「そうか、パラレルスが――」
パーウェルスの工房は、あまりに暗い。灯りを少しもつけないせいもあるだろうが、それ以上に、その訃報が闇の輪郭をはっきりさせているかのようだ。
しかし、彼女は自らの姉の死を冷静に受け止め、すぐに話を始めた。
「君たちがその金糸を使わなかったのは、賢明な判断だ。私は現場を見ていないから確かなことは言えないが、我ら『糸紡』の術に細工が成されたと見るべきだろう。まあ、使おうとしたところで、君たちには困難であっただろうが」
パーウェルスの顔をあまり見ないようにしていたが、この時は思わず顔を上げた。パーウェルスの調子は、外見上、特に変わらない。ただ、机上に広げられたルオーメの地図を見つめ、そのこめかみをせわしく人差し指で叩いている。
私は彼女の方を見つめながら、話を返す。
「罠が張られてたってわけだ。でも、それがどうしてか、そしてどうやってかがよくわからないんだよね。さっきも言った通り、あの図書館は『治安』の術で固められていた。現に黒縄はそのせいで図書館に入れず、棒立ちしてたわけだし」
ふむ、とパーウェルスは目を閉じて答える。
「そこを解き明かすには、大図書館の個室について探る他ないだろう。知っての通り、ルオーメだけでなく、リネーハの民全員がこの地の歴史に興味を持っていない。よってあの大図書館の秘密を握るのはその本ただ一つのみだ」
「まあ、そうなるか」
胸元の本をちらりと見て、私はあてどなく視線を泳がせた。血がべっとりと付着した表紙を見つめる理由はなく、怒りにも似た感情がまた涌き出すのを感じた。それを悟ったのだろうパーウェルスはまた口を開く。
「パラレルスを失ったのは、ルオーメとしても痛手だ。これを黒縄に気づかれたとて、現状は変わらないが、現状の打破は難しくなったと思っていい。申し訳ないが、君たちの脱出も、難しくなる」
「いいよ。元より逃げ出すつもりもないし、今日でそんな気も失せたから」
パーウェルスは、私の顔を一瞥し、そうか、と呟いた。
「任せっぱなしで申し訳ないが、本については君たちに任せてもいいだろうか。私はパラレルスの穴を埋めなければならない。しばらくは余裕がなさそうだ」
「ああ、いいよ」
頷き、沈黙が流れる。何か、パーウェルスがよそよそしい。身近な人の死があれば、人は動揺する。それは分かる。しかし、彼女の言葉の端々の調子とその所作が、何か違うということを告げている。
その違和感の一因は、彼女の口から発せられた。
「それと――パラレルスが死んだことは黙っていてほしい」
その言葉に、ナナは驚きの声を漏らした。
「どうしてですか、皆さんに伝えた方がきっと――」
半ば批判的に響きを含んだそれを、私は人差し指を立てた。ナナは開いた口を、やや不服そうではあったが、ゆっくりと閉じた。私の心配は杞憂だったようだ。自らの姉の訃報を伏せたいと、年頃の少年少女の前で話す事を憚っただけなのだろう。
「ごめんね、ナナも悪気があったわけじゃない。理由を聞こうか」
「すまない、私も言葉が足りなかった。――まず一つは、部下の混乱を防ぐためだ。君たちが思っている以上に、彼女はルオーメには重要な存在だった。秘匿された歴史を辿ることができる――それはルオーメにおいて一筋の希望であったのだ。それが潰えてしまったと知ったとき、民はどうなるだろうか。リネーハの民はよく言えば自立しているが、悪くは独善的だと言える。このコントロールを失えば、真に希望は無くなるだろう。そして、もう一つはこれに関連したことだ。その独善的な者の最悪な帰結はなんだと思う?」
それは、私も同様に考えていたことだ。
「私達が殺した――むしろ自然な考え方だと思うよ。パラレルスは安全と危険を正しく見分けられる知識のある人だ。そういった人間を殺すために必要なのは謀略だ」
「そうだな。だからこそ、君たちを黒縄よりの刺客と考える者が出てくる。私は君たちこそが最後の望みだと思っているが、民がそのような認識になった場合、ルオーメの動きは鈍化、最悪の場合は完全な停滞を迎えることになるだろうな」
「停滞って――」
「つまり長の暗殺、なんてこともあり得るね。私もこれには賛成だ。なんならパーウェルス、君が冷静さを欠いていたら、私から進言しようとも思っていたよ」
ナナは顔を俯け、服の裾を握り込んだ。
「そうなれば、我らルオーメに将来はない。永遠に飼い殺されるのみだ」
私は、ナナの頭を撫でながら答えた。
「ああ、約束するよ。パラレルスの死は口外しない」
館に辿り着いたあと、ナナは居心地が悪そうにふらふらとし、やがて椅子に腰掛けた。
「なんか――なんか変な気分です」
「だと思った。ナナは納得してないんでしょ」
ナナは首を横にふるふると振った。私は隣に腰掛け、その長い髪を手で漉く。
