巻ノ三十九 天下人の耳
信之と幸村がそれぞれ徳川家、上杉家の人質となりそのうえで文武を学んでいると聞いてだ、羽柴秀吉は大坂城において彼の弟である秀長に言った。
「二人共かなりの出来物であるな」
「そのことを兄上もですか」
「うむ、聞いた」
猿面を綻ばしての言葉だった。
「それで思うのじゃが」
「二人のうちどちらかを」
「ははは、わしがそこまで欲が浅いと思うか」
「では」
「両方どころかじゃ」
「真田家自体をですか」
「欲しくなったわ」
家の息子二人が共に出来物と聞いてだ。
「真田家自体がな」
「それでは」
「うむ、では真田昌幸をな」
主である彼をというのだ。
「重く用いてな」
「そのうえで」
「羽柴家に完全に入れたいのう」
「真田家の人とですな」
「そして上田の地を抑えてな」
「徳川、上杉をですな」
「共に牽制したい」
上田を治める真田家を完全に組み込んでというのだ。
「そう思うがな」
「そうですか、しかし」
「それでもか」
「真田家自体を組み込むにはです
秀長は兄に苦い顔で言った。
「少しです」
「遅かったか」
「はい、既に嫡男の源三郎殿には縁組の話が浮かんでいるとか」
「徳川家からじゃな」
秀吉はすぐに察して弟に言葉を返した。
「そうじゃな」
「はい、主である竹千代殿には娘御は今はどなたも嫁いでおられますが」
「それでもじゃな」
「四天王のお一人である本田平八郎忠勝殿の娘御が」
「源三郎にか」
「そうお考えとか」
「それはしまったな」
そう聞いてだ、秀吉はすぐに困った顔になった。
「わしとしたことが動きが遅れたわ」
「そうですな、この度は」
「両取りは出来ぬか」
「はい、しかしです」
「もう一人はじゃな」
「いけるかと」
「まだ上杉家から手は出ておらぬか」
幸村が今いるこの家のことをだ、秀吉は問うた。
「あの家からは」
「はい、あの家はそうしたことは不得手です」
「縁組は、じゃな」
「先の謙信公が奥方がおられず」
毘沙門天を信仰し生涯妻帯せず女人を一切近付けなかった、それで縁組のことを知る筈もないのだ。
「今もです」
「そうしたことには疎いな」
「左様です、ですから」
「まだ手が届いておらぬか」
「ですから次男の源四郎とです」
「真田家はじゃな」
「まだ取り込めますが」
「そうか、ではな」
「はい、次男の源四郎とですな」
「あの家と上田は取り込もう」
秀吉は秀長に確かな顔になり言った。
「今から手を伸ばしてな」
「それではどうされますか」
「そうじゃな、丁度桂松の娘がいい歳になろうとしておる」
大谷吉継の、というのだ。
「だからな」
「あの娘をですな」
「源四郎の嫁にやるか」
「そうされますか」
「桂松は天下の柱となる者じゃ」
秀吉はそう見ているのだ、吉継は石田三成と共に将来羽柴家の天下を支えるだけの者であるとだ。
「その娘をな」
「源四郎にやりますか」
「そうしよう、一度あ奴を見てな」
「そのうえで」
「決めようぞ」
「では一度」
「この目で源四郎を見たいが」
「それではです」
そう聞いてだ、秀長は兄にすぐに言った。
「それがしに考えがありますが」
「上杉家をじゃな」
「この大坂か都に呼び」
「その時にじゃな」
「源四郎も連れて来る様にとです」
「言うのじゃな」
「そうしましょうぞ」
これが秀長の考えだった。
「是非」
「うむ、ではな」
「その様に」
「どのみち上杉家のな」
「お二人にはですな」
景勝と兼続のことだ。
「兄上は」
「欲しいと思っておる」
愛嬌のある笑みでの言葉だった。
「家臣にな」
「兄上はやはり」
「欲が深いか」
「はい、人については」
「ははは、さっきも言ったがわしは欲が強く深い」
「人を集めることについては」
「おなごも好きじゃが男もじゃ」
家臣としてだ、秀吉は衆道には興味がないのでそうしたことで男を求めることはない。しかし人を集めることについてはなのだ。
「好きだからのう」
「それで、ですな」
「うむ、それでじゃ」
実際にというのだ。
「あの二人も欲しい」
「特に直江殿を」
「羽柴家に加えたいのう」
「だからこそですな」
「声をかける為にもな」
「呼ばれますな」
「そうするとしよう」
こう話してだ、そしてだった。
