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第六十四話

私の一番古い記憶は、あの大図書館の、秘匿された部屋でした。本に感覚というものはありませんから、私はどれだけ長い間、あの石床に放り出されていたのか、それは全く分からないことです。ただ、視覚未満の力で周りに埃が堆積しているのは見ていました。だから、それでなんとなく、私は昔からここにいるのだろうと考えていました。

 それから、ぼんやりと本に命など宿るはずはないのではないかと、そんなことを考えていた矢先、とても懐かしい雰囲気をした人があの部屋へと入ってきました。

「さすがは先達の君だ、未だに『治安』がこの図書館を満たしている」

 あなたは誰か、そう問おうとしても声などは出せる訳もなく、ええ、ただの本なのですから、そう思って、この人は私を呼んでくれるのかと、そう考えていました。すると、彼女は、私の心を知ってか、ただの本である私に話しかけたのです。その膝を折って、可憐で理知的な笑顔を私に向けたのです。

「初めまして。私はリギエース。『浮雲』のリギエース――あなたの後輩です」

 そう言われた時、本にも後輩というものがあるのか、とそんなことをぼんやりと考えました。だけど、深堀りしようとは思わなかったのです。あの時は、そんな考えは浮かばなくて。だって私は本であるべきなのです。至上の本であるべきなのです。

「私は、私の使命を果たしに参りました。先輩、もう少しなのです。私が、ここから連れ出し――いずれ彼女が、あなたを見つけてくれるでしょう。いずれ彼女が、あなたの願いを叶えてくれるでしょう。『あなたの力を借り、この日記をあなたと誤認させましょう。』大丈夫、バレませんから」

 私の願いとは。それが何なのか。私は、完全な本でありたい。だけれども、至上の本でありたい。それこそが願いで、あともう一つは――。

「失われた願いは、運命の糸を通して、必ず叶えられます」

 本でなければならないのです。本である必要があるのです。

「ですから、先輩、これはちょっとした手助け――運命の糸がたわむことのない、張り詰めることもない、そんな小さな一手なのです」

 本とは、何者でもありません。それこそが重要なこと。

「先輩。いつか、会える日を」


 マスクを着けたことは、彼女に対して、何の効果もなかった。が――それにより、私は事態の急変の瞬間を悟ることができた。リネーハに広がっていたあの堅苦しい空気が突如として弾け、消え去っていったのだ。

「『治安』が――破れた――」

 私は、目を覚まさないリーゼを、外套の中へと抱え込んだ。

 事態が呑み込めたわけではない。だが、リーゼはかつてあの図書館にいて、それを黒縄は狙っていた。それだけは確かなことだ。この場に隠し置くことは得策ではない。

「ナナ、起きて! 黒縄が来る!」

 寝室を開け放つと、ナナは既に身体を起こし、私の鞄を投げ渡してきた。

「緊急時は状況確認から、ですよね」

 襟元を正し、やる気に満ちた眼差しをよこす少女に、私はしっかりと頷いた。

「その通り、いい子だね」

 玄関を飛び出すと、あちらこちらから静かながらも戦火の音が聞こえてきた。ごうごうとした炎がなくとも、重い金属の音、叫び声――闇夜に潜んだ御伽噺の怪物が忍び込んだかのように、静かに、緊迫した夜が回っていた。

「メルン、聞こえるか」

 足元からの声を見遣ると、金糸の花が小さく咲いていた。

「ああ、聞こえてるよ、パーウェルス。『治安』の術が破られたみたいだね」

「状況は分かっているようだな。つい先刻、『治安』の術が破られた。それと同時に黒縄がルオーメに総攻撃を仕掛けてきたのだ。これは計画的な襲撃だ」

「奴らに『治安』の術を破る方法はなかったはず。どうして破られたの?」

「衛兵の報告では――パラレルスが外側から『治安』の術に干渉しているのを見たと」

 訃報を伝えた時とは明らかに違い、苦々しさがその口調から溢れていた。

「――最悪だね。あんたはどう考えてる?」

「パラレルスが裏切ることは考えられない。一番高い確率は、パラレルスの血液から作り出された、術を騙す存在――」

「『治安』は魂など頼らず、物質から存在を特定することに長けている。その機能を悪用されたってことか。十分にあり得ることだよ。私が確認しただけでも、パラレルスの血は医学的に尋常じゃないスピードで止まってた。血を吸われたと考えるのが自然だ」

 パーウェルスは舌打ちをし、冷静でない声を上げた。

「やはり血をやられたか――道理で事態が最悪になるわけだ」

「落ち着いて、パーウェルス。私達も動くよ、どうすればいい?」

 しかし、彼女は強い語気で断った。

「いや。こうなった以上、最早安全な場所はない。君たちは脱出を図ってくれ。元よりこれはリネーハの内紛――君たちに命を張る理由はない。君たちの手助けまでする余裕はないが――容易いはずだ。奴らの戦力は今、ルオーメに集中している。その間隙を縫え」

 ありがたい提案だ。生き残ったら、現ルオーメの長は非常に優秀だと伝え歩こう。

 だが、その感謝と私の願いは別だ。私は、耳から聞いた情報と現状を照らし合わせる。

「ルオーメに――そうか、ならまだ――勝機はあるな」

 その言葉がどれだけの意思を含んでいるのか、パーウェルスは悟ったのだろう。彼女にはとても似合わない強い語気でまくしたてる。

「メルン、君はここに数日と立ち寄っただけの者だ。そんな義理はないはずだぞ。やめておくんだ――生き急ぐ必要はない」

 その様子に私は思わず笑いが零れた。

「やっぱ――パーウェルス。あんた、いい奴だよね。それも底抜けに」

「ちっ、言っている場合か! 事態は一刻を――」

「パーウェルス――悪いけど、ハウゼの人間は、会って間もない人間の命を救う機会の方が多いんだ。だからこれはね、性分だよ。止められない呪いで、祝福なんだ」

 パーウェルスからの返答はなかったが――呆然としてる様子が思い浮かぶ。パーウェルスの返答がどうであれ、私のすることは変わらないし、彼女の言う通り、事態は一刻を争う。私はナナの手を取った。

「さ、ナナ、行くよ」

「わわっ――ちょっとメルンさん! どこに行くんですか!」

 足をもつれさせながらも、彼女は走りについてくる。

「アラファ教会。コーレウが、今回の新月病の要だ」

 月が上りきった夜長、リネーハの虚偽を暴く時だ。

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