「…………ん、……」
ジリリリ、ジリリリ、ジリリリ。けたたましいアラームの音が、随分と広い部屋の中へと響き渡る。アラームが耳元で鳴ると、夏怜は眉間に皺を寄せながらその音を止めた。
いつもならば、アラームを止めた後は二度寝してしまいそうになる夏怜。だが、今日は違った。慣れたベッドやシーツで寝ていないという、妙な現実感のなさ。それを肌身で感じると、パッチリと目を覚ます夏怜。
「…………杏樹〜。起きて……」
脳は起きているが、体にはまだ気だるさが残っている。そんな状態でベッドから起き上がれば、隣のベッドで寝ている杏樹を起こそうとする夏怜。
先程、夏怜は二度寝癖があると話したが、杏樹は夏怜ですら比にもならない程に寝起きが悪い人間。アラームをいくつかけたとしても、そのアラームを掻い潜って眠り続けるなんてこともざらにある。人に当たるような寝起きの悪さではないことは、不幸中の幸いだ。
「……ェ〜、……。うン、起きる……」
夏怜に体を揺さぶられながら起こされた杏樹は、渋々と目を覚ましつつ返事をする。夏怜のように、ベッドやシーツが違うからとキッパリ起きれるわけではなさそうで。このまま二度寝すらしてしまいそうな表情を浮かべる杏樹。
気持ちはわかるが、今日は寝坊なんかしてはいけない日。準備や朝食を手早く済ませたら、すぐにホテルのロビーに集まらなきゃいけないから。良心が邪魔をしたが、その良心は杏樹の為にならないと考え、無理やり杏樹から布団を引き剥がす夏怜。
「起きてっ!!」
引き剥がした布団を持ちながら、寝起きとは思えないくらいの元気な声で杏樹に声をかける夏怜。思わず驚いてしまった杏樹は、目を見開いて夏怜を見つめる。
その夏怜の姿に────、家で起こしてくるめるの姿が重なって。そこでようやく、杏樹はハッと目を覚ました。
「……は〜イ……」
怒っためるには下手に出るのと同じように、夏怜にも同様の態度を取りながらノソノソと起き始める杏樹。起きた杏樹を視認すれば、夏怜は持っていた布団をベッドに放り投げて洗面所の方へと去っていく。
今日、正義執行人2人は、ヴェルデ姉妹の護衛を務める。彼女達に、日本とウリフの外交関係が良くなるか悪くなるかが託されているのだ。
「……もうすぐ、お嬢様方がお見えになられます。御二方には、お嬢様方の後方で常に警戒をしてもらいますので……よそ見なんかは厳禁です」
ホテルのロビーにて鷲津と合流した杏樹と夏怜は、空港からホテルまで送ってもらった昨日のように、車でモスクワ中心部へと送ってもらった。鷲津の話によれば、護衛をするヴェルデ姉妹が滞在しているホテルは、モスクワの中心部にあるらしい。
杏樹達が過ごしたホテルよりも階数が多く、いかにも高級そうな雰囲気を纏っているホテル。そのホテルの目の前に到着すると、3人は車から降りる。そして、ホテルの出入口のすぐ側で、鷲津は杏樹と夏怜に最後の注意喚起をする。
「それでは、私は先にお嬢様方をお出迎えに行って参りますので。車の中で説明したとおりに動いてくださいね」
注意喚起は必要だから当然するが、鷲津が杏樹と夏怜に向けている視線は、信頼の視線。実際に2人が動いている所を見たことはないけれど、実績はそれなりにあるし、何より、この状況下で少しも緊張していない。そんな彼女達なら大丈夫だろうと、鷲津は信じていた。
ホテルの中に入っていった鷲津を見れば、静かに口を開いて杏樹に話しかける夏怜。
「緊張は割としてないけど、普通にハードそうな仕事だね……」
