「この本は先ほども言った通り、手書きの日記のようなものです。歴史的資料に乏しいリネーハにおいて、こういった日々の暮らしの描写というのは貴重ですが、当時の文化を知るにしか能わず、黒縄たちが必死こいて守っている秘密のようなものは見当たらないですね」
「そうなると一から見てくしかないかな。リーゼ、どんなことでもいいから気になったページはない?」
「そうですね――それでは五十三ページをご覧ください」
リーゼに言われた通りにページをめくっていくと、遅れて文字が浮かんできた。
リネーハ大図書館の司書として、本来だったらこの部屋を与えられるべきだったのですが、様々な事由が重なりまして、私は図書館の人間でないに関わらず、こんな場所に小さな城を持つ運びとなってしまいました。それが、いくら上からの指示であっても、よく思わない人はいるでしょう。というか、私がそれを良しとは言えず――私には豪胆さが足りないと、司書の人は言ってましたけれど、神官に度胸は必要ないと思うんです。
「この日記はあの部屋に暮らしていた人間の物でしょう。女性は司書になるはずだった神官。他のページの記述から、この街の出身でないことが推測できます」
「神官――もしかして、先代のコーレウかな」
「かもしれませんね。リネーハ大図書館から伸びた地下通路はアラファ教会以外に宛てはなかったことを考えると――コーレウは通路をかなり古いと言ってました。実際、この日記の劣化具合からしても、通路との年代はおおよそ一致します」
「そんなのも分かるんだ。本の医者を名乗った方がいいよ、リーゼ」
「私はあらゆる無機物のスターですからね。私は、私以外に命ある無機物を見たことがありません。そうなると、私は無機物が進化する希望の光ということになります」
「はいはい、尊大な自己紹介はそんなもんにして。――それで、これを書いた人はどういう人だったか、それが知りたいな。もしかしたらリネーハ大図書館の隠し通路を整えた人間に繋がるかもしれない」
「承知しました。――ふむ、これ、本当に下らない日記ですよ、メルン。なんか年頃の乙女を覗き見ている感じがして、少し、いや、かなり恥ずかしくなってきました」
「本にもそういう羞恥の感情あるんだ。私もたまにナナに感じるよ。服の趣味とか、たまにフリフリしたものを持ってきてね、似合いませんかって見せてくるんだよ。若いって眩しくて甘酸っぱいよね。私には縁のない感覚だけど」
「それ、ナナからも聞きましたよ。結局買ってあげたんじゃ?」
「うん、買ったよ。私の羞恥心とナナの願望は別。それにナナが着たらちゃんと客観的に可愛いかったから、それは買うでしょ」
「親バカですよね、ほんと。いや、でもロマンス小説好きのメルンであれば、過ごしたのと同様の甘酸っぱさを持っていてもおかしくないから――いてっ」
「私の分析はいいから。この日記を書いた神官について、ちゃんと教えてよ」
「はいはい、分かりました――」
リーゼはページの文字を組み替えると、新たな記述を写した。
リネーハの神官の仕事は思ったより順調で――少し暇だと思えるくらいです。住民の皆さんは確かに信心深くはあるのですが、神に頼ろうという気はあまりなく。おかげさまで教会はすぐに閉めるし、友人は神官たる私におしゃれを勧めてくる始末。大教会の司祭様に助けを求めると、勤務中以外は自由にしてください、などと言うもので。私は自分の目が小さく、開いているか分からない――それを気にしなくていいから神官になったのに。
「確かにこれは――リーゼの言う通りだね。にしても目の細さを話しているってことはやっぱりこの神官は先代のコーレウと見て間違いはないだろうね。何代前かはわからないけど」
「少し希望が見えましたね。コーレウにこのことを話せば手がかりが得られるかもしれませんよ」
「だといいけどね」
言いながらページをめくっても、書かれているのは日々の些細な悩みについて。私は少し頬を緩ませながら、在りし日の少女の葛藤を眺めた。
「リーゼは――本だからあまり経験ないか。自分の見た目のここが気になるとか。そう見られたくなくて見栄を張るとか」
「彼女は、実は目が大きいけれど、神官の決まりでわざと細めていると嘯いていたようですが――メルンも似たような経験があるんですか?」
「私が、っていうより、ナナが」
リーゼは、ああ、と納得したあと、笑い声を漏らした。
「メルンの話は、どうやらナナのことばかりですね」
「こと、こう言った子供らしい話っていうのは、そうだね。私の子供時代はろくでもなかったからさ」
「でも、ナナを通して、その無邪気さを味わっているような、そんな気がしますよ」
「そう見える? まあ確かに――ナナとの旅でいろんなものを埋めている、そんな感覚はずっとあるよ。彼女の人生が完全に幸福かと言われれば、そうは言えないけど――」
「ナナは、そういうところは強い子ですね」
「うん。故郷の復興を信じて、彼女は前を見てる。ほんとよくやるよね」
ぼやきながらページをめくり、ぼんやりと文字を流していると、リーゼが声を上げた。
「待ってください、メルン。そのページ、そのページを読んでください」
一部神としてのメルン様は、この地を去ってしまうのだと、そう悪戯っぽく言った。そもそも一部神として収まるような方ではなかったのだから仕方ないのだろうけど。それにしても私にアラファ教会の運営が務まるか、その事が一番不安です。
「リネーハの街は、メルネポーザの街だった。そう考えるのが妥当ですね」
「つまり『糸紡』の術は、ある意味では『浮雲』の術になるわけか」
次のページをぱらぱらとめくっていくと、その文章量はまばらになっていく。だが、私はふと手を止めて、リーゼに聞いた。
「リーゼ、これ、どういうこと?」
リーゼの一番後ろのページを確認すると、そこにはまだ記述が続いている。が、リーゼの厚さも大きさも、ここにある日記より明らかに分厚い。
「リーゼ、ページ数はノートに対応してるはずだよね?」
本に対して、最大の敬意を持つ彼女は、常にそうしているはずだ。だが、原本の最終ページを確認してみると、そこに書かれている文章は異なっている。そして、その文章は異様なものであった。内容自体に問題はない。だが、これが、失われている文章なのだとしたら。これが先代コーレウの記述なのだとしたら。
――まだ齢も六だというのに、可哀そうに。カランドの病気、どうにかして治らないものでしょうか。今日もリアまで様子を見に行きますが、神官である私では、症状の緩和がせいぜいなのです。どこかでお医者様を――。
呼びかけに、リーゼは反応を返さない。
「ちょっと、リーゼ?」
強めに呼びかけても、憎まれ口の一つも返ってない。突然、目の前の本が、ただの本に戻ってしまったかのようだ。私は慌てて、リーゼのページを捲ると、木の葉が嵐に吹かれたかのように、どのページも文字が飛び交っていた。
「リーゼ――リーゼ!?」
明らかに様子がおかしい。記述を表すとしても、始めの文字から終わりの文字まで、丁寧に、一文字ずつを彼女は置き、本の再現とする。その理路整然とした行為の取れない彼女は、危険な状態にあることが推測できた。
だが、マスクを着け、目を凝らしてみても、彼女の願いは現れず、そうでなければ私には一切の介入ができない。私は、医者になり始めの頃の、あの無力感と焦燥感を抱えていた。願いを手にしてからは感じていなかった、どうしようもなさ。リーゼの文字はやがて力なく、ガタガタとしたまま、文章の形を成し始めた。血の抜けた腕が、震えながらも何かを差し出すように、整然の一歩手前で、文字は並べられ――私は、その文章に息を呑んだ。