「……はァ〜〜。……わかりきッてはいたケド、ほンとにムズいわ……」
めるの家から徒歩5分の、とある公園にて。綺麗に整えられた芝生の上に座った杏樹が、長くため息を吐いてから続けて言葉を吐き始める。
杏樹のすぐそばで自身の腰に両手を添えながら立っているのは、先日杏樹と仲直りを果たした紫雨だった(はたして喧嘩だったのかは怪しいラインだが)。紫雨による杏樹への合気道の指導は、今日でちょうど1週間を迎えていた。
「まぁ、そんな簡単に大技の1つや2つを覚えられたら努力なんて必要ないしね〜。今はただ基礎的な動きとかを完璧にしてもらうくらいしかできることがないかな」
別に心が折れたわけでも、大きな弱音を吐いているわけでもないが……。一言だけ言葉を発した杏樹に、紫雨は声をかける。
今杏樹がやっている練習に、これといった技はなく。軽く体操をしてから、手首の間接の曲げ伸ばしや、屈んだ状態で移動する合気道特有の動きである膝行の練習をし。それが終われば次は、受け身の練習や、相手の力を綺麗に受け流す練習をひたすら重ねる。ただひたすら、それらを、ずっと。
「……難しいとは言ってるけど。杏樹ちゃんが身体的にも精神的にも柔軟なおかげで、普通の人なら半年かかってもおかしくないような細かいことを教えられてるし。センスがあるのか知らないけど、受け身は8割近く完璧にできてるし……」
合気道に触れるのは初めて……とはいえ。仮にも杏樹は戦闘の天才。受け身をしっかりと習ったことはなくても、これまでの戦闘中、無意識の内に自己流の受け身は何度もしたことがある。空手の正拳突きや、ボクシングのジャブ、柔道の背負い投げでさえ。少しの知識という食材に自分の強さと経験というスパイスを混ぜれば、杏樹は世に存在するほとんどの技を会得することができた。
なのにも関わらず。杏樹のような人間でも合気道の技は簡単に会得できない、と紫雨が言うのには、ワケがあった。
「……焦ッてもいないシ、急いでもいなイ。その上で、単純な質問として聞くケド。8割できてりゃ、技もきッとできるンじゃないノ?」
「……う〜ん。そうだなぁ。まぁ、杏樹ちゃんの言ってるとおり、簡単な技くらいなら私もできると思うけどね。教えないのにも理由がある」
杏樹の質問に対し、変な思考を浮かべたりすることはなく。紫雨は淡々と言葉を返していく。
「技……というか、技術には、大きく分けて3つの種類があるんだよね。1つ目は、ただ合気道という武道をやる上での技術。これはきっと、杏樹ちゃんでもできるようなものばっか」
そもそも合気道は、試合や競技としては行われず、自己鍛錬を第一の目的としている武道。予め決まっている相手の攻撃を受け流して制する合気道、という範囲内の技術なのであれば、きっと杏樹でも簡単にできる。紫雨はそう言った。
「2つ目は、より実践的な状況で使える技術。杏樹ちゃんが求めているのはこれか3つ目なんだろうけど……、1つ目と比べて格段にレベルが上がるから、今の杏樹ちゃんじゃ多分使いこなせない」
1つ目から一気にレベルが上がる、実践的な技術……というのは。合気道という武道の範囲内に囚われない、様々なシチュエーションに対応できる技術である。
たとえば、街中で暴漢に襲われた時。たとえば、コンビニ強盗に出くわして、刃物を突きつけられた時。たとえば、空手家やボクサーと戦わねばならないことになった時────。そういった、予期せぬ戦いが起きた際に使える技術。それこそが、より実践的な状況で使える技術というやつだ。
「3つ目は……、上の段位の人達や、私みたいな物好きが追い求める、まだ誰も完璧に使いこなせていない未開の技術。あの握手で相手を崩す技は、メジャーとはいえここに入るかなって感じ。最も分かりやすい説明は、物理法則や人間の力を完全に超越した技術……かな」
