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勇一と美世4・クリスマスと珈琲3

■おまけの話16 勇一と美世4・クリスマスと珈琲3■


「… 本当は、こういう店をやりたいんだ」


 それは、とっても小さな呟きだった。2個目のチョコレートを齧っている時、勇一さんが手にしていたカップに落とすように、小さく呟いた。


「東条の家を継ぐのではなく、小さな小さな珈琲の店をやりたいんだ」


 初めて聞く、勇一さんの本心だった。その言葉の意味を、幼い私に呟いた理由を、この時の私は知らなかった。ただ、その言葉をそのまま受け止めていた。


「やっちゃダメなんですか? 喫茶店」


「東条の会社を継ぐからな」


 緩んだ頬が、戻っていた。


「継いだら、出来ないんですか?」


「そこまで、俺は器用ではない」


 ゆっくり珈琲を飲む勇一さんが、少し悲しそうに見えた。


「勇一様、器用だと思いますよ。お勉強が出来て、色々な事を知っていて、弓道だって凄いです。あれもこれも出来て、器用じゃないですか。私は… ご飯を炊く事は皆が褒めてくれるから、それが得意かな? でも、それしか得意な事がないから、私の方が器用じゃないですよ」


 幼い私なりの、精一杯の慰めのつもりだった。


「ミヨは、強い。俺よりも、心が強い」


「… 勇一様?」


 勇一さんは、空になったカップを静かに置いて、露わになった底を見つめていた。その瞳にいつもの輝きがない事に気が付いて、なんだか心がザワザワした。


「勇一様、お待たせしました」


 何か声をかけたいのだけれど、何てかけていいのか迷っているうちに、細長い店主が大きな紙袋を持って来た。


「いつもの珈琲豆と、ご注文の品、全部入っていますよ。あと、あなた…」


 眼鏡の奥の糸目をへの字に曲げて、店主は私に手招きをした。


「行っておいで」


 反応に困って、店主と勇一さんを交互に見た私に、勇一さんは優しく言ってくれた。

 店主の後に付いて行くと、バックヤードの入り口で足が止まった。足元には、大きめの紙袋が二つ。


「これ、おじさんの娘が着ていたもので、まぁ、お古なんだけれどね。小さくなっちゃったから、嫌じゃなければ… どうかな?」


 紙袋の一番上に畳まれていた一枚を、ワンピースでゴシゴシ擦った手で取って広げた。それは、赤いコールテン生地のフード付きのコートだった。


「これ、頂いて良いんですか?」


 立派なコートが眩しくて、ため息が出た。


「どうぞ、どうぞ。もう、捨てるだけだから」


 ドキドキ興奮しながらも、ソロソロと腕を通して見る。大きめのコートはとても暖かくて、思わずクルクル回ってしまった。


「ありがとうございます!」


「シャツやスカートも入っているから、後で見てね」


 クルクル回ると、少し広がるコートの裾。それがなんだか嬉しくて、店主の言葉に大きく頷きながら、もう少し回っていた。完全に、浮かれていた。


「ありがとうございます」


「おや、着て帰らないのかい? 外はだいぶ寒いよ」


 回るのに満足した私は、コートを脱いでなるべく綺麗に… と畳み始めた。


「奥様に頂いた事を報告してからにします」


「そう、しっかりした子だね。… ミヨちゃん、だっけ?」


 店主が、綺麗に畳んだコートを紙袋に戻す私の名前を呼んだ。その声は、少し戸惑っていたように思う。


「はい、そうです」


「勇一様、ちょっと勉強をし過ぎて疲れているみたいなんだ。考えることも沢山あるみたいで… お仕事忙しいだろうけれど、少しの時間でいいから一緒に珈琲を飲んであげてくれるかい?」


 この頃の勇一さんの異変に気が付いていたのは、この店主が最初だったと思う。奥様も私もお屋敷中の誰もが、勇一さんの異変に気がついては居なかった。


「… はい」


 心配げな店主の声に、私の浮かれた気分は一気に落ち着いた。


「ああ、荷物がたくさんだ。これを使うかい?」


 そう言って、店主はバックヤードの隅から、小さな折り畳みの台車を出して来てくれた。私は有難くそれを借りることにした。


 広げた台車の上には、私の赤いランドセルと洋服の入った大きめの紙袋が2つ。それと、勇一さんの買った大きな紙袋。お客様用の茶器セットは、割れるといけないからと勇一さんが抱えた。


 喫茶店の店主にお礼を言ってお屋敷に向かって歩き始めた頃には、並んだ各店舗のテントや屋根が電飾でキラキラと輝き、所々には店の入り口でサンタや星の電気スタンドや、大きなクリスマスツリーが輝いていたりと、普段とは全く違う様子に私はドキドキワクワクしていた。


「勇一様、綺麗ですね。私、こんなに綺麗な商店街、初めてです」


「綺麗だな」


 押している台車のガタガタという音は、あまり気にならなかった。勇一さんとのお買い物も、初めてのイルミネーションも、私にとっては嬉しいものでしかなかった。



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