巻ノ百六 秘奥義
父のことが気になる幸村だがそれを直接昌幸自身に言うのは駄目だと思いそれであえて言わずにだった。
彼は朝起きて稽古と朝飯の後でその昌幸のところに行ってそのうえで彼に頭を下げてこう言った。
「真田忍術の秘奥義ですが」
「身に着けたいか」
「はい」
こう言うのだった。
「是非」
「そうか」
昌幸は幸村の言葉を聞いてまずは静かに頷いた、そのうえで彼に対してこう言ったのだった。
「何時かかと思っていた」
「それがしがこの話を申し出るとですか」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「そしてその時が来たな」
「では」
「お主に巻物を渡す」
秘奥義を書いたそれをというのだ。
「身に着けよ、しかしな」
「その秘奥義を身に着けることはですな」
「これまで出来た者は一人だけじゃ」
「その一人が、ですな」
「我等の祖じゃ」
真田家のというのだ。
「あの方だけじゃ」
「それ程のものですな」
「しかしお主なら」
幸村ならというのだ。
「若しや、な」
「出来ると」
「そうも思う」
「では」
「やってみせよ」
こう我が子に告げた。
「よいな」
「わかり申した」
幸村は父に率直な声で応えた。
「ではこれより」
「受け取るがよい」
昌幸は早速だった、一巻の巻物を幸村に差し出した。幸村はその巻物を受け取り早速だった。
自身の部屋で読みはじめた、それを読んで早速修行に入るが。
これまでの武術や忍術の修行に座禅もするのはこれまで通りだった。そして学問も行っていたが。
寝る間を惜しんで座禅、もっと言えば睡眠と座禅が共になった様な修行を見てだ、十勇士達も言った。
「殿、その修行は」
「寝る間を座禅にあてておられますが」
「それがですか」
「秘奥義の修行ですか」
「うむ」
その通りだとだ、幸村は十勇士達に答えた。
「こうしていけばな」
「秘奥義を備えられる」
「巻物にはそう書いてありましたか」
「その様に」
「寝ることもなくじゃ」
そうしてというのだ。
「修行を重ねてその先にな」
「秘奥義がある」
「そうなのですか」
「では、ですな」
「寝ることもないとは恐ろしいですが」
「あまりにも厳しい修行ですが」
「これを続け倒れぬならばじゃ」
そうならばというのだ。
「必ず辿り着けるという、しかしな」
「はい、人は食い寝ずばです」
「すぐに倒れてしまいます」
「人は寝ることも必要です」
「そうしたものなので」
「わかっておる、しかしな」
それでもというのだ。
「そう書いてあった、だからな」
「これからもですか」
「寝ずにですか」
「修行を続けられますか」
「寝られる間も座禅に励み」
「そのうえで」
「もう三日になるが」
しかしというのだ。
「果たして何が出て来るか」
「それはまだわかりませぬか」
「修行をはじめられて」
「そのうえでも」
「まだな、だが続けていく」
この厳しい修行をというのだ、見れば幸村の顔には疲れがある。しかしその目は生気に満ちている。
その目でだ、彼は十勇士達に言うのだ。
「このままな、そうすればな」
「必ず、ですな」
「倒れなかった時は」
「殿も至りますか」
「秘奥義に」
「その様じゃ、ではこのまま続けるぞ」
こう言ってだ、そのうえでだった。
幸村は身体も激しく動かし学問も行い座禅に専念した。それを一週間程続けているがその彼を見てだ。
伊佐は義兄弟達にだ、夜に話した。
「禅の代接心の様な」
「あれの様じゃ」
「兄上もそう思われますね」
「うむ、あれから多くのものを得られるというが」
禅宗の僧達はだ、清海も言う。
「それを思わせるな」
「そうした修行ですね」
「信じられぬことはじゃ」
根津が腕を組んで言うことはというと。
「殿はあの様な激しい修行をされてもな」
「倒れられぬな」
望月が根津に答えた。
「むしろ生気がみなぎっておられる」
「それが凄いな」
「しかしあのまま続けておられるとじゃ」
海野が言うには。
「倒れられるぞ」
「食も節制しておられる」
