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第四十九話

 夜明け前、人々は未だ起きず、しかし動植物が身を起こす時間。ノックの音もなく、宿にガンファが訪ねてきた。玄関を開けると、ガンファはそそくさと室内に入ってくる。

「こんな時間に、先約もノックもなしとは、無礼の極みだね、ガンファ」

「悪いな、夜更かし常習犯には必要がないと思ったんだ」

 ああ言えばこう言う。ガンファに座るよう勧めたが、彼は首を振った。

「いや、軽く確認したいことが一つだけだ。ふと思い出したんだ。昨日、お前が診た中で口塞病の患者がいたって話をしたよな? そいつ、俺達より少し年下くらいだったか?」

 まくしたてるような彼の話し口に首を傾げつつ、ぼんやりと応える。

「まあ、そうっぽかったけど――なんで?」

「名前は分かるか?」

 私は、ちょっと待つようにジェスチャーをしてから、外套を探る。

「確か、その患者には診断書を書いたから覚えているはず。あった、このメモの――カランド、かな」

「運が良いのか、悪いのか――」

 ガンファはその言葉通り、喜ぶにも喜べぬ具合で複雑な表情を浮かべていた。だが、その後の言葉をすぐに続けてくれないものだから、私は痺れを切らした。

「ねえ、話が見えてこないんだけど、急にどうしたの?」

 彼は、ああ、すまない、と、伏して遠くを見つめたその目をようやく私に向けた。

「思い出したんだ。この街に来たばかりの頃、まだ、住民がまともに口を利けていた頃だ。この家から逃げ出した奴の話を聞いた。年齢は二十と三。逃げた奴の宛てを聞いたときに、そのうちに戻ってくるか、もう野垂れ死んでしまったかのどちらかだと答えられた。理由を聞いたら、肺に重い病気を患っていて――症状を聞くと、口塞病と合致。そして、そいつの名前が、カランドだったことを思い出したんだ」

 カランド――一人暮らしの男性で、小さな家を借りている。私の印象としてはそれだけだ。新月病はこのリアに根差すものだと思っていたが、その考えは改めるべきかもしれない。もしくは他人の空似か。

「リアから現実的な距離にあるのはリネーハだけ。その可能性は大いにあるね」

 それならば調べない手はないだろう。ガンファは大きく頷く。

「そこでだ。彼がリアの者と同一人物かをまず調べてほしい。合致した場合は――彼が新月病を患っているなら、その情報が欲しい。患っていないなら、その原因を、だ」

 リアの新月病は患者が自認できないものも多い。せめて近所の人間たちに話を詳しく聞かなければいけないだろう。となると、時間がかかりそうだ。

「了解。祭具はしばらく持ちそう?」

「しばらくは気にしなくてもいい。それにおいそれと調達できるものでもないだろう。できるだけ慎重に治療に当たらせるつもりだ」

「分かった。調査が長引きそうならリネーハの方で宿を取るから、こっちの事は気にしないで進めて。いろいろと分かり次第、連絡を飛ばすから」

 私は外套から、持っていたピアスの一つをガンファに渡した。

「夢見の言耳か。お前とは相性がいいだろうな」

「誰よりも夢を自由に行き来できるからね。当然、夜にしか情報交換ができないから、徹夜は厳禁でお願い」

「――善処しよう」

 苦笑いするガンファ。恐らく冗談などではなく、寝ずに作業しなければならない状況が何度かあったのが見て取れる。医猟団の奴ら、血の気が多すぎて、自分たちが不健康に陥ることがあると、ローデスが嘆いていた。水を注ぎて、飲むを忘れるとはこのことだ。医者としては恥ずかしいが、狩人としては誇るべきなのだろうか。

 ガンファがピアスを耳に着けた辺りで、ベッドからがさがさと音がする。

「これ以上は起こしてしまうな。時間も時間だ。そろそろ俺は戻ろう」

 ドアをゆっくりと開け、一歩一歩を丁寧に歩く。

「ガンファ」

 私の呼びかけも釣られて小さくなってしまったが、ガンファはすぐに振り返った。

「なんだ?」

「私の浅い経験の上だけど――このタイプの新月病は、患者どころか自分の命だって危ないことがある。何もかもにも警戒するのは難しいけれども、そうしろ、としか言えない」

「ああ、わかった。お前も気をつけろよ。なにせ神授医でもないのに新月病を治そうとしているんだからな」

 相変わらずの減らず口だ。私は口角が勝手に上がるのを感じた。

「冗談、あんたよりは経験豊富だよ」

「なら安心だな」

 一言返さなければ気が済まないところが、彼の獰猛さを示しているのかもしれない。


 朝。人もとうとう動き始める頃だが、騒がしいのは医猟団のテントだけで、リアの街の人々には一切動きが見られない。『掟』の術でその自由を拘束しているのだから、当然と言えば当然なのだが、ここまで静かだと、あのイェルククの寂寞とした朝を思い出してしまう。

 私はいつも通り寝起きの悪いナナを叩き起こすと、まずリーゼのことを話した。

「よろしくお願いします、リーゼさん!」

 ナナは、ベッドに立てかけられているリーゼに対して、初対面の人間にそうするように、いつも通り深く勢いのあるお辞儀をした。『信仰』の派閥が見たら、聖典に対しての新手の儀式だと思われそうで、ちょっと面白い。

「よろしくお願いしますね。で、メルン、なんであなたはクスクス笑ってるんですか」

「リーゼ教会とか開く?」

「その半笑い止めなさい! 本は本でも命ある本なんですよ! 不敬です、不敬!」

 リーゼのお偉い態度も、やけに反応がいいので、からかうのが楽しくなってきた。

 二人をからかって遊んだ後、私は馬車の準備に取り掛かった。今回、リネーハでは調べたいことがたくさんある。長めの滞在に際して、馬に乗るだけの荷物では心もとない。それに今回はやけに分厚い同伴者もいる。何かと彼女の知識は役に立つだろう。

「リーゼさん、小説とかもあるんですか?」

「当然。私は持ち歩きできる図書館も同然。何でも出せますよ」

 めちゃくちゃ調子に乗っているが、腰の低いナナとは相性もよさそうだ。

「二人とも――旅路を楽しむのは構わないけれど、いざという時はちゃんと頑張ってもらうからね」

「メルンさんに言われるの、若干心外なんですけど」

「ねー、あの人、昨日も私のこと散々からかってましたのに」

「メルンさんそういうところあるんですよ、意地悪な大人ですよねー」

 好き勝手言われている気がする。すごいむかつくけど、でも、私はふと、ルダ先生のことを思い出していた。あんな大きなプレッシャーを――自分の命を賭けることを見据えながらも、彼は平穏な素振りを見せていた。いや、平穏を楽しんでいた。きっと、それに終わりが来るということを知っていて。

 いつか、ルダ先生を取り戻す日は来るのだろうか――。まだ悪夢の全貌も新月病も、新しく増えたナナの問題も、どれも検討はついていないけれども――。

「あんま悪口言うと、あとでひどいからね――」

「わー! 勘弁してください! お昼抜きとか言わないですよね!? 冗談ですよ!?」

「私は何の問題もございませんから――水、かけたりしませんよね?」

「さあ、どうだろうね?」

 私も、今ある平穏を、じっくり楽しんでおこうと思う。

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