夕焼けは美しかった。
セイレーンは標的として、漁師や航海士を狙う。
これまで数十名の人間が、船を沈められて死んだ。
海に船を出す者達を殺していく。
警察は、漁師などに恨みを持つ人物。四、五十代くらいの漁業関係者の男性という犯人像の線で調べているのだが……。
潮の香りが漂ってくる。
古びた漁船の上に上りながら、その少女は歌を歌っていた。
まだ十代くらいの少女に見えた。
闇の曼殊沙華
この広い海原に広く広く咲かせましょう
闇と空が一体となり、世界は青く紅くなる
夕焼けと死の淵で 私は異界の標を知る
幽世の病みと光 鈍色の海に放ちましょう
この地はとても美しい
聖者の剣は灯されるでしょう
私は歌姫 この海原に光を灯すでしょう
私は祭壇 この青に祈りを
私は、私は、黒い曼殊沙華
蒼の底から現れるの
闇夜の曼殊沙華
幽世の光を、貪婪な海に放つでしょう
真っ白のワンピースに、オレンジ色のツインテールをした少女は歌を歌っていた。
令谷と生輪は、波止場から砂浜に降り立たずに、その光景を眺めていた。少女が紛れもない魔女に見えた。禍々しく、得体の知れない魔性の女。あるいは怪物。
少女は波止場の方にいる、令谷達に向かって叫ぶ。
「これは『黒いリコリス』という、私が作詞作曲をした曲です。お客様、ご清聴、どうもありがとう御座いました!」
少女はうやうやしく、頭を下げる。
「お前が『セイレーン』だな?」
令谷はよく通る声で叫ぶ。
「はい。私は『セイレーン』の一人です。貴方達が来る準備はいつでもしていましたよ」
少女は、何処か不気味な雰囲気を漂わせていた。
ハンドガンで少女の頭部をヘッドショットで撃ち抜ける自信はある。
だが、罠に誘われているような気がした。
「現代科学が発達した今、異常気象を検知する事は簡単ですよね? でも、それを特殊な軍事兵器の類ではなくて、人間一個人のもたらした超常現象だという事を、政府は認めたがらない。だからこそ、私達は捕まらないのよ? 刑事さん」
「お前、何ていう名だ」
令谷は砂浜に降り立つ。
彼のマントの中に隠された銃器の重さによって、令谷の身体が静かに砂浜に沈没する。
「セイレーンのシノと呼んでください」
少女はうっとりとした表情を浮かべていた。
生輪は彼女を見つめながら、疑問を口にする。
「お前、俺達が来るのを待ち構えていたな? リークされているのか? 特殊犯罪捜査課の情報が」
生輪は偶然など有り得ないと思っている。
というよりも、いかにも“来るのを待っていた”という態度だ。
「俺達を迎撃する為に、現れた、といった感じだな。セイレーン。お前のバックには何がいるんだ?」
生輪は訊ねる。
あの蜘蛛女の幻影が拭い去れない。
「うふふふっ。お兄様から、教えられました。“絡新婦”がコンタクトを取ってきたのだと。ですので、貴方達が、私達のステージに来るのは分かっていた事なのですよ」
シノはうやうやしく言う。
「ステージか。お前らにとって、漁師の船を難破させる事は演奏会なのか? うちの犯罪分析家が言っていた」
「そうですね。演奏会であり、コンサート、ライブ会場なのです。海に生きる男達、女達に私達の歌声を聞いて戴き、船を沈める。それが我々、セイレーンですから」
セイレーン。
ギリシャ神話における海の怪物。
半身が人間の女性で、下半身が鳥の姿とも魚の姿ともされている。
海の岩礁から美しい歌声で航海中の者達を惑わし、船を遭難や難破させる。
西洋絵画の題材にも、多く使われたと聞いている。
「お前らは死を持って償え。それがお前らが出した被害者達に唯一出来る贖罪だ」
令谷は拳銃を向ける。
シノは笑っていた。
「今日は顔合わせをするだけです。私は『ネクロマンサー』ともお話がしたいですし。なんでしたら、今後の助言もいたしましょう。私達は東弓劣情を敵に回したくない。可能ならば、共同戦線を張りたいのです。私達は彼女の下に付くつもりは無い」
シノは微笑んだ。
生輪は何か違和感を覚えていた。
極めて、不気味だった。
