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第四十五話

「それがどうして、という顔をしている」

 ガンファさんの言葉に私は頷いた。

「だって、病気が治るのはいい事じゃないですか」

「そうだな。それ自体は間違いない。しかし、メルンはその後の悪影響を恐れた」

「悪影響?」

「もし、ハウゼに全てを立ちどころに治せるような、そんな一部神のような存在が身近に現れたとして――ハウゼの医学はどうなる? きっと衰退し、消えていくだろう。問題になるのは、衰退し消えた後だ。メルンは人間だ。一部神じゃない。いずれ死にゆく定めの彼女がいなくなったハウゼで、人々は生きていけるだろうか。今よりも、死人が出る。想像しただけでもこれほどの影響がある」

「じゃあ、本当につらそうな人にだけ――メルンさんの力は、そう簡単に使えるものでもないんですし――」

「つらさに、強弱はあると思うかい。不幸に区別はつけられると思うかい。君の不幸とメルンの不幸は、比べられるものかい」

 私はその問いに言葉が詰まった。彼の目は依然として優しいけれど、その言葉は確実に私の胸を深くえぐった。えぐったのは、ガンファさんじゃない。私だ。ついさっきの私の軽率さだ。

「それに、だ。俺にメルンと同様の力があったとして、俺は、それを状況によって使い分ける自信がない。かのルダがメルンのために命を投げ打ったのは、それが可能だった――それだけの理由だと俺は考えている。患者を救う方法がそこにあったとしたら、ハウゼの医者は見過ごすことなど決してできないのだ」

「それで――メルンさんは、旅人に?」

「ああ、そうだろうな。それに、彼女は今日、その力を使わなかったのだろう? 所詮は旅人。その在り方が、力との距離感を正常なものにしている――と考えているんだろう」

 ガンファさんはそこまで話してから、深くため息を吐いた。

「だが、彼女はハウゼの歴史に名を残せるほどの実力を持っている。それもまた事実。その期待の高さから、裏切られたと感じるものも多い。だから『天秤を投げた者』などと揶揄をしているが――その実、あいつの医者としての実力を皆、惜しんでいるのだ。かくいう私もその一人だな。『医猟団』という形であればもしかしたら彼女を医者の道に戻せるかとも思ったが――」

「もしかして、ガンファさんが『医猟団』に入ったのって――」

 メルンさんを引き戻すためなのだろうか。ガンファさんは、しかし首を振った。

「下心がなかった、と言えば嘘になるな。だが、主目的はそれじゃない。俺もまた、あの血の気の多い奴らと同じだ。少し理性があるだけの獣だよ」

 それはどういうことか、なんて聞けるほど、私は無礼じゃない。ガンファさんも、その先を話すつもりはないようで、料理に目線を落とした。

「少し話しすぎたな。冷めないうちに食べよう」


 食事を終えたあと、ガンファさんはメルンさんと二言三言交わすと、自分のテントへと戻っていった。少し安堵したような、それでいて苦い顔でもあった。行き倒れの人が、今日の飢えをどうにか凌いだような、そんな感じ。

 でも、メルンさんはそれをあまり気にせず、むしろ、

「ガンファとなにか話してたの? お風呂上がったらすごい静かでびびった」

「あ、いえ――」

 ガンファさんは、メルンさんが気にしないとは言っていたけれど、自分の口からあなたの過去を聞いていました、ってことは言いづらい。

「まあ、気持ちは分かるよ」

 私が目線を上げると、メルンさんの吸い込まれそうな深紅の瞳が、じっとこちらを見つめている。私は、かあっと顔が熱くなりながら、顔ごと逸らした。

「もう、心の準備があるんですから! 勝手に心を読まないでください!」

「おっと、ごめん」

「まったく、ガンファさんは心を読んでこないから話しやすかったですよ」

「え?」

「ん?」

 思わず聞き返すと、メルンさんは首を傾げながら言った。

「『医猟団』は全ての病の根絶の業を背負う。つまり神授医が絶対に必要だ。そして、ガンファはそんな貴重な人材の一人だよ。大体、神授医でもない奴が新月病について語れるわけがないでしょ。それができるとしたら私くらいだよ」