筧はこのことを指摘した。
「それではな」
「如何に殿といえどもな」
「倒れられるな」
「そうなってしまうわ」
「確かに殿は我等と同じく並のお身体ではない」
穴山も言う。
「忍の者の中でもな」
「そうじゃな」
由利の言葉にも応えた。
「あれだけ頑健な方はおられぬ」
「我等以外にな、しかしな」
「あのままではな」
「倒れられるぞ」
「しかし倒れられぬならか」
猿飛も神妙な顔で言った。
「秘奥義に至れるか」
「一体どうした秘奥義なのか」
霧隠はこのことが気になっていた。
「果たして」
「それも気になるのう」
「全くじゃ」
「ううむ、どういった術なのか」
「果たして」
「あそこまでの修行を経てとは」
「どうったものやら」
十勇士達は気になっていた、それは大助も同じで修行を続ける父を見て彼の母に対して言った。
「近頃の父上ですが」
「修行に励まれていてですね」
「はい」
まさにというのだ。
「鬼神の如きです」
「そうしたお顔だと」
「いえ、お顔は変わりないですが」
しかしというのだ。
「その気配がです」
「鬼神のものですか」
「そうなってきていると感じます」
「そうなのですか」
「ただ。恐ろしくはありません」
鬼神といってもというのだ。
「何かを見据えた一本気な」
「そうした鬼ですか」
「私はそう感じます」
幼い顔と声で言うのだった。
「鬼は人を喰らう恐ろしいものというだけではないですね」
「そうです、鬼は一本気でもあります」
大助が言う様にとだ、母も話した。
「何処までも」
「父上にはその一本気を感じますので」
「そうした鬼神とですか」
「大助は思います」
「そうですか、そなたはもうそうしたことがわかるんですね」
「そうしたこととは」
「鬼といっても一つではありません」
そのことがというのだ。
「それがわかるとは見事です」
「私はですか」
「はい」
その通りだというのだ。
「見事です、しかしその見事さに驕らず」
「これからもですね」
「文武の鍛錬に励むのです」
「そしてですね」
「世に出る時を待つのです」
是非にというのだ。
「宜しいですね」
「わかりました」
大助は母の言葉に素直に頷いた、そのうえで彼もまた修行に励んだ。そして幸村もだった。
寝る間もないまでに修行に励んだ、その中で。
ふとだ、座禅を組んでいる時にだった。
周りに何かが見えてきた、得体の知れぬ者達がだ。彼等は幸村に何かを言うがその彼等をだった。
幸村は無視して座禅を続けた、そうして。
異形の者達が彼に集まり水をかけたり罵ったり殴ったり蹴ったりしても動かなかった。ただひたすら座禅を続け。
そうしていると今度はだった、不意に自分が空の中にいるのを感じた。すると目の前に憤怒の顔をし右手に剣を持ち左手を印にして背に紅蓮の炎を背負った仏が彼の前に出て来て問うてきた。
「人間よ」
「貴方は」
「何だと思う」
「不動明王でしょうか」
「如何にも」
その通りだとだ、不動明王は幸村に答えた。
「私は不動だ」
「やはりそうですか」
「知っていよう、大日如来でもある」
「大日如来の憤怒の時のお姿ですね」
「そうだ」
その通りという返事だった。
「やはり知っておるか」
「学んできました」
「兵法だけを学んできたのではないか」
「書は目につく限りのものを」
読んできたというのだ。
「それがしも」
「そうであるか」
「それで御仏の教えも」
それもまたというのだ。
「未熟ながらも知っているつもりです」
「わかった、そのそなたにあらためて聞くが」
不動は幸村にあらためて言った。
「何を求める」
「極めることを」
幸村は不動明王に一言で答えた。
「それを」
「道をか」
「そして来たるべきに充分な働きをすることを」
このこともというのだ。
「求めておりまする」
「そうか、富貴や権勢ではないか」
「望んだことはありませぬ」
「そうだな、お主を見ていればわかる」
真田幸村という男をというのだ。
「お主はそうしたことには興味がない」
「ただ、死すべき時と場所は同じと誓った者達とです」
「道を極めたいか」