「納得はしてます。ただ、胸の奥がずっと苦しくて――」
「ナナも、似たような経験があるもんね。だからこそ、パーウェルスが強がりじゃなくて本当に冷静だってことが分かる。それが、なんだか気に食わない――ってところ?」
「――言葉は、悪いですけど、そうかもしれないです。自分の家族がいなくなって、それでもあんな風に――でも、分かってるんです。パーウェルスさんは、長だから。たくさんの人の未来を背負っているから、そんな風に居られるって」
「ナナはいい子だね。道理も感情もしっかり弁えてる。ナナみたいな子は、きっといい旅人になるよ」
ナナは悲しそうな顔のまま、少しだけ明るく笑った。しかし、それも束の間、彼女は真剣な表情に戻る。
「メルンさんも、何か、変だなって、感じてないですか?」
私の目をじっと見つめる彼女は、決して狩人のような目はしていない。ただ、純な瞳に反射した光の水溜りが、やけに眩しく思える。
「ナナにはバレちゃうか。感じてるわけじゃないよ。でも考えてた。ナナとは違う理由でだけどね。パーウェルスの言葉に、少し妙な響きを感じ取ったんだ」
「妙、ですか?」
ああ、と言葉を続ける。
「パーウェルスの言葉には、嘘にも似た何かが混じってた。いや、嘘という言い方は間違っているかもしれない。悪意のようなものは感じなかった――はず」
私の遅れた語尾に、ナナは眉をひそめて、分かりやすく疑問の意を示した。
「メルンさんらしくないですね。いつもだったら他人の気持ちだろうと考えだろうとずばずば遠慮なく断定するのに」
「手痛いこと言うね、ナナ。でも、その通りだ。私はそう断言できるほどの自信がある。でも、それはいつも、とある過程を通しているからだよ。今回はそれを抜かしている」
ナナはしばらく私の方を見て、その答えが返ってこないとなると、自らの頭をひねって考え始めた。ナナの答えは、数分間歩いた後に弾き出された。
「目を――見つめていない」
私はナナの頭を撫でつける。すると、ナナはやめてください、と照れ臭そうに力なく抵抗する。この頃は褒める時に頭を撫でると犬のしつけのようだと嫌がられるのだが、今は大丈夫そうだ。ひとしきり撫でてから、私は話し始める。
「正解。ハウゼの神授医たちの高等技術である心内把握は、患者を診療するために開発された代物だ。誰かの嘘を看破するための交渉術ではないし、誰かの心を揺り動かすための処世術とも違う。ハウゼではれっきとした医療行為であって、完全なる心内把握は患者の同意の下、あるいは信頼の下に行われることになっている。私もみだりに人の心を覗き見るようなことは避けているんだ。ナナは別だけど」
「えっと、それって――」
ナナは何か言いづらそうに両手を組んだり擦ったりした。
「ナナは患者だからね」
急に不満げな顔になった。こっちは気に食わなかったらしい。こういうときに彼女の機嫌を直す術は知らないけれども、うやむやにする方法は知っている。このまま訳知り顔で話を続けることだ。
「でも、これがいい例だよ、ナナ。ナナは今、明らかにむすっとしたでしょ。私はその理由を知りたい。でも私はナナの目を見つめたりなんかはしない。それは信頼から程遠い行為なんだ。でも、心内把握の技術は呪いにも近しい。目を見たら勝手に心が見える――そういうレベルの医者だっている。ガンファはそれを知らないことにする。私は目を見ないようにする。そうやって医者と患者の信頼関係は危うくも守られるわけだ」
「そうは言いますけども、関係ないときにも結構見たりしてますよね、メルンさん」
ナナの機嫌はどうやら悪化したようだ。
「さて、じゃあ今回の件だけど」
再びうやむやにしようとすると、また、ナナがむくれる。今回のは理由が明白だったので、私はナナの目を覗き込みながら話を続けた。
「私はこうやって目を見つめなきゃ確かなことは言えない。でも、私は心内把握に関しては先生たちに並ぶほどでね。目がちょっと合っただけでも、感情の気配みたいなものを読み取れるんだ。でも、パーウェルスは意図的にか、私と目を合わせなかった。顔は見たけど、それだけ」
「じゃあ、パーウェルスさんには何か隠し事があったってことですか?」
「さあ、どうだろうね。でも、パーウェルスは心内把握のことを知っていたはずだ。それを知ってて目を逸らすっていうのは、そういう意図があるんじゃないかって、疑わざるを得ない。そういう推論と――ちょっとした勘で、私はこう言っているわけだよ」
「パーウェルスさんが――裏切ったと?」
ナナは不安そうな顔をした。それはもう、具合が悪そうに思えるほど。私は彼女の頭を撫でながら答えた。
「ナナ、それは早計だよ。パラレルスは――パーウェルスは嘘が下手だって、そう言ったんだよ。私はパラレルスの言葉を信じてるよ」