目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第六十二話

 ナナが眠った夜中、本を取り出すと、リーゼが声を上げた。

「メルン、その本――」

「ああ、そうなんだよ。私もさっき気づいた――」

 血に塗れていた表紙は、深緑色を取り戻しており、ページの中身も無事だ。

「ほとんど血塗れで読めたもんじゃなかったんだけど――気づいたら元に戻ってた。考えられる理由としてはリーゼの願いを叶えたことかな。願いっていうのは、ただ一つを願っているように思えて、結構、欲張りだから」

「なんて都合のいい力。それで世界の困窮してる人たち丸々救えるんじゃ?」

 リーゼが軽口を叩いたので、彼女の表紙を軽くはじいてやった。

「それができたら苦労しないっての。さて、それじゃあ内容確認と――パラレルスの現場検証をしないとね」

「ナナは、本当にいいのですか?」

 机沿いの壁に立てかけられたリーゼは、小声で尋ねた。お節介焼きな奴だ。

「いつも強がってるけどね、ナナ、本当にまだまだ弱い子なんだ。心の強さっていうのは心を痛めつけて得られるもんじゃない。だから、こういう残酷なことからは、出来るだけ遠ざけたいの」

「彼女の意思を無視してもですか」

 眠る前に、ナナは自分も解読に参加すると息巻いていた。私はその時の目を見て、ナナがそれを知ったら敵にバレる可能性があると、そう諭した。

 リーゼの言いたいことは分かる。昔の私も無理矢理、ルダ先生のしようとしたことを知ろうとしたし、自らに宿った新月病を調べ尽くしたりもした。でもそれは、私がすでに手遅れな少女だったからだ。

「ナナは助手としてとてもよくやってくれてる。でも、戦略や交渉にはまったく適正のない、そんな純すぎる子だよ。だから、私がナナに言った足手まといになる、って言葉も本心だ。それに――自分の意思とはいえ、気づいてからじゃ遅いこともある。私達みたいな大人がすべきは、そういった残酷な一線から守ってあげること、それ以外はたくさん自由にしてあげることだよ――ってローデスが言ってたから、それを守ってる」

「ごちゃごちゃと言いましたが、結局そっちが本心なんじゃないですか。素直じゃないですね、この親バカさんは」

 私は身体がむず痒くなる感じがして、思わず頭を強く掻いた。

「うるさいな、どっちも本心だって」

 そんな様子を見てか、リーゼはくすくすと笑う。ほんと、嫌味な奴だと思ったが、私も釣られてしばらく笑いを堪えていた。そして、息を何度か吸い込み、リーゼを開く。

「それじゃあリーゼ、頼める?」

「――はい、わかりました、お願いします」

 逡巡のあと、リーゼは苦しそうに答えた。彼女の頭の中、というのがどのようになっているか分からない。だが、今までの彼女の口ぶりからすれば、記録したものは全て正確に把握している。ならば、あのパラレルスの惨状も、鮮明に記録したが故、残り続けているのだろう。

「酷なこと、お願いしたかな」

「本に気遣いは不要ですよ、メルン。残酷であれども、事実を記述するのが本の役割。これはある意味では本懐と言えるでしょう」

「夢見がちな空想を記述するのも、本の役割だって注釈しとくね」

 リーゼの空白のページに、あの場面がじんわりと写された。白と黒のみで描写されているのにも関わらず、記憶が新しいせいか、鮮明な赤色が眼に焼き付く気がする。私はパラレルスの身体に纏わりついた糸を指でなぞりながら確認した。

「まるで蜘蛛の巣みたいだ。糸は壁のあちこちから伸びてる」

「その形状も相まってか、見るからに罠という様相ですね」

「糸は首や手首、太ももの付け根――いずれも太い血管の通った部位に鋭く食い込んでたね。スケッチを見ても、あの時の見立てに違いはない。パラレルスは大量に血を失い、そのまま死んでしまったんだ」

「血が抜けるにしても、人間、時間がかかりそうですが」

「願うくらいの時間はあるかもしれない。だけど、主要な血管全てを切り裂かれてしまったんだったら、願う間もなく気を失う――と思う」

「歯切れが悪いですね」

「流石に、あんな状態の患者は診たことがないからね。でも、願いは彼女の目になかった。それが差し示すのは即死という解だけだよ。――リーゼ、壁を詳しく記述してたりする?」

「当然。あの場のことは全て記述しました」

 言葉と共に、薄暗い石壁のスケッチが現れた。左右の壁で二つのスケッチ。積み上がった黒い石煉瓦の壁には、白く記述された何かの線がある。

「これ、もしかして金糸?」

「糸かは分かりませんが、そこの色は金色だったと記録してます」

 石煉瓦に見え隠れする白を辿っていくと、それはやがて床の一点へと収束した。その他の線を見ても同じ。鷹の形をした紋章へと繋がっている。

「あの糸の仕組み自体が罠になっていたっていう予想は正しかったみたいだね。これが改造されたものか、元からこうだったのかは判別のしようもないけれど」

「パラレルスによれば、この技術は開発者が亡くなり、使用不能になったと」

「でもそれが何故か動いた――術者はまだ生きていると考えていいだろうね」

「そうなると、やはりリネーハの民が関与している可能性がありますね。妥当に行けばルオーメ内にいるはずですが――」

「話はそう簡単じゃないだろうね。そもそもリネーハ大図書館は古めの建物のはずだ。そんな長命な人間がいたら一瞬で分かるでしょ」

「そうですね。見取り図の日付は今から二百年ほど前です」

 天井を見上げ、背もたれに頭を預けた。天井の金色の模様が、漂う金糸のように思えてしまい、そっと目を閉じる。

「そうなると、術者がその間に変わったと考えるのが自然だろうね。何らかの方法でインフラを整備したっていう風に。ルオーメ内にその術者がいるんだったら、すでにルオーメ内のインフラは再整備されているはずだ。となると、術者はルオーメ外でその技術を継承している――と、まあ推測ではあるけど、そう考えると黒縄の仕業って結論になる」

「身内を疑わなくていいのはそれだけでありがたい話です」

 私は背もたれに倒していた身体を起こし、煙管を軽く吸った。

「でも結局、あの部屋が何なのかってことについては、推測の域を出ない。やっぱり最大のヒントはこの本にあるわけだ。でも――タイトルが頼りないよなあ」

「私も今、その本を転写していますが――これは本というより、手書きの日記に近しいです。これが役に立つのだろうかと、そう心配しています」

 だが、これのために罠が張られていたことは事実だ。どんなに下らない内容でも奴らには致命的であるはず。正しい急所をその中から探して必ず首元に突き付けてやる。私がリーゼのページを最初まで戻すと、そこにはすでに文字が現れ始めていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?