「主として兄弟として友として」
そうした立場からだというのだ。
「望んでおります」
「だからか」
「はい、それがしはです」
まさにというのだ。
「来たるべき時の為のものを備えたいのです」
「そうか、そなたはもう充分に強いが」
「それ以上のものを」
「それで今ここにおるか」
「修行の結果」
「そうか、ではじゃ」
不動は幸村の言葉を受けて言った。
「これよりお主の力を見たい」
「それがしの」
「そうじゃ、そなたに余の炎を浴びせる」
その背に背負う紅蓮の炎をというのだ。
「この炎は全ての魔を焼き尽くす降魔の炎じゃ」
「そしてその炎でそれがしを焼き」
「最後まで耐えられればじゃ」
その時にというのだ。
「余が修行の相手をしてじゃ」
「そのうえで」
「道を極めるのを助けよう」
こう言うのだった。
「よいな」
「それでは」
幸村に異存がなかった、不動明王に率直に答えた。
「お願い申します」
「また言うが余の炎は全ての魔を焼き尽くす」
「悪なるものを」
「その全てをな、人にはどうしても邪心がある」
「そしてその邪心が焼かれ」
「お主の心も炎に当たるからじゃ」
だからこそというのだ。
「只では済まぬが」
「覚悟のうえ」
「そうか」
「はい、それは既に」
幸村は不動明王に淀みなく答えた。
「だからこそです」
「ここまで至ったか」
「前に得体の知れぬ者達もいましたが」
「あれは魔境の鬼達じゃ」
「魔境ですか」
「知っておるな」
「仏典にある」
「そうじゃ、釈尊も来られた」
釈迦如来もというのだ。
「あの方もな」
「魔境に至っておられましたが」
「そこでじゃった」
「ああした者達に会い」
「そのうえでな」
「その声を払い除けてですか」
「悟りに至ったのじゃ」
このこともだ、不動明王は幸村に話した。
「そしてここに至ったが」
「ではここは」
「悟りに向かう場所でもある」
「そうでしたか」
「ここはな」
この空の世界はというのだ、何もないこの世界は。
「それで悟りを開くまでの修行をしてじゃ」
「それがしは得ますか」
「そうなる、ではよいな」
「お願いします」
「この炎受けるのじゃ」
不動はこう言い幸村を一瞥した、すると。
彼が言った通り激しい紅蓮の炎が幸村を包んだ、それは激しい熱と焼く感触を彼に与えたが。
幸村は身じろぎも呻ぎ声もあげはしない、そうして座禅を組んだままだった。
炎に焼かれた、それが気の遠くなる位の時を経たと思われたが。
炎が消え去った時だ、不動は彼に言った。
「ここまでは耐えたな」
「では」
「余の炎を耐えることもだ」
それもというのだ。
「滅多に出来るものではない」
「邪なものも心の一部故に」
「心を焼かれることはだ」
「激しい痛みでした」
「並の者なら耐えられぬ」
心を焼かれることはというのだ。
「到底な、しかしな」
「それでもですな」
「お主はそれを果たした」
その痛み、苦しみに耐えきったというのだ。
「まずはよし、ではじゃ」
「これからですな」
「余自ら修行の相手をしてじゃ」
そのうえでというのだ。
「お主を鍛えてじゃ」
「そうして」
「お主が掴みたいものを掴め」
「それではその為に」
「はじめるぞ」
「わかり申した」
幸村は立ち上がった、すると彼の両手にあの十字槍が一本ずつ備わった。その双槍を以てだった。
不動と激しい修行をはじめた、空の中で彼は明王を相手にそれを行うことをはじめたのだった。
大久保彦左衛門はこの時江戸にいてだ、親しい者達にこんなことを漏らしていた。
「近頃武が廃れておらぬか」
「武がですか」
「それがですか」
「そんな気がせぬか」
こう言うのだった。
「幕府が開かれる前と比べてな」
「四天王の方々もおられなくなり」
「それで、ですな」
「武辺者がいなくなり」
「そのせいで」
「武が廃れてきたと」
「そしてじゃ」
武が廃れたうえでというのだ。
「謀が増えておらぬか」
「そういえば本多殿といい」
「ご子息の上総介殿は特にですな」
「そして崇伝殿もおり」
「何かと」
「大御所様の周りにもじゃ」
