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第六十五話

 ルオーメの民は、一度その襲撃を経験しているからか、連携の取れた動きを見せていた。パーウェルスのいる工房を囲むように守り、ところどころの屋根には偵察らしき者の姿も見えた。しかし、私達は戦局を詳しく見ている場合でもない。

 黒縄が集中している箇所を避けて、ルオーメから脱するのは容易いことだった。

 しばらく走り続けていると、ナナの息が徐々に荒くなっていく。

「ナナ、もうちょい頑張って」

「言われ、なくても――」

 ぜえぜえと喉を鳴らしながらも、ナナは気丈な台詞を吐いた。この分なら平気そうだ。

 見慣れた街並みに辿り着くと同時、あのやけに目立つ教会が目に入る。私は足を止め、ナナはぜえぜえと肩を揺らして、膝に手を当てている。

 アラファ教会は、不気味なほど静まり返っていた。走っている時は、鼓動と足音がうるさくて、周りの音など少しも気に掛けていなかったが、人がいる街とは思えないほどの静寂が、ここを中心に広がっている気がした。

 そして、その中にある一つの気配。おそらくコーレウだ。

 私はしゃがむと、ナナの目を見て、その肩を掴んだ。

「ナナは、ここで待ってて。ここなら多少は安全なはずだ」

 ナナの身体が息切れのものとは違う震え方をした。

「で、でも――」

 分かってるよ、ナナ。分かってる。

「平気。私はいつも通り戻ってくるよ。だから、またあとでね。そうだ、こんな夜中でお腹空いたでしょ。夜食、何がいいかな」

「――スープがいいです。干し肉と野菜の」

「ほんと、あんなのが好きなんて、変わり者だね。それじゃ、さっさと片して夜食にしよう」

「はい――いつも通り、ですよね」

「ああ、いつも通り、だ」

 ナナとの軽い別れ、軽い約束を済ますと、私は改めてマスクを着け直した。私がもし彼女と心臓を共有してないのなら、死んでも勝つ、なんて愚かしいことを言っているだろうな。死なずに勝つ。それが大事だ。死んでも勝つは――最終手段。

 教会の庭を踏み越え、ゆっくりと扉を開けると、そこにはコーレウの姿があった。

 コーレウは、祈るでもなく、ただステンドグラスに透かされた色とりどりの月光を呆然と浴びているだけだった。扉の音に、彼女は振り返り、笑顔を見せる。

「あら――どうされましたか、メルン様」

 いつも通りの調子。いつも通りの台詞。私はひじ掛けに体重を預けた。

「随分と余裕そうだね、コーレウ。ルオーメが大変なことになっているっていうのに」

 聞くと、コーレウは残念そうに眉根を下げる。

「存じておりますが――私は戦えぬ身。こうして祈ることしかできないのです」

「そう。まあ、私もあまり戦える方じゃないからね。何せ、願いを叶えるだけの力だし」

「では、共に祈りますか?」

「ごめん、信心深い方じゃないから、私」

「そうですか」

 コーレウは笑顔のままそう返すと、月光へと向き直った。

「ねえ、コーレウ。リネーハで、どれくらい長く過ごしたの?」

「さあ――いかほどでしょう。かなり長い間、ですね」

「そう。ルオーメが失脚する前くらいからかな?」

 コーレウは返事をせず、こちらに目線を寄こした。大きく開かれた瞳が、こちらをじっと見つめている。その目にぼんやりと浮かぶ願い。赤い、血の色をも冒涜するかのような水晶。ぽつりと、その欠片が一つだけ浮いている。

「やっぱ、願いが一つしか存在していないね、コーレウ。人間である以上、そんなことはあり得ないっていうのに。まるで『掟』でそう課されたかのように、君は一つの願いしか持っていない。他の――冒されたリネーハの民と同じだ」

