私は本を閉じて、ふう、とため息を吐いた。確かに、堅苦しい言葉遣いで書かれた歴史書よりは分かりやすいのだが、いかんせん、文字の書き方がバラバラで、目が疲れる。
「大体わかったけど、ピンと来てない部分がいくつかある。簡潔に説明できたり?」
「つまり、リーダーがズルしてたんで追放しました。その後、ズルリーダーが出ないようにみんなでリーダーになりました。それがリネーハの今の姿です」
「なるほどね。追放されたルオーメ家のその後は?」
本は唸りながら答えた。
「文献見てますけど、諸説ある、としか。そもそも歴史の主流は捉えられてるんですけど、支流は全く正確性がなくて。分家がそれぞれの地方を統治しているので、わざわざリネーハ全体の古代の歴史を掘り返そうって人もあまりいないのです。皮肉な話ですけど、リネーハは統治権が分かれたことによって、全体に帰するような利益はあまり求めなくなって自分の分家が得するような競争が起きてる状態です。初期の理念からは大きくかけ離れましたね」
私はリネーハの街を思い出す。各所に建っていた教会はともかく、その他の服飾店や飲食店、酒場など物質に溢れた街。いくら見ても飽きない嗜好品の数々。
「まあ、高貴って感じではないね。どっちかって言うと、印象は俗人的かも」
「でも、信心深くはあるんですよね。教会なんて真っ先に取り壊されそうなものなんですけれど――これ、古い情報だったりしないですか? 不安になってきました」
「合ってる、問題ないよ」
安堵の息――もとい声が聞こえた。
「よかったです。いや、それにしても不思議な文化ですよね、ほんと」
あんたの街でしょ、と言おうとしたが、口を噤んだ。彼女に記憶はない。実際ここの者――いや、物か? かもわからないし、その辺りを変に刺激する話題は避けたい。
「ところで、あんた、これからどうするの?」
「本に何を聞いてるんですか。私は読まれることが誉れなのですよ」
「いや――自分の起源を知りたいとかさ、そういうの、ある?」
すると本は押し黙った。どうするべきか、どうしたいのかを彼女は逡巡しているのだろう。私は、暇つぶしがてら、この古い装丁の本の表紙を拭った。どこにも文字はない。刻まれていた様子もない。だが、革の感触が、彼女に積もった歳月を確かに教えてくれる。
彼女は喋れず、棚の奥に放置されていた。誰にも認識されずに過ごした暗闇の中での時間。それでも生きてきたことは誤魔化せない。
本の装丁が、元の滑らかさを取り戻し始め、油でも塗ってやろうかと思案を始めた頃、本はようやく決断を下した。
「気になります。自分の存在意義とか、大したことではなく――単なる知識欲として」
「そ、それじゃあ、それを手伝ってあげる。一人じゃ歩けないでしょ」
彼女は特に何も言わなかったが、微笑んでくれた――気がする。
「じゃ、仮にでもあんたの名前を決めないとね」
一緒に行動するとなれば、これはやっておかなければいけないことだ。
しかし、本はまったく興味なさそうに言った。
「別にいいですよ、本って呼んでくれれば。他に喋る本もいないんですから」
この調子だと、困るのはこちらなのだが。本だけあって、そこの感覚が抜けてそうだ。
「私、二人きりで旅してるけど、そいつのこと人間って呼んだことないから。ちょっと気まずい気分になるの。ほら、何か希望の名前とかない? それで呼ぶよ」
「特にないです。というか、私には全ての記録があるので、名前被り気になっちゃって」
なまじ知識があるのも大変そうだ。私は少し天井を見上げてから、
「そう、じゃあ――リーゼにしよう」
すると、彼女はすかさず聞いてくる。
「ん、どういう意味です?」
ちょっと言うのが恥ずかしいような気がしたが、照れる先の相手もいないからいいか。
「昔、あんたみたいに知識が堪能で頭のいい奴がいたんだよ。親友だった。私にいろいろ物を教えてくれた男だよ。そいつの名前をちょっと借りただけ」
「そう、ですか」
本は少し黙ってから、静かに言った。
「記憶があるのも考えものですね。でも気に入りました」
「そりゃよかったよ。よろしくね、リーゼ」
首元のネックレスを眺める。
いつも通り、血を濾したような宝石が、月明かりを紅く染めていた。