家康の、というのだ。
「どうにもな」
「謀の士が増え」
「そうした者達が話をしてですか」
「幅を利かせておる」
「そう言われますか」
「わしの気のせいではあるまい」
このことはというのだ。
「特に本多親子じゃ」
「ですか、あのお二方ですか」
「その親子ですな」
「本多家では分家ですが」
「あの方々が」
「平八郎殿が忌み嫌っておられた」
四天王の一人だった彼がというのだ。
「臓腑が腐った奴とな、そしてな」
「平八郎の言われる通り」
「そう言われますか」
「まさに」
「その通りだと」
「わしはそう思う」
まさにというのだ。
「あの様な者達はいらぬ」
「幕府にですな」
「謀はいらぬ」
「そう言われますか」
「学はいる」
それはというのだ。
「そちらはな、しかしじゃ」
「謀はいらぬ」
「どうしても」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「本来はな」
「政にしてもですな」
「しかと民と向かい合い」
「その民のことを考え」
「毅然と治めるべきですな」
「そうあるべきじゃ、法を定めるのはよい」
これはというのだ。
「別にな」
「しかし謀となると」
「それはですな」
「よくはなく」
「やるべきではないですな」
「そこがじゃ」
まさにと言う大久保だった。
「違うのじゃ、わしとあの親子それにじゃ」
「崇伝殿も」
「あの方についても」
「三人共好きになれぬ、特にじゃ」
大久保は眉を顰めさせてこうも言った。
「わかるな」
「はい、どうもです」
「近頃本多殿と上総介殿はです」
「大久保殿のご実家にです」
「対しようとされていますな」
「そうじゃ、ご本家に対してじゃ」
大久保家のそれにというのだ。代々松平家に仕えている譜代中の譜代と言っていい家である。
「何か企んでおるやもな」
「それが、ですな」
「特に、ですな」
「気に入らぬ」
「そうなのですな」
「わしは武辺じゃ」
それだけの者でありそしてそれを誇りとしているのだ。
「謀は出来ぬ、そしてな」
「大久保家のご本家もですな」
「あちらにしても」
「そのことは」
「政は出来る」
それはというのだ。
「しかし謀はな」
「それはですな」
「出来ませぬな」
「本多殿達程は」
「とても」
「あの者達はそれが得手じゃ」
その謀がというのだ。
「それでご本家を陥れるなら」
「それならですな」
「容赦はせぬ」
「そうお考えですな」
「そのつもりじゃ、許せぬ」
絶対にというのだった。
「その時はな、そしてな」
「何かあれば」
「大久保殿の槍が動く」
「そうされますか」
「そのつもりじゃ、見ておるのじゃ」
大きぼはまた言った。
「あの親子もな、それと切支丹じゃが」
「はい、あの者達ですな」
「今は幕府も認めていますが」
「それが、ですな」
「どうにも」
「禁じられる様じゃな、そしてな」
それにというのだ。
「あの者達は危ういな」
「ですな、かつて本朝の民を外に売り飛ばし」
「そして奴婢にしておりました」
「その様なことをしますから」
「本朝の乗っ取りも考えているとか」
「ならばですな」
「禁じるのも当然」
「左様ですな」
周りの者達も口々に言った。
「民を奴婢にしたりお国乗っ取りまで企むなら」
「それならばですな」
「容赦せずに」
「禁じるべきですな」
「わしもそれは同じ考えじゃ」
大久保にしてもというのだ。
「さもないと国も民も危うくなる」
「だからですな」
「切支丹に対しては」
「本多殿や崇伝殿と同じですな」
「別に教えはいいのじゃ」
切支丹のそれはというのだ。
「よい教えであろう、しかしな」
「その教えとは裏腹にですな」
「民を外に売り奴婢にするなぞ」
「全くの言語道断」
「お国乗っ取りも企てるなぞ」
「どんな悪質な坊主でもな」
日本にいる彼等よりもというのだ。868
「せぬことをする」
「人買いですな」
「それもかなり性質の悪い」
「そうしたことを坊主がするとは」
「伴天連は何なのか」
「しかも神仏もじゃ」
こちらもというのだ。