「ほ〜…………」
合気道を何十年と続け極めてきた達人でも、未だ追い求めるしかできないような技術。そのような技術をぽっと出の人間が会得するなんて、たとえそれが漫画の主人公だったとしても不可能に等しい。そりゃまあ当たり前だ、なんて、杏樹は心の内で静かに納得する。
「3つ目の技術は論外として。2つ目の技術は、飲み込みの早い杏樹ちゃんならきっといつか覚えられるはず。だからこそ、まだ癖もない真っ白な状態の杏樹ちゃんには、期待の意味合いも込めて基礎だけを叩き込んでる。完璧で綺麗な基礎さえあれば、2つ目の技術を覚えようと思った時に楽になるから」
「……ふ~ン……」
詳しく、それでいて分かりやすく説明をしてくれる紫雨に、杏樹はふと思う。きっと彼女は、合気道という武道が大好きで、真摯に取り組んできたのだろう……と。
普段日常生活を送っている際は、どこかちゃらんぽらんとしていて、なんだかスカしたような印象を受ける彼女だが。合気道を教えてくれる際だけは、意地悪も何もせず、ただ自身の合気道の上達を願って親身に指導をしてくれるのみ。
根は真面目なのか、ただ合気道が好きなだけなのか。それはわからないが。九十九道場で少しだけ話をした、元館長の九十九豹人のような……。そんな達人のような器すら、杏樹は紫雨に対して感じていた。
「……うッし、休憩はココらで終わらせて。もう少し固めるとシようかナ、その完璧で綺麗な基礎ッてヤツを」
芝生の上に座っていた杏樹は、休憩も終わりにして続きをしようと、よっこらせなんて言葉を吐きながら立ち上がる。
────そこに。近づく人の影が1つ。視界の端にその人物が映っていた杏樹も紫雨も、その方を向くと……。
「アレ。桜李ちゃン」
その人物は、杏樹が見たことがある人物。……それどころか、国会議事堂という同じ空間で、一緒にテロ組織の紅月と戦った人物。そう。現九十九道場の館長である、桜李であった。
「やっぱり杏樹だよな! スタイル良いし、遠くから見てもすぐにわかったわ」
「ェ、急な褒め言葉~? 惚れちゃウ」
目の前の人物が杏樹ということが確定すると、安心したような顔つきになって言葉を発する桜李。この公園はめるの家のすぐ近くだし、スタイルが良い黒髪ロングの女性が居たら杏樹ではないかと疑ってしまうのも無理はない。
「ここら辺に居るなンて珍しいネ。道場の近くでもないシ」
「あ~、それはな。この近くにある大きめの道場で、近々合同練習会があるんだが。その道場の下見に行ってきた」
「へェ~。頑張ッて」
試合や練習会の会場の下見に行くというのも、団体の責任者として当然といえば当然のことだが。責任者としての自覚を持った行動を、まだ20代前半の彼女がしている。そんな桜李は、立派以外の何者でもなかった。
「一瞬、隣に居る方がめるに見えたけど。よく見たら髪は短いし、杏樹と同じくらいの身長だし。まぁ普通に考えて違うよな~……」
「ハハ、半分は正解だけどネ」
「……半分は……?」
杏樹と一緒に居る人物がめるに見えたが、どうやら勘違いだったようだ。笑みを浮かべながら、桜李はそう言ったのだが……。紫雨の正体を既に知っている杏樹は、紫雨がめるの親族であることを匂わすような発言をする。
「君、めるのお友達なの~?」
「えっ。……そうだけど……じゃなくて。ですけど……」
桜李の口から「める」というワードが出ると、興味なさげだった雰囲気から一変して、自分から進んで桜李に話しかける紫雨。そういった雰囲気もなしに、いきなり話しかけられたからか、桜李は珍しく若干引いているような様子を見せた。
「めるはお友達が多くていいねぇ、しかも強いお友達ばっかり。……あ、私はめるのお姉ちゃん。紫雨って言いま~す。よろしく~」