「何が――仰りたいんですか?」

「ああ、つまりね――間違ってたら申し訳ないんだけど――」

 私は手元の煙管を深く吸い込んでから応えた。

「コーレウの目って、そんな大きく開かないんじゃない? 偽物野郎」

 コーレウは突然、手をこちらへ振った。握られていた糸くずがはらりと舞ったかと思うと、無数の針となって、突風の如く襲い来る。私は座っていた身体をそのまま後ろに倒し、その針の構造を見た。金色のオーラを纏った針は、目を凝らせばその奥に、先ほどの糸くずの欠片が見える。

 間違いなく『糸紡』の術だ。対面しているコーレウは偽物だが、この術は本物だろう。

「詠唱もなしとは恐れ入った――いや、常に詠唱が完了しているものなのかな。いずれにせよ――もう少し話してみない? あんたに有益なこともあるかもよ。私はただの旅人なんだから。この攻撃はなかったことにするからさ」

「殺意が透けてますよ、お医者様」

 私が立ち上がると同時、教会の長椅子が簡易的な弩砲へと形を変え、即座に矢を飛ばしてくる。石の矢尻をした簡素な弓ではあるものの、その全長は子供の身長ほどはある。私がその場に伏せると、教会の壁が削れる音がした。背後を確認すると、矢が砕け、バラバラとその破片を撒き散らしている。

 今、飛んでいった矢も確かに金色を纏っていた。しかし、飛んでくる破片は長椅子の一部だったのだろう、ほんの短い木の棒だ。

「しかし――確かに、交渉することに得はあると思いますよ。私ではなく、あなたにですが。この力は――ほんの一端でございます。しかしご様子を見るに、まだこの術の深奥には気づかれてはいないようで。そうであれば、メルン様。申し訳ございませんが、次の一撃が致命的になるかと存じます。故に、私の慈悲で、交渉に応じてくださいませ」

「わかった――普通に勝てなさそうだ」

 私は煙管を投げ出して、マスクを外して両手を上げた。

「要求を聞こうか、コーレウ」

「賢明でございます。私も無益な殺生を好みませんから。要求は、あなた様が今所有しているその本です。パラレルスの記憶によれば、リーゼと呼ばれているようですね」

 持っていることまでバレているらしい。私は眉根をわざと上げてみせた。

「本一冊で見逃してくれるの? 相当にすごい本なんだね、やっぱり」

 教会に吊るされた灯りも、弩砲へと姿を変えた。分かりやすい圧のかけ方だが、実際致命的で――手加減されているというのは事実らしい。次は伏せるだけでは避けられない。

「さあ、その場に本を置いてください」

「分かったよ」

 私はゆっくりと服の中に手を入れ、目当ての物を取り出した。

「――お医者様? 何かの冗談ですか? ランプは本を読むに必要な物。本自体ではございませんよ」

 だとして、降伏しても仕方がないし、救えもしない。私はランプに火を灯した。

「ああ、そうだね――だって、私が知りたかったのはあんたの目的だもの」

 ランプの灯りが強く揺れ始め、火を覆っていたガラスが砕け散る。

「あんたにリーゼを渡さなければいい――目的が定まったよ、コーレウ」

 コーレウの笑顔が歪み、引きつった。指に絡まった金糸が煌めき、その手が開かれると連動して弩砲がこちらへと照準を定めた。

「『炎は導――闇が見せる虚偽を照らし焼く。煙は本質――虚偽の本質はただの無だ』

 空気を穿ち、弾く音が響き、石矢が向かってくる。数は四。

 私は、ランプの炎を揺らした。

「『さすれば偽りなどは、虚ろと同様』」

 ランプから零れた火の粉は石矢へと纏わりつき、瞬時に燃え盛った。強い光の中、矢は消え去り、木の棒が足元へと転がった。

「この術の深奥には気づいていないけど、私の読みは当たったらしいね」

 コーレウが、笑顔をやめた。

「ハウゼには――そのような攻撃的な術があるのですか? 『医者』の街の名を改めた方がよいのではないですか?」

「はは、失礼な。これはれっきとした『医療』の術だよ」

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