのは3日前だから、ここら辺に水溜まり等は無いはずなんだけどな。
「ちっちぇのに、働いてんの?」
「そうですよ」
「なんで?」
「働けば、お金を頂けるからです」
「そんなの、親に貰えば…」
「奥様~!奥様~!!」
男の子の話の途中で、奥から慌てた様子でサヨさんが走って来た。
「あ、修二様! まぁた、こんな格好になって…。じゃないですよ、修二様…」
「奥様は、どこ?!」
男の子を見つけたサヨさんが呆れた顔をしていると、すぐ後ろから和服姿の身なりの良い女性が金切り声でやって来た。体は太目なのに、声はやけに高かったのを覚えている。
うちの奥様と同じくらいの年齢で、紺色の
ああ、なるほど。犯人は、この男の子か。
「奥様はどこ?!」
その女性は私の前で止まって、いっそう大きな声でそう言った。男の子を睨みつけながら。
「このような恰好で失礼します」
私の横に、影がさした。練習をしていた勇一さんが、袴姿のままで上がって来た。
「当家長男の勇一と申します。この度は、私の弟が大変失礼なことをしたようで、大変申し訳ございません。只今、父も母も留守にしておりますので、戻り次第お詫びに伺います」
シュッと伸びた背筋を、綺麗に深く傾けた。いつもは感じる事のない、体中から発せられる熱気と汗の匂いに、ドキドキした。汚れた男の子に、怒りで顔を真っ赤にしている女性がいると言うのに。
「あら、貴方が噂のご長男さん… まぁまぁ、噂通りの素敵な方ね」
勇一さんの謝罪に、その女性はコロッと機嫌が良くなったようで、ニコニコしながら目の前の私の前掛けをグイグイ引っ張って来た。私が慌てて前掛けを外すと、女性は私達に少し背中を向けて、それで顔を拭き出した。
一番綺麗な前掛けだったのに… あの泥汚れ、すぐに洗えば綺麗に落ちるかな?
そんな事を思っていたら、男の子が動いた。正確には、男の子の足。
「きゃぁぁぁぁぁ~」
真っ黒に汚れた靴下の足に、お尻を右左と素早く2回蹴られた女性は、バランスを崩して廊下に倒れ込んでしまった。両手を出すことなく、前のめりに。とても鈍い音がした。
「うるせーよ、糞ババぁ。お前とお前んちのクソガキがムカつくんだよ!」
止めと言わんばかりに、白い帯を湿った真っ黒な靴下でグリグリと踏みつける。少しづつ位置をずらしているから、白い帯は直ぐに真っ黒になった。
「こ、この、クソガキ!!」
男の子の体重なんて、いくらもないだろう。その気になれば、撥ね退けて立ち上がることは簡単だと思う。それをしないでジタバタしているのは、体が重いせいか、男の子の足の力が見た目より強いのか… 今なら、その両方だという事が分かる。
サヨさんはチヨさんでも呼んできてくれるつもりなのか、キッチンの方へと駆けて行ってしまった。堪えきれない笑い声を漏らしながら。
勇一さんは小さな溜息をついて、男の子の腕を取って止めようとする。けれど、男の子は激しく上半身をよじってその腕を払いのけて、さらに激しく女性を踏みつけた。
うちの双子も元気だけれど、さすがにここまでしないし、学校でもこんな事をしている男の子はいないなぁ…。でも、この
なんて思いながら、私は呑気に見ていた。
「おやめなさい!」
勇一さんが男の子を羽交い絞めにしようとした時、奥様の凛とした一言が廊下に響いた。ピタ! と男の子の足が止まって、すぐに裏庭から逃げて行った。靴下のまま、脱兎の勢いで。
これが、修二君との出会いだった。