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第四十六話

 夢に入り込み、本を改めて開いてみても、そのページに代わりはなかった。

「さて、願いの方はどうだろう」

 この本から発せられている願いはどれも胡乱で、取り留めのないものだった。取り留めのない、と表現したのは願いの内容が分かる故ではない。妙な形の積み木のことを、それぞれ違う形だと判別はできても、それを語り得ないように、それぞれの願いが違うものだと分かっても、その中身までは分からない。

「どれか一つに絞ってくれれば叶えるくらいはできるんだけどね」

 とは言っても、願いは意図的に発生するものではなく、心の底から湧き出るものだ。もしもこの本を通して、この願っている誰かに聞こえたとして、それは結局、何にもならない。願え、と言って願えるのが一部神しかいないというのは、なんとも皮肉だ。

「アン――」

 イェルククの街のこと、それを忘れた晩はまだない。でもいずれ、その記憶も薄れていくのだろう。ただ、今はナナがそばにいるから、忘れようがないだけで。

 アンの姿は、あれ以来、当然だけれども見ていなかった。イェルククが戻ったあと、彼女はどこにも現れず、その気配もなかった。一部神は、それを信仰するものがいなければ消えてしまう、なんて話も聞いたことはない。でも、信仰するものがなければ、その土地に暮らす者がなければその力を発揮できず、眠りについてしまう。

 きっとアンは、今は眠ってしまっているのか。それとも彼女の願いは彼女をも消してしまったのか、それこそ、神しか把握しえないことだ。

 私はぱらぱらと手慰みに本のページを転がす。その紙面は、老人の肌にも似た様相。保護に関する術もなければ、秘匿に関する術もない。本当に、ただの本。私以外だったらこの本は全く気に掛けられてなかったことだろう。

 ベッドに寝転び、本を弄んでいると、ページの間から、からり、と何かが落ちた。

「ん、挟まってたのかな」

 ゴミかなにかかと思い、拾い上げ、月明かりに照らしてみる。しかし、それは月光を容易く通し、私の目に青い光を入れ込んだ。これは、よく見慣れたものだ。

「なんで、願いの欠片が――」

 慌てて、身体を起こし、窓際で欠片を改めて観察する。間違いない。相変わらずその願いの内容は分からないままだが、これは、叶えられる願い、だ。

「偶然――?」

 ベッドの上の本に変化はない。だが、私が、願いがまとまればと、そう口走った途端にこれだ。はやる鼓動を抑えながら、私は煙管を取り出した。術かは分からないが、明らかにあの本には何かある。リアの新月病に関わりがないならそれでもいい。だが、関わりがあるのだったら――。それに、これをこのまま放っておくのは気分が悪すぎる。

「とんでもない願いじゃないだろうな」

 手に乗る願いは、さして問題ないという気配がする。だが、これには当然、根拠はない。今まで願いを扱ってきた経験値と感覚で、そう推測しているだけだ。

「人の願い程度なら、そう問題ないはず――」

 半ば、言い聞かせるように、煙管に火を落とし、煙を吐いた。青い水晶は解けるように燃えて、あっという間に消えてなくなってしまう。

 辺りを目だけで見渡すが、特に変化はない。私はそこで、願いが遠い誰かのものであるなら、何も起きないのは当然だということに気づいた。どこの誰かもわからない、内容もわからない願いを叶えたとして、結局、この気持ち悪さは癒えないだろう。

 しかし、とりあえずやってやった、という達成感は、私の気を抜けさせ、さっきまで病的なほどに迫ってきていた興味をじんわりと萎えさせた。煙管をしまうと、あまりに手持ち無沙汰になってしまうものだから、しばらく煙管をくるくると回して遊んでいたが、それにもすぐに飽きて、私は鞄を漁った。

「薬でも調合するか」

 今日回っただけでもかなりの量の薬を他人に渡す約束をしてしまった。お礼としていくらか稼げたのはいいが、これでは自分たちの分が不足してしまうだろう。

「この辺りの植生、別におもしろくないんだけど――」

 夜の時間は趣味に充てたいのに、これじゃあまるで仕事だ。だけれどいつしかやらないといけないことでもある。私はため息を吐きながら、埃まみれの本を戻すことにした。

「聞こえます――?」

 何の準備もなく、耳元で聞こえるような声だった。

 私は、びっくりして本を手放してしまう。本はくるくると宙を舞いながら、床にドスンと落ち、痛っ、と唸り声を発した。

「えっ、あっ、ごめん――」

 反射的に謝りながら、本を拾い、埃塗れなのが急に申し訳なくなり、手抜きの掃除が見つかった時のように急いで手で払い――私はふと首を傾げた。

「なんで本に謝ってるんだ――?」

「私が喋る本だからです、何落としてくれてるんですか、本は傷つきやすいのに」

 本からの声は耳で聞き取るものではなく、願いを聞くときの感覚に近い。男だか女だかも怪しい声が頭の中に響いてくる。喋り口と抑揚から、多分女性ではあるのだが。

「聞いてます? あなたに喋ってるんですよ、あなたに」

 詰め寄るような声に、改めて謝罪をしてしまう。

「えっ、ああ、ごめん――本と喋るの初めてだから」

「ぼーっとしないでくださいな。水に濡らしたりしたら本当――」

 まず、なんか偉そうな喋り方をするなと思った。その次に、なんで本を相手にへこへこと謝っているのだろうと思った。そして、私は疑問に思った。

「水、落としたらどうなるの?」

 すると、彼女は悲鳴じみた怒りの声を上げた。

「や、やめて! やめてください! 私は! 稀有な命ある本なのですよ! この殺人者!」

 軽く脅しをかけてみても、あまり反応に変わりはない。どうやら高貴な身分の本のようで、その身に染み付いている対話の仕方がこれらしい。わたし、ではなく、わたくし、と言っているし――なんだ、高貴な身分の本って。本に階級って値段ぐらいしかないだろ。

「はあ、久々に夢を見てるのかな。今日は思ったより疲れたのか」

 私は本を枕にベッドに寝転がってみたが、思ったより反抗はなかった。

「あれ、夢じゃないとか、枕にするなとか、そういう反応期待したんだけど」

 聞いてみると、本は冷静に返した。

「本で遊ばないでくださいませ」

「それもそうか」

 私は、それだけ応えて、そのまましばらくぼーっと天井を眺めていた。頭の中で起きたことを整理し、今の状況を整理して――どれだけ分かりやすく噛み砕いてみても、あまり正気とは思えない結論に何度も至ってしまう。私は頭を掻き、ため息を吐いた。

 どうやら誤魔化しようがない。私は、人ではなく、本の願いを叶えたようだった。

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