秀吉は上杉家に人をやることにした、その言うことはもう決まっていた。
その話を聞いてだ、景勝はすぐに自分のところに兼続を呼んで問うた。
「どう思うか」
「はい、今回のお呼び出しはです」
兼続は景勝に畏まって答えた。
「殿とそれがし、それにです」
「源四郎殿をじゃな」
「羽柴家に入れられたいのでしょう」
「やはりそうか」
「関白様はとかく人を集めたがります」
「家臣としてな」
「多くの家から家臣を引き抜いています」
「石川殿だな」
石川数正のことをだ、景勝は言った。
「あの御仁もな」
「はい、他の方もです」
「他の家から人を抜き家臣を増やし」
「同時にその家の力を奪います」
「まさに一石二鳥」
「それが為にです」
まさにというのだ。
「殿もそれがしもです」
「そして源四郎殿も」
「特にです」
兼続は景勝に強い声で話した。
「それがしかと」
「そうであろうな」
「関白様はそれがしを家臣にしたいです」
「その為に我等を呼ぶか」
「そして源四郎殿も」
幸村もというのだ。
「ですから」
「ではどうすべきか」
「それがしの考えは変わりませぬ」
兼続は確かな声でだ、景勝に答えた。
「誓って」
「御主は他の家には行かぬ」
景勝自身も言った、それも強く。
「決してな」
「その通りです」
「だから御主を関白様の前に連れて行く」
絶対にというのだった。
「そして話すのじゃ」
「それがしの口から」
「そうせよ」
「わかりました」
「そして源四郎殿もまた」
兼続は彼のことも話した。
「心配無用」
「あの方は真田家から離れず」
「それにじゃ」
さらにというのだ。
「あの御仁は禄や銭、宝では動かぬ」
「義ですな」
「義のないところに動かぬ」
決してという口調での言葉だった。
「だからな」
「それがしも源四郎殿もですか」
「共に連れていく」
「都に」
「そして大坂にもな」
即ち秀吉の前にというのだ。
「上洛するぞ」
「畏まりました」
「源四郎殿にも伝えるとしよう」
この話をというのだ、こう話してだった。
「このことはな」
「ではそれがしから」
「頼んだ」
口数少なくだ、景勝は兼続に告げた。そしてだった。
幸村は己の屋敷に来た兼続からその話を聞いてだ、まずはだった。
驚いた声でだ、兼続に問い返した。
「それがしがですか」
「はい、殿と共にです」
「直江殿もご一緒で」
「上洛してです」
そのうえでというのだ。
「関白殿下にお会いすることになりました」
「関白様ご自身がですか」
「そう言われています」
「何と」
その話を聴き終えてだ、幸村は言った。
「信じられませぬ」
「しかしです」
「関白様がそう仰るのなら」
「是非です」
幸村もというのだ。
「ご一緒に」
「では」
「それでは我等もですか」
「殿と共に」
十勇士達もここで兼続に問うた、彼等は今も主と共にいるのだ。
「都、そして大坂にですか」
「上洛ですか」
「無論です」
兼続は彼等にも答えた。
「貴殿達もです」
「殿のお供で」
「そのうえで、ですな」
「上洛して」
「そして、ですか」
「そうです」
まさにというのだ。
「関白様の御許に」
「まさかと思いますが」
「我等も関白様へのお目通りとか」
「そうなりますか」
「そうなるやも知れませぬな」
兼続は十勇士達のその言葉に笑って答えた。
「それは」
「そうですか」
「我等が天下人にお目通りが適う」
「殿と共に」
「そうなるのですな」
「そうなるやも知れませぬ」
まただ、兼続は十勇士達に述べた。
「その時はどうぞ」
「ううむ、何か凄いことになっていますな」
「殿だけでなく我等も天下人にお目通りとは」
「若しかしたらにしても」
「それでも」
「では貴殿達もです」
また言った兼続だった。
「上洛について来て下さい」
「はい、では」
「それではです」
「我等も上洛します」
「これより」
「殿と共に」
十勇士達も応えてだ、そしてだった。
彼等も上洛することになった、幸村は彼等と共に上洛することになった。そのことを決めてからそのうえでだった。
彼等はその用意に入った、その中で。
ふとだ、幸村は十勇士達に言った。
「思えば拙者は前にもな」
「はい、上洛されていますな」
「我等と出会った旅」
「あの時に」
「そして御主達と共に都に入り大坂にも行った」