「まァ、分かりきッてたコトだシ。腹決めてやるしかないよネ」
護衛の任務を失敗することについては特に恐れておらず、夏怜が恐れていたのは、その仕事の内容だった。昼は言わずもがな、ロシアの街中を歩き回るヴェルデ姉妹の護衛。夜はというと、自家用の飛行船に乗って帰国をするヴェルデ姉妹の護衛。……そう、2人は休憩する暇なんて無いに等しい状況で護衛を遂行するのだ。
帰りの飛行船の中、2人の内どちらかは交代制で仮眠できると鷲津は言っていた。とはいえ、ハードなスケジュールなのは変わらない。少なくとも、これから8時間程度はぶっ通しで立ち続けることになるだろう。
「あたしはソレより、この服装の方が気になるナ〜。やッぱスーツは動きにくいワ」
杏樹は、長時間の仕事よりも、動きにくいスーツを着させられていることを不満げに思っているようだ。昨日着ていたようなカジュアルな服装ではなく、本格的な黒色のスーツ。それらを比べてしまえば、動きやすさに差が出るのは仕方の無いことだろう。
「いつもスーツとか着ない杏樹からしてみれば、たしかに動きにくい服装かもね〜。ボクのスーツは、最大限動きやすくした、多機能付きの特別なスーツだし……。杏樹にも用意してあげればよかった」
「イヤ〜……、そのスーツになると話は別だろうネ。ノリと感覚で扱えるようなモノじゃないでしョ」
夏怜が着ているスーツは、戦地へ足を踏み入れる際に着る用のスーツ。怪盗ヴァイパーとして活動していた時や、紅月との戦闘時にもこのスーツを着用して夏怜は戦っていた。
そのスーツのどこに、どんな機能があるのか。それは、一度彼女と戦った杏樹ですら理解できてない。「怪盗の手札は無限大」と夏怜は言っていたし……。使っていないだけで、本当に様々な機能がそのスーツには搭載されているのだろう。
「……ッと。来たかナ」
雑談をして待っていれば、明らかに宿泊客ではなさそうな、サングラスをかけた黒服の男達が出入口から出てくる。それを見ると、少しだけ姿勢を崩していた杏樹と夏怜は直ちに姿勢を直した。
「だから、前々から言ってるでしょう。早く起きないから準備に時間がかかるのよ」
「お姉様は全然わかってないわっ! 寝れる内にできるだけ寝とくべきよ、減るもんじゃないし」
「時間は減るものよ」
何やら言い争いをしながら現れたのは、今回杏樹達が護衛をする対象の2人。巨大財閥、ヴェルデ財閥の子孫。ヴェルデ姉妹だった。
姉のロシェル・ヴェルデは、大人しく冷静沈着な性格。黒いドレスに身を包み、黒が基調で青も混ざったようなツートーンカラーの髪色をしている。
妹のルシェル・ヴェルデは、お転婆で天真爛漫な性格。白いドレスに身を包み、白が基調で赤も混ざったようなツートーンカラーの髪色をしている。
「……本当に似てるね」
「そうだネ。可愛いシ」
少し髪や服の色が違うだけで、身長や顔立ちは全く同じに見えるヴェルデ姉妹。動き出す前に、夏怜はとても小さな声で杏樹に話しかけた。姉妹が可愛くなきゃ、杏樹はこの仕事を受けてなんかいない。資料の写真だけ写りが良い、なんてことは無くて、杏樹は安心する。
歩いている鷲津からアイコンタクトを貰うと、即座にその列の後ろ側へと動き出す2人。長い長い仕事の幕開けである。
「……どうぞ、お乗りください」
黒服の1人が、高級すぎてもはや黒光りしているリムジンの扉を開き、ロシェルとルシェルを車の中へと招く。黒服に礼なんて言うことはなく、当然かの如く車内へ入っていく姉妹。彼女達からしてみれば、黒服はただのモブでしかないのだろうか?