「あ、めるのお姉さん……なるほど! 自分は九十九桜李って言います! めるは一応高校の同級生で……今でも一緒に飯とか食います!」
敬語を使うのが苦手な桜李が、敬語を使って話している。大人として成長してるから、というのは、理由としてもちろんあれど……。同級生の兄弟や姉妹に会った際は、自然と緊張して敬語が出てしまうもの。既に高校を卒業して、同級生が元・同級生になっていたとしても、それは例外ではなかった。
自分があのとてつもない合気によって崩された時も、こんな雰囲気だったし。桜李も、もしかしたら紫雨の合気の餌食になるのではないか、なんて杏樹は思っていたが……。
「いいね~。機会があれば今度めるも連れてご飯行こうよ」
「お、是非是非!」
……まぁ。自分が合気をかけられたのは、自分が怪しい人間であるからであって。高校時代に妹と仲が良かった同級生という、怪しくないどころか信用すらできるような人間に、わざわざ食いつくような真似はしないよな。良い雰囲気で会話をする2人を見て冷静になった杏樹は、スンとなりながらそう考える。
「……杏樹とも紫雨さんとも、色々話したい所だけど! 今日は早めに道場を開けなきゃいけないし、また今度のお楽しみにしておくわ!」
挨拶も兼ねた紫雨との会話を済ませた桜李は、杏樹の方へと振り向いて、自分はもう行くという旨の言葉を発した。
「あらら、そッか。また近々、暇な時にでも道場に顔出すネ」
「いつでも来てくれ、みんな喜ぶし!」
「連絡先は……いいや、後でめるから貰っといて。頑張ってね~、剣道」
「あざっすっ!」
杏樹からも紫雨からも、ひと時の別れの言葉を貰い終えると、手を振りながら公園を去っていく桜李。
出会った初めの頃は、威勢のいい狂犬とか狼とか、そんな印象の桜李だったが……。丸くなったというか、大人らしくなったというか。剣道をしている時のオーラは変わらずとも、可愛らしい小さな犬のような印象を、杏樹は桜李に持つようになっていた。
「……気を取り直して。集中が途切れてないなら、続き。しようか」
「は~イ、師匠。なンてネ」
桜李の姿が完全に見えなくなると、再び杏樹への指導を始めようとする紫雨。怠け者で面倒くさがりな杏樹が、わざわざ誰かの指導を受けてまで何かを覚えようとしているなんて、いったい誰が信じれるだろうか。
戦闘の天才が努力し、紫雨のような……否、それ以上の能力を持てたのなら────。いよいよ、誰の手にも負えないような、怪物になるのではないか。悪くなっていく治安の中。杏樹も、強大な力を得ていく。正義の執行のために。関わる人間を、守るために。
「……ん? 待てよ……」
公園を出て、駅まで向かっていた桜李は、ふと自身の顎に片手を当て、なにか物事を考えるような仕草になってから立ち止まる。
「……めるにお姉ちゃんが居ることは知ってたけど。たしか、とてつもない元ヤンとかって噂があった気が…………」
眉間に皺を寄せて、桜李は高校時代の記憶を思い出していく。めるにはたしか、3つとか4つ離れた姉が居て……。なんとなく立っていた噂によると、その姉はまさに鬼の如く怖くて、地元では名を知らない者は居ないくらいの元ヤンだったのだとか。そんな記憶が、紫雨と別れた今になって舞い降りてくる。
……しかし。桜李は、その記憶を思い出したとしても、紫雨が元ヤンであるとは思えなかった。普通に優しいし、雰囲気も柔らかかったし。紫雨が元ヤンであるなんて、第一印象からは全くと言っていいほど想像がつかない。
「……ま、噂は噂だしな! 多分噂の元ヤン自体が別人だったんだろ」
本人に聞かなきゃわからないことを深く考え続けるのも、無駄なこと。パッと思考をリセットすると、立ち止まって思考していた桜李は、また駅に向かって歩き出した。