この時のことをだ、幸村は笑みを浮かべて語った。
「今もよく覚えておる」
「そして再びですな」
「上洛ですな」
「そしてまた都を見ますな」
「大坂も」
「あの豆腐屋は元気であろうか」
この店のことも言うのだった。
「そして大坂もな」
「あの時は城は築いている最中でしたが」
「その大坂城もですな」
「既に完成しております」
「一体どんな城になっているか」
「見てみたいな」
是非にと言うのだった。
「あの城も」
「はい、それでは」
「これよりですな」
「あの城にも行くことになりますし」
「是非見ましょう」
「天下の城になっていると聞いておる」
その大坂城はというのだ。
「それならな」
「その大坂城をですな」
「是非見たい」
「それが殿のお考えですな」
「うむ」
その通りという返事だった。
「だから楽しみじゃ」
「やはりこのままです」
「天下は羽柴家のものですか」
「随分固まってきましたが」
「このまま」
「うjむ、跡は三次秀次殿が継がれるという」
幸村はこのことから述べた。
「あの方はやや物足りぬところもあるが」
「跡継ぎとしてはですか」
「関白様になられるには」
「充分ですか」
「今の羽柴家は家臣の方々も揃っておられるし」
それにというのだ。
「弟君のな」
「羽柴秀長殿ですか」
「あの方もおられる」
「だからですか」
「あの方がおられるならですか」
「大丈夫であろうな」
こう言うのだった。
「まずは」
「そうですか、では」
「これからはですか」
「羽柴家の天下ですか」
「それが続きますか」
「関白様には実のお子がおられぬ」
幸村はこのことを強く指摘した。
「それが羽柴家の泣きどころであったが」
「それが、ですな」
「なくなっていた」
「それで、ですな」
「どうなるかわからなかったのですな」
「しかし跡を継ぐ方がおられる」
その秀次がというのだ。
「ならばな」
「安心出来ますか」
「それだけ」
「そうであろう、おそらくこれからな」
幸村は先のことも話した。
「西国攻めとなるぞ」
「西国、九州ですか」
「既に山陽、山陰、四国は収まっています」
「しかし九州はまだ」
「では、ですな」
「九州じゃ」
まさにその地をというのだ。
「攻めることになるな」
「ですか、では」
「次は、ですな」
「九州で戦ですか」
「そうなる」
こう言うのだった。
「そしてその時はな」
「我等もですか」
「出陣ですか」
「そうなりますか」
「九州に向かって」
「そうですか」
「なるであろう」
幸村は十勇士達に答えた。
「まさにな」
「そうですか」
「九州にですか」
「行きそして」
「戦う」
「そうなりますか」
「相手は島津家となる」
この家の名前を出すのだった。
「薩摩のな」
「あの家は最早」
根津は島津家と聞いて言った。
「薩摩からです」
「うむ、北を進みな」
望月も応えた。
「龍造寺も殆ど倒したしな」
「大友もじゃな」
清海はこの家の名前を出した。
「耳川で破ったな」
「もうあの二家は島津の敵ではない」
こう言ったのは海野だった。
「九州はこのままではな」
「島津家のものじゃな」
由利ははっきりと言った。
「もうすぐ」
「そうなる前にか」
穴山は九州の先を見ていた、彼なりに。
「羽柴家は攻めてか」
「九州で沙汰を下しですね」
伊佐の声は静かなものだった、ここでは。
「天下のものとしますか」
「おそらく島津家は九州を統一してから従うにしても」
ここで言ったのは筧だった。
「その前に天下人としてはか」
「そうであろうな」
霧隠は筧に言った。
「沙汰を下したいのだろうな」
「では近いな」
猿飛は戦がはじまることについて述べた。
「九州での戦は」
「そうであろう、だからな」
幸村もあらためて言った。
「上洛の後はな」
「はい、出陣ですな」
「それの用意ですな」
「そしてそのうえで」
「九州にですな」
「行くぞ、そしてな」
幸村は十勇士達に出陣してからのことも言った。
「わかっておるな」
「はい、我等全員ですな」
「生きて帰る」
「そうせよというのですな」
「武勲は挙げよ、しかしじゃ」
それでもというのだ。
「死ぬな、絶対にな」
「生きてこそですな」
「戦である」
「だからこそ」