姉妹がリムジンに乗り込んだのを確認すると、次に鷲津が車内の中へと乗り込んでいく。財閥の執事である彼には、姉妹のそばに居ることが認められているのだろう。
「……失礼しまス」
「失礼しますっ」
鷲津が乗り終われば、次に乗るのは彼女達。特別な護衛である、杏樹と夏怜だ。リムジンに乗れるのは、運転手を除けば、姉妹2人と執事1人、護衛2人。計5人である。
英語やフランス語ではない、聞き慣れぬような言語を発しながらリムジンに乗り込んできた彼女達。そんな2人を見ると、妹のルシェルは、目を丸くしながら興奮気味に口を開いた。
「ねぇ、シュリィ。彼女達は、もしかして日本人っ?」
鷲津は、どうやらルシェルからシュリィと呼ばれているようだった。彼のミドルネームである、シュレイダーを文字った愛称なのだろう。
「ええ、左様で」
ルシェルからフランス語で質問をされると、冷静にフランス語で答えを返す鷲津。鷲津の答えを聞くと、ルシェルはにんまりとした笑みを浮かべて杏樹と夏怜が居る方を向き直す。
「ようやく、お姉様とシュリィ以外の人間と日本語で会話をできるのねっ!」
目を輝かせて、ルシェルは元気な声で杏樹と夏怜にそう言い放った。言葉をかけられた2人は、思わず驚いてしまう。その言葉の内容を理解するよりも、先に────。ルシェルが放っていた言語が、フランス語から日本語に切り替わっているのに気づいたからだ。
てっきり、会話をすることは基本的に無いし、もしするとしても鷲津を通訳にして話すと思っていた2人。驚いてしまうのも無理はないだろう。
「……驚かせて申し訳ないわ。私もルシェルも、日本語を話せるの」
目を点にして驚く夏怜、真顔だが驚いてはいる杏樹。返しにくそうな言葉をかけられた2人を見かねて、姉のロシェルも口を開いて2人に喋りかける。ルシェルと変わらず、流暢な日本語で。
「……感激でス。まさか日本語を話せるとは思ッてもいなかッたので……」
いち早く自分を取り戻した杏樹は、いつもなら絶対に使ったりしない敬語で姉妹に言葉を返す。それを見ると、真っ先に思う夏怜。杏樹、めっちゃ猫被ってるじゃん……と。
好奇心旺盛で、こんな状況なら絶対にマシンガントークを展開するであろう夏怜。しかし、今回に限っては、夏怜は無闇に口を開くことができなかった。失言でもしてしまえば、姉妹からの評価が下がってしまうのではないかと思っているからだ。
「日本とは友好国だし、執事が日本人なのもあって、何年も前から習い始めたの。習得するのは難しかったけれど」
「マンガとかアニメとか、日本には面白いものがいっぱいあるでしょう? それをちゃんと理解するためと思えば、苦ではなかったわ!」
ゆっくりと動き出した車内の中、興味深そうに杏樹と夏怜を見つめながら代わり代わりに話す姉妹。見つめ返している内に────、夏怜は、あることに気づく。
見つめられてなきゃ、気づけなかったことだろうが……。この姉妹、左右の目の色が違うような? ロシェルは、左目が深い青色で、右目が淡い青色。それと対称的に、ルシェルは左目が淡い青色で、右目が深い青色。観察眼が鋭い夏怜だから気づけたことだ。
「……あぁ、自己紹介をし忘れたわね。知ってるとは思うけれど……私はロシェル、そのままの名で呼んでもらって構わないわ」
「私はルシェル、ルシェルって呼んで! ……それで、貴女達は?」
姉妹ならではのコンビネーションで、あっという間に会話を進めていく2人。自己紹介を勧められると、杏樹と夏怜は顔を見合わせて、どちらから先に自己紹介するかをアイコンタクトで会話した。
「……あたしは、朽内杏樹でス」
「ボクは、丹波夏怜って名前です!」
先陣を切った杏樹の挨拶に続くように、夏怜も慣れない敬語を使いながら名を名乗る。
「アンジュ、カレン……いい名前ね!」
「1日もしないまま別れるとは思うけれど、よろしく。貴女達の腕を疑いはしてないから安心して」
護衛というのに、もっと堅苦しいイメージを持っていた2人。否、普通ならば絶対にそうなのだが……。ロシェルもルシェルも日本が好きということが相まって、柔らかい雰囲気から仕事を始めることができた。
きっと、彼女達が護衛を失敗しない限りは、日本とウリフ共和国の外交関係が崩れてしまうことはないだろう。ヴェルデ姉妹だって、杏樹が思っていたような、嫌味な子孫というわけではなかったし……。杏樹と夏怜の腕次第とはいえ、平和に終わる確率はかなり高い。そんな観測が見え始める車内のひと時であった。
護衛の仕事が始まってから、半日経たないくらいの時間が過ぎ去った。モスクワにある高級そうな店を巡りに巡るヴェルデ姉妹に、振り回される黒服達。その黒服達には、勿論護衛の2人も含まれていた。