 冷めてきていた頬の熱がぶり返してくる。

「えっ、じゃあ、全部――」

 メルンさんはそんな私を見ると、おもちゃを見つけたかのように、ただし意地悪そうににやにやと嗤った。

「ガンファは不器用だけど気遣いのできる男だよ。私よりデリカシーがある。ちなみにああいう気遣いの細やかさ、神授医の必須スキル。言葉に出さないのが基本だよ」

「や、だって――メルンさんは――」

「私、医者じゃないし」

 どこかにこの恥ずかしさで出来た重石をぶつけてやりたかったのに、どこにも宛てがなかったものだから、私は枕に顔から突っ込んだ。

「もおおお!」

「もう寝る? あ、明日もリネーハに行くから、そのつもりで」

 私の気持ちを全部分かったうえで言っているのだろう。顔を上げるとメルンさんはもうこちらを見てもおらず、しゃがんで棚の中を眺めていた。

「今日行ってもなんもなかったですけど、どうするかとか決めてます?」

「全然決めてない。困ったね」

 メルンさんは家の中をあちこち物色しながら、気だるげに答える。その姿が、まるで物盗りのように思えて、ちょっと黙って見てられない。

「なにしてるんですか、メルンさん」

「んー、いや、なにかおもしろいものないかなあって。ほら、ここら辺の植生は医猟団が調べちゃってて味気ないし、かと言ってさあ、ナナのロマンス小説をこっそり見るのも飽きたし」

「な、な、なに勝手に見てるんですか!」

「いいじゃん。私も年頃の乙女だし――っと、なんだこれ」

 メルンさんは棚の奥から埃塗れの書物を取り出してきた。その表紙にはメルンさんの指の形がくっきりと残り、剥がれた埃がはらはらと灰のように舞っている。

「もう、服汚れますよ、そんなの引っ張り出して。それに、一応、知らない人の家をお借りしている形なんですから」

 だが、メルンさんは全く聞かずに、本の話を始めた。

「ねえ、ナナ。この本はきっと、何十年と長く放置されていたものだ。あまりにボロボロで、埃もその分、堆積してしまってる」

「それがどうしたんですか?」

 いつものおふざけかと思い、ベッドの上で楽な姿勢を取ったけど、メルンさんの表情は真剣そのもので――慌ててベッドの縁に姿勢を正した。

「それなのに――ここには今さっき誰かが触れたかのような痕跡がある」

「ガンファさんじゃないんですか?」

「違う、違うんだよ、ナナ」

 メルンさんは、本から軽く埃を払いながら、こちらへと歩いてくる。

「この本に残る痕跡っていうのは――願いの残滓だ。ナナやガンファの声じゃない。知らない声が聞こえる。願いの声は掠れていてしっかりとは聞き取れないけれども――この感覚、残滓の状態はかなり新しい。そして今も――願われ続けているかのような」

「ま、待ってください。願いの残滓って、そんなことあるんですか? どこかの誰かが願っていれば、残滓の力は存在し続ける――みたいな」

 メルンさんは首を横に振った。

「力が続くっていうのはよくあることだ。でも、願いっていうのは時と共に風化する。だから、ずっと同じ強さってことはあり得ない。まあ、一度叶えてやればもうその強さは関係ないのだけれども――」

 メルンさんはぱらぱらと本をめくりながら、目を走らせている。

「この本、すべてのページが白紙だな。ナナ、なんか文字見えたりする?」

 こちらに広げられたページには、黄ばんだ紙に皺が走るのみで、読めるものはない。

「何も見えてなさそうだね」

「はい、特には」

「だよねえ。書物の秘匿は『治安』の術の得意な手なんだけど、その形跡もない」

「なんかちょっと気味悪いですね――」

 呪物かなんかだったらどうしよう、などと心配したが、メルンさんは楽しそうに、

「今日はこの本で時間潰そう。面白いかもしれない」

 たまにこれで私が痛い目を見ることがある。でも、直接的に止めたって止めてくれないのがメルンさんだ。私は、逡巡しながら意味のない声を上げつつ、

「ほどほどにしてくださいね」

 意味のない忠告をするだけに終わった。何事もなく終わるのを期待するしかない。

 メルンさんは白紙のページを眺めながら、目を輝かせている。

 ――『医猟団』という形であればもしかしたら。

 確かに、メルンさんは、医者よりは旅人の方が合っているのかもしれない。

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