「人は死ぬ時は死ぬ」
必ずだ、幸村はまた言った。
「しかしな」
「それでもですな」
「死すべき時に死ぬもので」
「今はまだ、ですな」
「死ぬものではないですな」
「それは」
「その通りじゃ、しかしな」
それでもというのだった。
「それはおそらく九州ではない」
「では何時になるでしょうか」
「我等が死ぬ時は」
「その時は」
「それはわからぬ、戦の場は常に命を賭けるものであるが」
それでもというのだ。
「おそらくそれは九州ではなく」
「さらに後」
「後の戦ですか」
「そうじゃ、しかしその時も」
死すべき様な時もというのだ。
「やはり拙者は御主達に言う」
「生きよと」
「必ず」
「死ぬ時は潔くじゃが生きられるならな」
その可能性が僅かでも残っていればというのだ。
「生きるべきじゃ」
「絶対に」
「何があっても」
「そしてですな」
「また戦う」
「そうあるべきですな」
「首が飛んでも生きよ」
こうまで言うのだった。
「そのつもりでいよ」
「わかり申した」
「では何としてもです」
「我等殿と共に生きます」
「殿が仰る様に」
「我等十一人、生きるも死ぬも同じぞ」
幸村は十勇士達にまた言った。
「よいな」
「生まれたところは違えども」
「義兄弟であるが故に」
「必ずですな」
「死ぬ時は同じですな」
「うむ、最後の最後まで戦い共に死ぬのじゃ」
ここにいる十一人でというのだ。
「必ずな」
「では」
「例え死地に入ろうとも」
「必ず生きて帰る」
「そうあるべきですな」
「このことは皆で誓うのじゃ」
何があっても生きることをというのだ。
「よいな」
「わかり申した」
「ではです」
「誓いそして」
「九州に赴きましょうぞ」
「是非な」
幸村は十勇士達にこうも言った、そしてだった。
彼等は今は上洛の準備をしてだった、それが整ったところで兼続から声がかかり春日山から北陸道を通り都に向かった。
春日城を出てすぐにだ、兼続は幸村の馬に己の馬を進めて尋ねた。
「この道は通られたことは」
「はい、ありませぬ」
そうだとだ、幸村はすぐに答えた。
「これまでは」
「左様ですな」
「今は雪がないですが」
「冬になりますと」
この北陸道はというのだ。
「どうしてもです」
「やはりそうですか」
「そのことが辛い道です」
「中山道と同じですね」
そう聞いてだ、幸村は兼続に返した。
「それでは」
「そうですな、中山道もですな」
「信濃はです」
この国はというのだ、上田もある。
「冬になりますと雪が深く」
「中山道もですな」
「通りにくくなりまする」
「左様ですな」
「雪は全てを覆います」
それこそというのだった。
「家も道も森も」
「まさに全てを」
「白く染めてしまいます」
「ですな、越後もです」
「はい、雪はですな」
「大層深い国です」
このことでもよく知られている、越後はとかく雪の多い国なのだ。
「それは春日山でもおわかりかと」
「はい、確かに」
「それで悩まされることも多いです」
そうだというのだ。
「実に」
「そして北陸道も」
「そうです、冬になれば」
まさにというのだ。
「雪に包まれてです」
「進みにくくなりますな」
「どうしても」
「ですな、しかし今は」
「はい、この通りです」
まさにというのだ。
「楽に進めています」
「雪がない故に」
「雪がなければ」
まさにというのだ。
「この道は実に楽に進めます」
「そうですな」
「まことに」
兼続は笑みを浮かべて幸村に話した。見れば彼の赤い馬の後ろには十勇士達が徒歩で歩きつつ従っている。
「しかも今は晴れているので」
「余計にですな」
「気分がいいものです」
「このまま都まで行けば」
「その時は」
まさにと話すのだった。
「都も見ましょうぞ」
「ですな、いや都はです」
その都のことをだ、幸村は言った。
「素晴らしき場所です」
「ですな、それがしも思いまする」
「その様に」
「はい」
まさにという返事だった。
「実は都に入ることは楽しみです」
「左様ですか」
「そのことは、そしてです」
「大坂にもですな」
「あの町も今では」
「数年前よりもですな」
「栄えておりまする」
幸村が来た時よりもというのだ。
「源四郎殿も御覧になって頂ければです」
「その大坂の栄えぶりをですな」