「認めぬという」
「ですな、大友家においてもです」
「それで神社仏閣を壊していました」
「他の教えを認めぬとは」
「どういうことか」
「そんな者達を入れるとじゃ」
それこそというのだ。
「天下が乱れまことにじゃ」
「乗っ取られる」
「だからですな」
「許せぬ」
「禁じるしかないですな」
「そうじゃ」
その通りというのだ。
「あの者達はな」
「大御所様もそうお考えですし」
「無論上様も」
「ならば」
「切支丹はじゃ」
何としてもというのだ。
「許せぬ」
「本朝には入れられぬ」
「絶対にですな」
「民の為に」
「そして天下の為に」
「そういうことじゃ、さて夜じゃしな」
ここで大久保はこうも言った。
「飲むか」
「酒ですな」
「それをですな」
「うむ、肴は味噌じゃ」
大久保は笑って肴の話もした。
「それと蕎麦がきじゃ」
「その二つですか」
「それで、ですな」
「飲もうぞ、やはり武士の口にするものはな」
三河武士そのままの考えをだ、大久保は述べた。
「質素が一番じゃ」
「全くですな」
「質素でこそ武士です」
「飯は質素にして」
「そしてですな」
「そうじゃ、近頃江戸の者達もじゃ」
彼等も三河から出ているがだ。
「どうもな」
「贅沢になってきておる」
「口にするものも着るものも」
「屋敷もですな」
「何かと」
「それはいかん」
厳しい声での言葉だった。
「断じてな」
「質素であるべきですな」
「武士の暮らしは」
「食も服も家も」
「その全てが」
「三河の時を思い出すのじゃ」
徳川家が松平家であった時だ。
「今の様に贅沢だったか」
「いえ、全く」
「貧しいと言ってよかったです」
「駿河に入り驚いた位です」
「織田家のその絢爛さにも」
「何かと」
周りの者達もその頃のことを思い出して言う。
「長い間そうでしたな」
「我等は質実剛健でした」
「何につけても」
「今とは全く違っていました」
「あの頃のことを忘れてはならん」
大久保は強い声で言った。
「断じてな、だからな」
「酒の肴もですな」
「味噌の蕎麦がき」
「そうしたものですな」
「これでも贅沢な位じゃ」
その味噌や蕎麦がきもというのだ。
「そうであろう」
「全くです」
「三河ではそうしたものすらありませんでした」
「味噌なぞとても」
「ありませんでした」
「そうであったわ」
まことにとだ、大久保はまた言った。
「貧しいその時のことを忘れず質実剛健じゃ」
「三河武士ならば」
「それに徹するべきですな」
「わし等が贅沢をすればその分民から取る者もおる」
税を取りそしてそれで贅沢をするというのだ。
「それはあってはならぬ」
「断じてですな」
「では今宵の肴も」
「そうしたもので楽しみ」
「飲みますか」
「そうしようぞ、ではな」
ここでその酒と味噌、それに蕎麦がきが運ばれてきて皆で飲みはじめた。そうしつつであった。
濁り酒を飲みだ、大久保は笑みを浮かべて言った。
「うむ、実にな」
「よい酒ですな」
「実に飲みやすいです」
「これは駿河の酒ですな」
「そちらの酒ですな」
「この前駿河の者から貰ってな」
それでというのだ。
「今宵出した、贅沢は確かにならぬが」
「しかしですな」
「やはり駿河の酒ば美味いですな」
「それも実に」
「江戸は水が悪い」
大久保は曇った声で言った。
「関東全体がな、だからじゃ」
「はい、酒もですな」
「どうしてもですな」
「悪いですな」
「口に合いませぬ」
「あれば飲むが」
質実な大久保らしくだ、そうした時は文句を言わずに飲むがそれでもちうのだ。
「しかしな」
「それでもですな」
「駿河の酒は美味い」
「それは事実ですな」
「そうじゃ」
全くというのだった。
「嘘はいかん」
「ですな、美味いものは美味い」
「しかと言うことですな」
「隠すことなく」
「そうあるべきですな」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「だから言う」
「この酒は美味い」
「駿河の酒は」
「実にですな」
