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第六十七話

 私は、コーレウの身体から得た、瓶の中の血を眺めた。これは長命の血の構成ではない。免疫があまりに少なすぎる。それどころか、大人にも満たない免疫能力だ。だが本人は至って健康そのもの。羨ましくなるほどの活力に満ちている。

 私は瓶を投げ捨てた。瓶が割れ、血がべしゃりと、ほんの小さな痕を残す。

「ずっと考えてたんだよ、コーレウ。私はさ――」

「聞くまでもないですね」

 コーレウは術を集中させた弩砲を放とうとして――その術は途端に解けた。

「今――私は――何をして――?」

 彼女は呆然と立ちすくんでいた。振り上げた左手は行く末を無くし、空の右手はあてどなく漂っているだけ。彼女には何が起きたが分かっていないようだ。だとしたら、私の悪あがきは大成功だ。因果関係や認識を一瞬で歪めるような術を、私は一つしか知らない。

「ギリギリだったね、メルンちゃん。もう奪われちゃ駄目だよ」

 聞こえたのは少し幼い声だった。口調や抑揚はそのまま幼いのに、それが今ここでは頼りがいのある響きに思える。私は、投げ渡された本を受け取った。

「戻ってくると思ったよ、パラ」

 にこやかに笑う銀髪の少女。小さい背ながらも、高貴な出で立ちの服――はあちこちが破れており、ややボロボロな状態だった。だが、間違いなく、パラレルスだ。

 コーレウの身体が、がくりと膝をつく。私は煙管を拾い上げ、懐へとしまった。

「何が――起きた――?」

 コーレウはふらふらとしながらも、すでに立ち上がり始めていた。

「血が子供一人分抜けたっていうのに、復帰が早すぎるな。そこは流石といったところだけれど――」

 コーレウが使ったのは、虚偽の術ともう一つ。パラレルスの持っている歴史を読み解く術。だが、その性質は悪用をすれば、過去に干渉することができるのは検討がついた。パラレルスはおそらくその行為を嫌っているし、相当なことがなければ使わないだろう。なぜなら身体がどんどん巻き戻っていき、いずれは自らの世話も見れないほどに理性が退化してしまうからだ。しかし、コーレウはなんの躊躇もなくそれを使える。

「『浮雲』の身体っていうのは、どうやら人から外れ切っているようだね。どれだけの時を生きていたら、過去の時を躊躇なく動こうだなんて思えるんだか」

「――っ」

 コーレウは再び糸を弩砲に集中するが、それは叶わず、途中で霧散してしまう。

「術っていうのは、身体の感覚が大幅に影響する。それにあんたがさっき使った術の力はリーゼあってこそのものでしょ。自分の術の力を把握しきれていないなんて、実に偽物らしいじゃないか」

「なぜ――生きているんですか――パラレルス――」

 私はパラレルスの前に立ち、唾を吐くように言った。

「甲斐甲斐しく説明してやる義理もないよ、敵仲なんだからさ」

 だが、そう言いながらも、私は内心ほっとしていた。自分の推測が外れていたら、今頃、上半身と下半身が真っ二つになっていたか、よくても腹の中の臓物がぐちゃぐちゃのひき肉になっていたことだろう。人間の腸詰めだなんてごめんだ。

 パラレルスの異常に気付いたのは、彼女が死んでから少し経った後だ。人間の血液というのはそれは力強く押し出されている。こと太い血管を通るとなれば、その勢いは別格である。それが急所である一因だ。そして、それ故に飛び散る量もとてつもない。

 だが、パラレルスの死亡した現場にあったのは血だまりだけだった。罠の特性かとも考えたが、そもそもそんな細かなコントロールを効かせる理由がない。そこで私は、パラレルス自身に原因があるのではないかと考えた。

 パラレルスは過去を見ている、と言っていた。その性質は身体を若返らせてしまうのだと。もしも、あの時、パラレルスの瞳に願いがなかった理由が、即死ではなく過去に戻っていたから、としたら。そうであれば、あまりに早い失血にも説明がつく。壁に引っ付いていたであろう血痕すら――いや、そもそも壁に吹き出すことすらなかったのかもしれない。彼女が今やって見せたように、血は瞬時にコーレウの身体から抜けたのだから。なお血だまりができ、血の雫が垂れていたのは、コーレウが血を吸い取る術と拮抗していたからだろう。

 これをパーウェルスが隠したがったのも頷ける。万が一、コーレウがこの事実に気づいていたのなら、パラレルスの血を死守して、その魂を永遠に飼い殺しただろうから。

「さて、コーレウ――ここからどうする? さっきみたいに肉弾戦でもしようか? まあ感覚ががらりと変わっちゃったその身体じゃ無理かもしれないけど」

「確かに――」

 コーレウは獰猛な息を吐き出した。はあーっと伸びる、湿り気を帯びた吐息。

「確かに、甘く見ていました。勝機も策略もおくびに出さず、飄々としたその態度に、私は騙されていたようですね。ですが――お忘れですか。黒縄とは私達そのもの。私は別に一人で戦う必要はないのですよ。ただ、あなたを始末して、それから改めてルオーメのことは考えればいい――」

「だろうね。あんたは時間が欲しくて、私は時間がない。これは本当のことなんだけど私の炎は、あんたの虚偽を焼き切るに至らない。術の力の総量は変わらないし、あんたより弱い――あんたが言った通りだよ。どうやってその『浮雲』の身体を使っているかは知らないけど、その虚偽は身に染み付いているだろうから、体性感覚が変わった今でも、意味はない」

 コーレウは私の目を見据えながら返す。

「それでもあなたのその獰猛な色は消えない――さっさと逃げおおせるのが賢明な判断だというのに。もっとも逃がすつもりもないのですが、何故でしょうか?」

「ああ、それね――これは、ハウゼの者のほんの一部の人間がかかる致命的な病だよ。ハウゼの者は何年、何十年、何世代とかけたって病を駆逐する。だけどその駆逐は自らの手でなければ気が済まない――ハウゼから飛び出して戻ってこないのはそういう奴ばかり」

「愚者の集まりですね」

「そうだね。馬鹿だと思ってるよ。でも病だから、これ含めて私達は駆逐を諦めるわけにはいかないんだよね。知ってるかな、愚かしい狼は執着故、狩りに賢くなるってこと」

「残念ながら、あなたは時間を与え過ぎた。それが愚かしいと言っているんです」

 教会の扉を開け、ナナが飛び込んでくる。

「メルンさん! 黒縄が!」

「わかってるよ、ナナ。そう急かさないで。大丈夫だから」

 そばに駆け寄ってきたナナを背に隠しながら、私は話を続けた。

「そうそう。これはあんたを悔しがらせたいから言うんだけどさ。時間がないっていう言葉、あれ嘘だよ。本当はね、私も時間が欲しかったんだよ。なにせ、命ある本を燃やすって神経使う作業だからさ」

「燃や――なにをして――!」

 コーレウは焦りから、私の外套から零れる煙を見て、一気に怒りの表情へと変わる。

 私はマスクを着け、詠唱を始める。

「『炎は導、煙は本質――』」

 黒縄がガラスをぶち破って襲撃してきた。

「おっそいね、後手後手だよ」

 私は歯をむき出して笑っていることに気づいた。ああ、だって、お前らはいつだって私の仇なのだ。先生の仇なのだ――。

「『あなたの真の姿を見せんことを』」

 私の胸元から、煙は急激に立ち上り、その形を成した。

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