いつでも、銃弾でシノの身体を射抜く事が出来る。令谷はそれが上手く出来ずにいるみたいだった。先ほど、歌を聴いたからか? そう言えば、漁師達の船はあらぬ形で沈没していたと聞く。そう、漁師、航海士、共に自ら操作を誤って船を沈めてしまったのだ。岩礁に自ら突っ込んでいったり、嵐の海で自ら遭難しに行ったり。
彼女の歌う歌に、何かしらの力があると見ても構わないだろう。
令谷は、催眠術に掛かったかのように惑わされている。
「化け物が。くたばりやがれっ!」
令谷は引き金を引く。
セイレーン、シノの胸や腹、額に弾丸を撃ち込んでいく。
だが、それらは何故だか命中しない。
生輪は気付いている。
令谷自ら、銃口を向ける場所を間違えている事に気付いている。見当違いの方向に銃口を向けている。
がちがち、と、令谷は、戸惑っているみたいだった。
それは、まだ十代の少女だからだろうか。
令谷が、これまで助けた被害者と同じように無垢な少女だからだろうか。
だが、姿形は関係無い。
令谷は、改めて、セイレーンに向き直る。
此処で倒さなければ、新たな犠牲者が増えるだけだ。
「私はお兄ちゃんと一緒に、演奏会によって、海岸に沢山の墓を掘る。水に還す。誰も私達を止められない」
シノと名乗った少女はどうしようもないくらいに、とても楽しそうだった。
彼女は両手を広げ、大海原を背にしている。
その瞳は、底知れない不気味さを醸し出していた。
令谷は拳銃を、セイレーンに向けた。
セイレーンは、いわゆるバク転をしながら、漁船から飛び降りる。海の底へと潜ったのだろか? 令谷は分からない。こいつは、明らかに他のサイコキラーよりも異質だ。少なくとも、マンティコアみたいに簡単に倒されてはくれないだろう。
「戦うしかねぇか」
令谷は舌打ちをする。
スマホの着信が鳴る。
令谷はそれを取る。
葉月からだった。
<令谷。動向はどう? セイレーンは東弓劣情と繋がっていた?>
「…………。どうも繋がっているみたいだ。俺には関係無ぇがな」
令谷は、葉月との会話に少し苛立ちを覚えていた。
葉月は、ふうっ、と、電話の向こうで咀嚼音を始めた。
思考を巡らせる為に、物を食べているのだろう。
令谷はそれに対しても少し苛立つ。
「何、喰ってやがんだよ?」
<煎餅ときんつば。粒あんが美味しいわね。冷たいお茶がよく合う>
「お気楽なもんだぜ」
令谷も、心を落ち着かせる為にポケットからレモンキャンディを取り出して、口の中でガリガリと噛んだ。
<さて。貴方にも関わってくると思うけれど……。まあいいわ。とにかく、出来るだけ劣情の情報を引き出して。それから、セイレーンの腹の中は極めて、彼らの偶像的な世界で描かれていると思うわ。それはきっと苦海を広げた曼荼羅のようで、聖像があり、聖歌隊も存在すると思うわね>
「俺は化け物を倒すだけだよ」
そう言って、令谷は葉月からの着信を切る。
もう、敵が目の前にいる以上、葉月の話なんて意味を感じない。
何が、プロファイリングだ。令谷は、犯人の頭部に銃弾を撃ち込むだけだ。
†
「タチの悪いいじめっ子の親は毒親だったりするし、凶悪犯罪者の多くは貧困家庭や酷い親の下に育っている。愛情や友愛を知らない人間は、他人に対しての愛情の向け方が分からない」
生輪は、つねに令谷を落ち着かせる事を考えていた。
セイレーンは、葉月の分析によると、凶悪犯罪者のテンプレートの過去を持っている。令谷だって、過去、大きな傷を負っている。そして、その傷は今も消えはしない。決して消える事なんて無いのだろう。
「だからって、俺は犯罪者を絶対に許せない。そいつらの顎を喰い破るのが俺の人生だって決めたんだ」
令谷はどうしようもないくらいに、いつも通りだった。
いつも通りに、この世界の理不尽。自分を虐げた者。ワー・ウルフ、他の凶悪な犯罪者達に受かって怒りに発露を行っていた。
「あれだな。あそこから、何か嫌なものを感じるな」
生輪は、海辺にある洞窟を見つける。
おそらく、中はかなり広いだろう。
そして、おそらく、そこがセイレーンの胃袋の中だ。
二人は、洞窟へと向かった。