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第六十六話

 ともすれば、派閥に頼ることのない術というのは、残酷だ。

 ローデスは、その若かりし頃に、ハウゼの大火を経験した。だからこそ、こと火に関する研究を怠ったことはなかった。最初は火傷の療法研究だったのが、火そのものの性質へと、いずれその研究は火の神性に触れることになってしまった。

 ハウゼには共通する術というものはない。しかし、ごく稀に、先生たちのような神授医が術を編み出すことがある。かつてのルダ先生が使った夢現の手術もそうだ。あれはあまりに特殊な術すぎて、未だ私以外に扱える人間を知らないが。

 それと違い、ローデスは火に関する『医療』の術を編み出した。だが、彼女のその術はハウゼでは到底受け入れられるはずのない外法。それが分かっていたローデスは、弟子である私にだけ、術を伝えた。

「悪しき幻は、不安を抱えた時、その闇から生まれ来る。それを払うのは、本質的に炎なんだ、メルン。私の炎の術は、悪夢を払い、妄執を払い、虚偽の全てを焼き尽くす。だけれども、この力がハウゼでは忌避される――それは分かるだろう、メルン」

「分かるよ。ハウゼの大火事は、今でも人々の心の中に、呪いのように残されている。でも、ローデス――この術はたくさんの人を救える。絶対に後世の医者達に残すべきだ、ローデス。それが医者の街の本懐じゃないか」

「ああ――だが、この力は強すぎるんだ、メルン。ハウゼが炎を受け入れるにはまだまだ時間がかかる。だから君だけに教えるのだよ。これは『医療』の他にも役立つ術だ。君がもし悪意ある虚偽と対面するとき、この術を使うがいい。火は――火は平等に全てを燃やしてしまう。だが、それは扱うもの次第だ」

 私の頭を撫でるローデスは微笑んでいたが、その瞳の奥に狩人の鋭さを宿していた。

「大火を溢さないようにしたまえ、メルン。そうしない限り、炎は君の味方だ」


 私は術をいくつか扱えるが、そのほとんどは『医療』に関連するもので、私自身は体術でどうにかするしかない。戦闘に使うとしてもかなり限られた局面だ。ローデスの炎の術も同様、アンと対峙したときには使いどころのなかったものだ。

「こんな形で噛み合ってくれるなんて――なんでも学んでおくものだね」

 コーレウはありとあらゆるものを弩砲へと変化させ、矢の弾幕をより濃くしていく。ランタンから溢れる火の粉は、その全てに纏わりつき、一つと逃すことはない。木の棒がカラカラと、まるで雨音のように絶え間なく鳴り続き、手元の炎はチリチリと私の爪の先を焦がす。詠唱によるこの炎は、最早、虚偽を許さない。この弾幕がどれだけ苛烈さを増そうとも、光が照らすことのできない闇はどこにも存在しない。

 背後からの石矢もまた、例外なく照らし焼かれ、木の棒が軽く私の背に触れた。

「不意打ちを狙ったようだけど、無駄だよ。これはそんな簡単な術じゃない」

「そのようですね。あなたを少し甘く見ていました。他者の願いを借りるだけの、無力な人間だと。考えを改める必要がありますね。あなたはれっきとした脅威だ」

 空気を弾く、耳心地の悪い音が止む。弩砲は全て停止し、元々の形へと返っていった。

「あなたのその炎は、確かに私の術を簡単に打ち破るようですね。あなたの認識外であろうとも、それは変わりないようで。それなら――」

 コーレウの指先の張っていた金糸が、教会のあらゆる場所に張り巡らされていたのだろうそれが、彼女の右手に集まっていく。紡糸の一工程であるかのように、その指に金糸が巻かれていき、やがてそれは水が馴染むように消えていく。

「闇を濃くしてみるのは、いかがでしょうか」

 言葉と同時、コーレウの姿は立ち消え――いや、教会の暗さが増した。月明かりに辛うじて照らされていた祈りの場は、今や目を凝らしても十歩先と見えないようになっていった。炎が元来持つ灯りとしての機能を以てしても、それは変わらない。