「そう思っています」
「そうですか」
「はい」
こう言うのだった。
「それがしも」
「左様ですか」
「そして関白様ですが」
秀吉のこともだ、兼続は話した。
「やはり一代であそこまでなられただけはあり」
「それだけに」
「見事な方です」
「それがしもそう思っていましたが」
「会われたことはですな」
「ありませぬ」
それはまだだというのだ、実際に。
「まだ」
「ではです」
「関白様にお会い出来れば」
「その時はです」
是非、という言葉だった。
「多くのものを見られて下さい」
「関白様から」
「是非共」
「ですか、では楽しみにしております」
「はい、ただ」
「関白様はですか」
「このことは大きな声では言えませぬが」
こう前置きをしてからだ、兼続は幸村に秀吉のこのことを話した。
「あの方は天下無双の人たらしにしてです」
「そしてですな」
「優れた人物を見ますと」
「家臣にしたくなる」
「そうした方なので」
「それがしもですか」
「拙者もまた、です」
幸村だけでなく自分もとだ、兼続は答えた。
「実は以前からお声がかかっています」
「上杉家から出てですか」
「そして羽柴家に仕えぬかと」
「そう言われているのですか」
「そうです」
まさにというのだ。
「官位も用意し、そして」
「禄もですか」
「三十万石です」
それだけの禄をというのだ。
「出すと言われています」
「三十万石ですか」
「そうです」
まさにというのだ。
「そこまでのものを出されると言われています」
「それはまた」
三十万石と聞いてだ、幸村だけでなく十勇士達もだ。
唸ってだ、こう言ったのだった。
「何と多い」
「それだけの禄を出されるとは」
「いや、流石天下人」
「何と太っ腹な」
「関白様は実に気前のよい方」
幸村は兼続にあらためて言った。
「それで禄も多く出されると聞いていましたが」
「それでもですな」
「はい、そこまでとは」
驚きを隠せない言葉だった。
「三十万石、それに官位も」
「従四位は普通にです」
「用意されるとですか」
「言われました」
「殿上人ですな」
五位からだ、朝廷の殿上に上がることが出来る。それで幸村もこう言ったのだ。
「まさに」
「凄いことですな」
「はい、申し出を受けられると」
「三十万石ともなりますと」
兼続は幸村に淡々とした口調で述べた。
「天下でもそうはいない大名です」
「そうですな」
「関白様はそれがしにそこまで言って頂いているのです」
「しかし、ですな」
幸村は表情を変えた、冷静なものにさせてだ。
そのうえでだ、こう兼続に問うたのだった。
「直江殿はその申し出を」
「受けるつもりはありませぬ」
全く、という言葉だった。
「それは」
「左様ですか」
「はい、それがしは上杉家の家臣です」
確かな声での言葉だった。
「謙信公に見出して頂き景勝様に執権に任じられている」
「それだけにですな」
「上杉家を離れるつもりはありませぬ」
毛頭という言葉だった。
「それは」
「そうですか」
「はい、三十万石に殿上人」
それだけのものをだ、兼続は再び話に挙げた。
「しかも宝も思うままとのこと」
「しかしですな」
「そこまで拙者を買って頂いていることは有り難いですが」
「それでもですな」
「それがしは上杉家の家臣です」
この立場は変わらないというのだ。
「上杉家にあり上杉家を守る」
「それこそが」
「それがしの務めなので」
「関白様のお誘いにも」
「乗りませぬ」
「そうですか」
「それでなのですが」
自分のことを話し終えてだ、それからだった。
幸村に顔を向けてだ、彼に問うた。
「源四郎殿は」
「それがしですか」
「どうされますか」
幸村のその目を見ての問いだった。
「貴殿は」
「それがしはです」
幸村もだった、一点の曇りもない目で答えた。
「真田家の者です」
「そういうことですな」
「ですから真田家を離れることはありませぬ」
「六文銭の下におられますか」
「これからも、そして」
「義、ですな」
「それがしは禄も官位も宝もいりませぬ」
そうしたもの全てがというのだ。
「無論銭も」
「ただ義をですな」
「求めています」
「義に生きられますか」
「この者達も同じです」
十勇士達も見て言うのだった。