「いや、遠江や三河の酒もいいですが」
「酒は駿河ですな」
「思えば大御所様もじゃ」
大久保は家康の話もした。
「駿河がお気に入りなのもじゃ」
「酒が美味いせいもありますな」
「思えば幼い頃は駿河におられてです」
「そして駿府を拠点にもされていましたし」
「今も移られています」
「それじゃ、駿府におればな」
家康が幼い頃から若い頃を今川家の人質そして家臣として過ごし大名になり駿河を手に入れてから拠点とし今も住んでいるその場はにいればというのだ。
「こうした酒もありな」
「親しみもある」
「だからですな」
「大御所様はあちらにおられますか」
「駿府に」
「あの方はやはり駿府じゃ」
笑ってだ、大久保はこうも言った。
「駿府が一番お好きなのじゃ、とはいってもな」
「はい、三河もですな」
「やはりお好きですな」
「我等の故郷だけあって」
「格別のお情けがありますな」
「そうじゃ、しかし三河というか岡崎はな」
この城のこともだ、大久保は話した。
「どうも小さい」
「ですな、広く治めるには」
「どうにも」
「狭く小さな城です」
「治めるならば駿府が最もよいです」
「大御所様はそこもおわかりでな」
駿府が広く治めるに適した場所であり城であることをだ。
「あの城に入られtおるのじゃ」
「そうしてですな」
「あの様に治めておられますな」
「それも天下全体を見て」
「そのうえで」
「そうじゃ、しかしこれからはじゃ」
家康は駿府から天下を治めているがというのだ。
「この江戸から天下を治めることになる」
「江戸の城からですな」
「日に日に城も町も整ってきておりますが」
「江戸から天下を治める」
「そうなっていきますか」
「うむ、江戸の城はかなり大きくなる」
その造りがというのだ、本丸の巨大な天守を軸に渦巻の様に城が広がっていっているのだ。
「二の丸、三の丸、西の丸、北の丸とありな」
「堀は広く深く壁も高く多く」
「堅固な城になりますな」
「ただ堅固なだけでなくじゃ」
守りによいだけでなくというのだ。
「治にもよい」
「はい、人も多く集まり」
「その人で治めることも出来る」
「よき城になりますな」
「そうした意味でも」
「天下を治めるにはそれなりの大きな城が必要じゃ」
よい場所にありそして多くの人が集まることがだ、大久保は自ら武辺と言うがこうしたこともわかっているのだ。
だからだ、こう言ったのだった。
「江戸の城はこうした城になる」
「ですな、では」
「城はどんどん築いていき」
「天下の城にしていきますか」
「その様に」
「そして幕府の仕組みも出来てきておる」
それもというのだ。
「よい仕組みがな」
「これまで幕府以上に」
「実によい仕組みになっておりまする」
「まさに天下を治める為の」
「それも出来てきておりますな」
「法までな、ここまで揃えばじゃ」
大久保は確かな声で言い切った。
「天下は江戸から治まる」
「そうなっていきますな」
「そして江戸から幕府が天下を治め」
「長い泰平の世になる」
「そうした風にもなりますか」
「戦を怖れぬのは武士じゃ」
卑怯未練を何よりも卑しむ、大久保の三河武士らしい一本気な気構えもその言葉に出ていた。
「しかしな」
「民は別ですな」
「やはり民は泰平が一番です」
「泰平に暮らすことこそが望み」
「そうなりますな」
「そうじゃ、民を幸せにするのが武士じゃ」
武士の務めだというのだ。
「だからじゃ」
「それで、ですな」
「泰平は守るべきですな」
「その為に心を砕くべきであり」
「戦はなくすべきですな」
「江戸はそうした政をする場所になる」
まだようやく城も町も出来たばかりであるがだ。
「これよりな、それを観るのは楽しみじゃ」
「そのこと自体はですな」
「我等もですな」
「その泰平の世を守ること」
「そのことこそが」
「我等の願いとしようぞ、江戸は前の年より賑やかになった」
そうなってきてもいるというのだ。
「最初見た時は何じゃと思ったであろう、お主達も」
「いや、全く」
「草しかない場所でした」
「城といっても崩れかけの城」