「物だけじゃなくて、暗さにも使えるんだ、その術」

 炎を揺らし、その虚偽を打ち払う。右へと揺らしたランタンから、軌跡を描くように火の粉が溢れ、まるで燃料がそうであるように、暗闇が一斉に燃え上がり、炎が離散する。

 剥がれた闇の帳から、右手が飛び出した。

 その右手は、爪が刃のように伸び、貫き手の形に揃えられている。

 狙いは、私の心臓だ。下から抉るように襲い来る――。

「――っ!」

 私は反射でランタンを翳し、明らかな害意を持つそれを受ける。炎は右手をせき止め、虚偽の爪を焼くが、コーレウの手も引くことを知らない。爪は焼かれた傍から、その虚偽を塗り重ね、脅威として留まり続けていたのだ。

「なるほど、確かに私とは相性の悪い術ですが、術を重ね続ければ、対処は可能なようですね。石矢とは違い、私の身体ですから、あなたの焼き尽くすスピードにもまた追い付ける。要は私自身のこの手で、あなたを始末してしまえばいい」

 コーレウはゆっくりと、炎を私の側へと押し出す。私は笑いを溢した。

「やっぱ私のこと舐めてんね、クソッタレ」

 腰からの勢いをつけ、左足からの蹴りを放つ。木の棒がけたましく音を鳴らし、その音を頼りにしてか、コーレウは蹴りを見ずに、左手で即座に対応する。しかし、右手の虚偽が一瞬綻んだのを見逃せるはずもない。

「こちとら『浮雲』とも一部神ともやり合ってんだ、舐めるなよ」

 どっちも、手加減してくれてたけどね。

 宙に巻き上げられた木の棒に、コーレウは目を見開いた。

「狙いはこっち――」

「流石に勘はいいね」

 木の棒が燃え、炎が爆ぜるように広がる。コーレウはとてつもないスピードで、まるで四足獣のように跳び下がった。彼女はステンドグラスに照らされる中、その身なりを一度整え、深く息を吐く。

「なるほど、なるほど。確かに油断すればやられてしまいそうです。ですが、あなたへの評価はやはり間違いのないものだったとお伝えしましょう。私の目的は達成できました」

 コーレウはそう言いながら、右手を掲げた。その手にあるのは本だ。私は外套の胸元を探ってから、舌打ちをした。

 コーレウは、確かに右手の虚偽を緩めた。だが、私もそれと同じように、手元の炎を一瞬緩めてしまったのだ。術は、その力の総量を変えることはできない。木の棒から炎を発した時に、彼女は虚偽を別の方へと――盗みに適した形に変え、リーゼを奪ったのだ。

 いや――本当にそうか? そこまでの間隙を、私が許しただろうか?

「あなたの術の力は、確かに脅威ですが、そう長く使われたものではなく、また派閥によるものではない。そういった術は力の総量が非常に少なく、もし戦闘になれば、相当に相性が良くなければ勝てる見込みはない」

 その笑みは勝ち誇っている。次で、決めに来るはずだ。

「そして、この本があれば――」

「『血にはその全てが溶け込む。診断においてこれほど重んじられるものもない――』」

「――『医療』の術ですか、悪あがきですね」

 カラカラと、弩砲が再び形を成す。弩砲は先ほどまでの微かな輝きと違い、術が集中しているせいか、金糸を厚く纏っており、金色に輝いている。弱点を完全に把握されているようだ。いくら虚偽を燃やせるからと言って、あの弩砲の矢の速度に対応できなければ、虚偽を燃やす前に、虚偽に貫かれて終わりだ。例え、対応できたとして、あれほどの虚偽に塗れた石矢を燃やし尽くせるとは思えない。いや、そりゃそうか――所詮は個人が編んだ『医療』の術。戦闘に対してはあまりに穴だらけだ。

「『許可して、施しの。病の真偽を測るため』」

 コーレウの手首から数滴の血が流れ落ちたが、彼女はその術を止めることはない。

「ほんの少しの傷――これで気を引けると思いましたか?」

 私は、侮蔑の混じった彼女の言葉に思わず笑った。こんな時に思わず高揚してしまうのは――病たる存在を目の前にして、獰猛さが抑えられなくなっていくのは――相対する者が患者ではなく病そのものになったときにこそ脳の奥が冷えた感覚がするのは――。

「私はやはり、どっちかと言うと、医猟団の奴らと同じなんだろうね」

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