「義に生きていきます」
「そうですか、では」
「関白様にお会い出来れば光栄の極み」
このこと自体は喜びだというのだ。
「ですが」
「義、ですな」
「それに従います」
あくまで、というのだ。
「真田家におります」
「そうですな、では」
「はい」
まさにという返事だった。
「私はです」
「真田家からは離れず」
「義によって動きますので」
「関白様からのお言葉でも」
「残ります」
自身の家にというのだ。
「そのつもりです」
「そうですか」
「そうです、しかし」
「しかしですな」
「やはり関白様は」
「非常に素晴らしい方です」
秀吉はというのだ。
「実に」
「噂以上の」
「その目で御覧になられれば」
その時はというのだ。
「きっとあの方を慕われるでしょう」
「拙者もですか」
「そうです」
まさにというのだ。
「そうなります」
「魅力がおありなのですね」
「それも極めてです」
「人を惹きつけて離さない」
「そうした強いものをお持ちです」
魅力、それをというのだ。
「ですから」
「その魅力にですね」
「源四郎殿もです」
まさにというのだ。
「きっとあの方を慕われるでしょう」
「そうなりますか」
「そのことは間違いありませぬ」
「では」
「はい、そうした方なので」
秀吉がというのだ。
「多くの方が家を出られてです」
「あの方にお仕えしているのですね」
「妙に人を惹き寄せるものを持っておられます」
「そういえば」
ここで幸村も言った。
「あの方は多くの側室の方も持たれていますね」
「はい」
「そしてどの方も」
「関白様を慕っております」
その側室達もというのだ。
「実に強く」
「そうなのですな」
「そうです」
「それもですね」
「あの方の魅力故にです」
決して顔立ちは整っておらず小柄な秀吉でもというのだ。
「そうなっているのです」
「それだけの魅力があるのですね」
「あの方には」
まさにというのだ。
「これは外見のことではありませぬ」
「あの方の内面ですな」
「そうです」
秀吉のそれからくるものだというのだ。
「非常に親しみを感じこの方ならばと」
「思わせる」
「そうしたものがおありなのです」
秀吉にはというのだ。
「だからです」
「多くの方が家を出られてまで」
「そうしてお仕えしているのです」
「ですか、では」
「源四郎殿もです」
「強い意志がなければ」
「そうなられるでしょう」
真田家を出てというのだ。
「ですから」
「ううむ、そうですか」
「それはまた相当ですな」
「まさに天下無双の人たらし」
「噂は真実ですな」
十勇士達も驚いて言う。
そしてだ、彼等も幸村に言った。
「殿程の方でなければ」
「まれにですな」
「真田家を出て」
「羽柴家に行ってしまいますな」
「そして逆jに言えば」
こうも言うのだった。
「殿の様な方だからこそ」
「関白様もですな」
「お声をかけられる」
「そうなのですな」
「そうでありましょう」
また言った兼続だった。
「源四郎殿程の方だからこそ」
「関白様もですか」
「興味を持たれそして」
「お誘いもですか」
「退けられます」
秀吉の出すもの、そして秀吉自身の魅力にもというのだ。
「そうなのでありましょう」
「それがしをそこまで、ですか」
「あの方は人を見る目も備えておられます」
それもあるというのだ。
「ですから」
「それがしをですか」
「買われ」
そしてというのだ。
「お声をなのです」
「そうですか」
「しかしです」
兼続はここで微笑んで言った。
「源四郎殿はあくまで義を貫かれますな」
「他のものには興味はありませぬ」
「ではです」
「その義のままですか」
「歩まれて下さい」
こうも言ったのだった。
「貴殿の思われる通りに」
「では」
「さて、道中は長いです」
一転してだ、兼続は声を明るくさせて幸村達に言った。
「旅も楽しまれて下さい」
「はい、道中の酒や食事もですな」
「それもです、北陸は魚が美味うございます」
「では魚と酒をですな」
「楽しみつつ道中を進みましょう」
「それでは」
幸村は微笑んで兼続のその言葉にも応えた、そしてだった。
彼は春日山から北陸道を通って都に向かうのだった。その道中も楽しみつつ。
巻ノ三十九 完
2015・12・30