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勇一と美世5・『東条』の名前

■おまけの話18 勇一と美世5・『東条』の名前■


 小学校2年生の冬休みは、嬉しい再開でスタートした。奥様が、マリさんの仕事ぶりが余りにも酷いと、お嫁に行ったチヨさんを年内だけ呼び戻してくれたから。久しぶりに見る女中姿のチヨさんに、下女中の私達だけじゃなく上女中の人達や下男の人達も大喜び。


「少し、太ったんじゃない? 腕は落ちていないでしょうね? 足手まといは御免よ」


 なんて、タカさんは嫌味を言っていたけれど、その表情はとても柔らかくてホッとしていたのを覚えている。


 マリさんは、チヨさんと入れ替わりに実家に帰された。冬休みの初日、皆がお客様をお迎えする準備でバタバタしている時間に、マリさんそっくりの中年の女性がお迎えに来ていた。きっと、マリさんのお母様だったのだろう。奥様のお部屋でお話をしている時、奥様の怒号がお屋敷の中に響き渡って、皆が顔色をなくした瞬間は今思い出しても苦笑いが出てくる。


 この年の年末は、勇一さんの妹で、修二君のお姉さんの一美さんが帰ってくる予定だったのだけれど、学校の寮で過ごしたいと言って、前年同様帰って来なかった。

 勇一さんは次期頭首として旦那様や奥様と一緒にお客様のお相手、修二君は私達の邪魔をしながらも、いつもよりは悪戯をしなかった。勇一さんが、弓を教えてくれたから。それまで、修二君を構う事は無かったのに。


 早朝、玄関先の掃き掃除をしていた私の側で欠伸をしていた修二君は、勇一さんの日課の朝稽古に呼ばれた。嫌がっていた修二君を、掃除の手を止めて裏庭に連れて行くと、彼の体格に合った弓と矢を渡された。


「中心を射貫くんだ」


 勇一さんが教えたのは、その一言だけ。修二君は最初こそ渡された弓と矢で悪戯しようとしていたけれど、思うように飛ばないどころか弓を引くことも出来なかった。


「修二」


 目に見えてイライラし始めた修二君の名前を呼んで、勇一さんはいつもより大きくゆっくりと、弓を放った。2本、3本、4本… それは、勇一さんなりの見とり稽古だった。修二君はそんな勇一さんをジッと見て、そのうちマネをし始めた。マネをしても上手く行かず、やっぱりイライラ…


「修二」


 そんな修二君に、勇一さんはタイミングよく名前を呼ぶ。15分もすると、弓を構える姿がマシになった。その5分後には、少しだけだけれど、矢が飛んだ。


「ミヨ! 見た?! 飛んだ!!」


 それがとても嬉しかったのか、修二君はこの日から弓の稽古をするようになった。勇一さんは何も言わないから、見とり稽古と独学で。そんな勇一さんと修二君を、お屋敷の皆は微笑ましく見ていた。


 年末は、そんな感じに想像していたよりずっと平和に過ぎて行った。


 大きな戦力だったチヨさんは、大晦日に嫁ぎ先に戻ってしまったので、年明けのお仕事は忙しく感じた。それでもマリさんが居ないだけマシだと皆思っていたし、サヨさんはあからさまに口にも出していた。


 年が明けると、お見えになるお客様が変わる。年末はお仕事関係、年明けはご親戚。『お客様に失礼がないように』は同じだけれど、やっぱり身内だからか年末程の緊張感は無かったから、疲労感もそれほど感じなかった。


 そんな私達奉公人の正月休みは、松が取れた翌日から順番に3日頂けた。奉公人が休みをとる事を『藪入り』と言っていた時代は、1月16日に1日だけの休日だったらしいけれど、東条のお屋敷ではその頃から変わっていないらしい。ただ、私はその前の年もそうだったけれど、かかるはずの交通費や、本当は休んだ日のお給金を実家に送りたかったので、この年も休みは取らなかった。



「ミヨじゃないみたいだな」


「修二様、そのお言葉は何回も聞きましたよ」


 仕事始めの商店街は、正月休みの余韻が残っているのか全体的にのんびりとしたものだった。共同スピーカから流れる正月の曲を聞きながら、私は勇一さんと修二君とバス停でバスを待っていた。

 屋根付きのバス停の椅子に、私を真ん中にして座って。勇一さんの足元には、弓道の道具一式。修二君はおろしたての洋服やコートを、私は喫茶店の店主に頂いた赤いコートを身に着けて。


「だってさ、今日のミヨはどこもかしこも綺麗だ」


「コートだけですよ。中は、いつもの女中服です。修二様だって、いつもより綺麗なお洋服じゃないですか」


 それは、お正月だからだ。松が取れたと言っても、年が明けて初めてのお出かけ。『東条家の者として恥ずかしくないように』と、お付きの私もそれらしい格好をタカさんから求められた。赤いコールテンのコートの出番だった。


 本当は、頂いたお下がりは全部実家の姉と妹達に送ろうと思っていた。

けれど兄や弟達の分が無いのと、


「貴女は、いつまでそのみすぼらしい恰好で『東条』を名乗るのですか? 下女中とはいえ貴女も『東条』の者。貴女がいつもでもそのような恰好だと、笑われるのは貴女ではなく旦那様や奥様なのですよ」


と、目を吊り上げたタカさんに言われて、そういうものなのかと素直に思った。そして、せっかくだからと、サヨさんが髪の毛をポニーテールに結い上げてくれた。仕上げに髪に結んでくれた赤いリボンは、サヨさんからのお年玉らしい。


「弓を射に行くだけなのに、なんでこんな格好しなきゃいけないんだよ」


 修二君は新しい服が窮屈でたまらないらしい。糊が効いたシャツやほつれのない上着やズボンに、動きを邪魔されてる! と、修二君は少し不機嫌だ。


「稽古始めだからだそうですよ」


 この日は、勇一さんがお世話になっている弓道場の稽古始めだった。


「お正月のご挨拶、ちゃんとしましょうね」


 勇一さんは、思っていたより毎日練習している修二君を見て、道場での練習を体験させようと思いついたらしい。誘うと、修二君は即座に頷いてから言ったらしい。私も一緒に連れて行けと。

 そういう経緯で、冬休み最後の私の仕事は修二君のお付き人となった。


「… 分かってるよ。タカが煩いしな」


 嫌々そうな顔をしていても、椅子から飛び降りて、目の前の道をあっちこっちとキョロキョロしながらバスを待っている姿は、練習を楽しみにしているようにしか見えなかった。


「修二様、あんまり道に体を乗り出したら、車にひかれちゃいますよ」


 行き交う車の台数はそんなに多くはなかったけれど、バス停近くをそこそこのスピードで通って行くから、危ない事には変わりない。修二君に怪我をさせられないと、椅子の方に戻そうとして修二君の腕を取った時だった。


「ミヨ!!」


 修二君の驚いた顔が見えた。私の体が何かに掴まれて浮いと同時に、勢いよく後ろに引っ張られた。


「ミヨ!!」


 私に手を伸ばす勇一さんの必死な顔が見えた瞬間、目の前でドアが閉まった。


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