姉妹がレストランで昼食を摂っている時も、護衛にとっては休憩の時間なんかではない。護衛中に2人が唯一口に出来たのは、移動中に食べた1口サイズの乾パンのようなものだけだった。
「……流石に、お腹空いたね〜」
「そうだネ。あと4時間くらいの辛抱だシ、それくらいなら我慢できるでしョ」
仕事中にも関わらず、私語をする夏怜と杏樹。それもそのはず。彼女達の周りには、ロシェルもルシェルも、鷲津や他の黒服さえ居なかったからだ。
正義執行人2人は今、ロシアのとある飛行場に居る。2人の、護衛としての最後の仕事。それは、姉妹と一緒に、彼女らの母国であるウリフ共和国へと帰ることだ。財閥が所有している飛行船に乗って、最後まで護衛をしながら仕事を終える。これが、ヴェルデ財閥に依頼された護衛の内容である。
「にしても、この飛行船ッてのは凄いネ」
目の前の飛行船を見上げながら、杏樹は呟く。少し昔まで……それこそ、杏樹や夏怜が産まれる前までは、広告宣伝なんかで日本国内で飛行船を見ることは少なくなかった。しかし近年は、高層ビルの発達等が理由で、飛行船を見ることがほぼできなくなってしまっている。
広告宣伝が目的ではない、人間の移動手段としての飛行船。それも、大昔に役目を終えているはずだが……。金持ちというのは物好きな人間が多いし、人目を気にするもの。ヴェルデ財閥は、大型飛行船を移動手段に利用することで、他の財閥とは根底から違うということを示したいのだろう。
「うん、飛行機よりもかっこいいし凄く見えるよね~!」
普段の夏怜ならば、もっと目を輝かせて食いついていてもおかしくはない。だが、昨日ロシアに降り立ってからは、正に非日常の連続。目の前の飛行船なんて非日常の象徴だったが、既に夏怜は非日常慣れをしているかのような様子であった。
「……あぁ、居た居た。すみません、トラブル対応をしていて遅れました」
飛行船の前で律儀に待っている杏樹と夏怜を見ては、そう話しながら駆け寄ってくる鷲津。
「トラブル〜? あたし達の仕事に支障は?」
「特にはないかと。トラブルといっても、船内警備員の人数等に不備があっただけですので」
鷲津が対応していたトラブルは、船内に怪しい人物や傷がないかを確認する警備員の人数についてのこと。想定されていた人数よりも2人程度多かったらしいが、全員正規の警備員であることは確認できたし、居ても特に困らないということで、大きなトラブルにはならずに済んだらしい。
姉妹を船内に案内し終え、次は杏樹と夏怜を飛行船の中へと案内していく鷲津。……その頃、飛行船内では。警備員達が自分の持ち場に着いて、飛行船が離陸するのを今か今かと待ち侘びていた。
「……ん? お〜い、何だこの荷物」
船内倉庫に居た2人の内の1人の警備員が、床に置かれている黒色の大きなバッグを見ると、懐中電灯でそれを照らしながら言葉を漏らす。1時間前に倉庫を確認した時は、置かれてなんかいなかったバッグだ。
話しかけられたもう1人の警備員は、懐中電灯で道中を照らしつつ、その荷物がある方へと寄っていく。
「……あぁ、これか? ロッカールームのロッカーに入らなかったから、警備員の荷物とはいえ仕方なくそこに置いてるらしい」
「ほぉ。こんな大荷物、必要無いと思うけどな。中には何が入ってるんだか」
きちんとチャックが閉められているバッグの中身が気になって、中を覗き込もうとする警備員。たかが何時間か警備をするだけなのに、こんな大荷物を持ってくる必要はない。
金属検査はされているだろうし、危険な物が入ってる確率は限りなく低い……とはいえ。チャックを開けた警備員は、バッグの中を懐中電灯で照らして中に入っているものを確認する。
「…………ッ!!」
確認をした、その瞬間。いつの間にか背後に立っていたもう1人の警備員の手のひらで、口元を覆われる警備員。それと同時に、手のひらで無理やり相手の口元を覆った警備員は、袖口に隠していた小型のナイフを抜いた。
「……恨むなら、自分を恨め。勝手に確認しなけりゃ死なずに済んだのに」
言葉を吐くと同時に────。抜いたナイフを、警備員の頸動脈に突き刺す男。鋭い痛みが警備員の首元を襲うが、背後の男に口元を強く抑えられているせいで、警備員は悲鳴すらあげることができなかった。
抵抗をしなきゃいけない状況とは理解しているのに、体が動かない。自身に死が近づいてきているということを、警備員は酸素が不足してきた脳でじんわりと理解するのであった。
「…………、……」
死の間際。警備員は、存在に気づく。自身が開けたバッグの中には────。人間が居た。