「……こないなとこ、やな」
同日、同時刻。場面は、風見鳥組の本部事務所の、とある1室へと移り変わる。個人向けに作られたとしか思えないような面積や内装のその1室は、組で2番目に権力を持つ若頭が、仕事をするための部屋。
風見鳥組の若頭といえば────、そう。組の長の血を継いでいる、例の京都弁の女性。風見鳥花恵である。
「シノギはええし、ほかの組との外交も良好。特に百鬼や百合園組とは、協定も結んどるし……」
机に置いたパソコンを目の前にして、画面を見つめながら花恵は独り言を呟いていく。見つめながらといっても、その糸目が開いているか開いていないのかは、本人のみぞ知るが……。
「……半グレが居らへんかったらなぁ~。最近は多すぎてたまらへんわ……」
花恵はどうやら、近頃半グレが増加傾向にあるということに不満を持っているようで。思わずため息を吐いてしまっていた。
半グレとは、極道やマフィア等のいわゆる暴力団に属さずに犯罪行為を行う集団のこと。明確に組織としての繋がりや構造を持つことが少なく、暴力団対策法にも引っかからないため、近年その存在がどんどんと増えてきている。
「そういや、最近は素性不明すぎる半グレが増えてきとるって言うとったな。……誰か、もしくは大きな組織が裏で糸を引いとるっちゅう可能性も…………」
若くして花恵が若頭という地位にまで上り詰めることができた理由。様々な理由が重なっている、というのは明らかだが……。理由の1つとして上がるのが、彼女の頭脳。疑い深さ、洞察力、計算力、言語力等。様々な面において花恵は頭が良く、それを組のために向けることで、貢献を重ねることができていた。
今回だって、治安が悪くなっている……で終われば、良くはないとは言えどそれで良しなのだが。もしかしたら、何かが起こる予兆なのかもしれない。
……なんて花恵が考えていると。誰かが部屋の扉をノックする音が響いてきた。
「どうぞ~」
「失礼いたします」
普段は、あまりこの部屋に自分以外の人間が立ち入ることはないが。なにか起きたりしたのかと思いつつ、花恵はすぐに誰かが部屋へ入ることを承諾する。
礼儀正しい言葉と共に入ってきたのは、舎弟の中で1番偉い舎弟頭という立場の、
「どうしたん、珍しいな。渡」
「……たった今、連絡が入ったのですが。江東にある事務所が、何者かによって襲撃されたようです」
「……ほぉ~ん……??」
渡によると、江東区にある風見鳥組の事務所が、誰かに襲撃されたらしく。それを伝えられると、意外と落ち着いたような反応を見せた花恵。
「同業者か、半グレか。どっちやろな~」
「……それが。どうか驚かないで聞いてほしいんですが……」
相手が同業者であったとしても、半グレであったとしても。予告もなし前兆もなしに襲撃をされたのだから、相手がわかり次第の報復はほぼ確定。
どちらが相手だったとしても、落とし前はつけさせる……という意思を見せた花恵だったが。そんな彼女に対し、渡は頬に汗を浮かべて何かを伝えようとする。
「若頭は……輝煌山レナ、って知ってます?」
「輝煌山レナ……流石に知っとるわ。未だ指名手配中の子やろ? コッチの世界じゃ、正義執行人が処理できなかったって噂の」
「そう、そのレナです。……そのレナが……、襲撃の現場に居たって連絡が、この写真と同時に……」
襲撃された……はまだしも。加えていきなり指名手配犯の名前を出し始めるなんて、いったい何かと花恵は思ったが。
渡が近づいてきて、携帯の画面を見せてきて────。その画面を見た瞬間。花恵は口を開いて絶句する。
携帯の画面に、たしかに映っていたのは。頬に返り血を浴び、2本のサバイバルナイフを両手に持って立っている、レナの姿だった。