「一体何かとです」
「心から思いました」
周りの者達もそれは言った。
「こんな場所がどうなるかとです」
「しかも大御所様は大抵大坂におられてです」
「何も出来ぬ始末」
「少しずつやっていきましたが」
「いや、あの時の江戸ときましては」
「全く以て酷い場所でした」
「そうじゃ、しかしじゃ」
その江戸がというのだ。
「今ではじゃ」
「ですな、かなり変わりました」
「あの時と比べて」
「全く違いまする」
「そしてですな」
「これからもですな」
「変わる」
そうなっていくというのだ。
「それを観るのも楽しみじゃ、ただ」
「ただ?」
「ただといいますと」
「何かじゃ」
首をやや傾げさせてだ、こう言った大久保だった。
「江戸にたまに不穏な気配を持つ者を感じる」
「不穏?」
「不穏といいますと」
「真田じゃ」
その鋭い目で言った。
「この前城で半蔵殿とお話したがな」
「真田の者がですか」
「江戸に来ていますか」
「たまにしましても」
「とはいっても源三郎殿ではない」
信之ではないというのだ。
「平八郎殿の娘婿のな」
「と、いいますと」
「それではですな」
「九度山に追放となっている」
「あの御仁ですか」
「いや、子の方のじゃ」
大久保にはわかったのだ、そして服部にもだ。
「そして家臣のな」
「あの十勇士ですか」
「一騎当千の豪傑揃いという」
「あの御仁と共に追放になっている次男殿のですな」
「その家臣の」
「あの者達の気配じゃ」
江戸で感じるものはというのだ。
「たまに感じる、そしてな」
「江戸を見ていますか」
「この町のことを」
「そして城もですな」
「ひいては幕府も」
「見ておるのう、間違っても物見遊山ではない」
大久保にはこのこともわかっていた。
「そしてじゃ」
「天下を見てですな」
「これからの動きを見極め」
「そのうえで、ですな」
「どうするかを考えておられますか」
「多くの者は知らぬが」
しかしという言葉だった、大久保の今のそれは。
「真田家は父親だけではない」
「あの鬼謀の御仁」
「あの御仁だけではないですか」
「ご子息もですか」
「厄介ですか」
「しかもその下の十人じゃ」
つまり十勇士達もというのだ。
「この者達と対することが出来るといえば」
「それこそですな」
「幕府にもそうはおらぬ」
「そこが難しいですな」
「その十勇士達の動きが気になる」
実にというのだ。
「幕府に何をするか」
「そこも気になるので」
「だからですな」
「気をつけていきますか」
「幕府の為に」
「そうする、若しまた見掛ければじゃ」
その時はというのだ。
「容赦せぬ」
「切りますか」
「そうされますか」
「江戸市中は刀は抜けぬ様になっていくが」
それでもというのだ。
「捨て置けぬわ」
「だからですな」
「若し再び江戸で強い気配を感じ」
「それが真田家の者とわかれば」
「その時は」
「わしが成敗する」
流刑の者が勝手に出ているのでそれが出来るというのだ。
「容赦なくな、だからな」
「はい、我等もです」
「そうした話を聞けばお伝えします」
「そしてそのうえで」
「ご助力致します」
「頼むぞ、しかしな」
大久保はここでさらに言った。
「相手は強い、手を出してやならん」
「ですな、伊賀十二神将に比肩するとか」
「伊賀者達の中でも最強と詠われる十二神将程となりますと」
「我等の相手になるか」
「言うまでもありませぬな」
「今江戸で相手が出来るのはわし位じゃ」
槍の使い手として知られる自身のみとだ、大久保は語った。
「それも一人が精々、二人か三人となるとな」
「到底ですな」
「大久保殿でも相手にならぬ」
「そうした者達ですな」
「だから軽挙はならぬ」
間違っても十勇士達に向かうなというのだ。
「よいな」
「はい、では」
「その様にします」
「そしてです」
「江戸で好き勝手はさせぬ様にしましょう」
「その様にな」
大久保は感じ取っていた、真田の者達が動いていたことを。そのうえでそれを防がんとしていた。幕府の安泰の為に。
巻ノ百六 完
2017・5・8