一番古い記憶は、あの方に造られた時だった。あの方は自分に似せて私を造られたのだが、それは人の身として存在するにはあまりに偉大で、神の身として存在するにはあまりに矮小であった。私は虚数存在としてリネーハに蔓延するであろう新月病を吸い取る――それが役目であると教わった。だが、それと同時にあの方はこう言った。
「生命とは本来、役割を与えられるべきじゃない。どの口が、って思うかもしれないけれど、神というのは君らが思う以上に対等で、無力な存在なんだよ。だから――私は、君に実りのある生を、間違いなく授けたい。何千年とかかっても――この世界に蔓延するであろう新月病を消し去るまで、その時まで待ってほしい。その時に、私は必ず君に報いるよ」
その言葉は、弱々しい宣誓だった。だけれども誠意に満ちていた。私には、それで十分だったのだ。その願いは、叶うかどうかは関係ない、本物だって伝わったから。
私はその後、リネーハの神官として、リネーハの方々と、そしてメルン様とあまりに満ち足りた時間を過ごした。そうしていく内、私はこの地を自発的に守りたいと思うようになった。使命とは、義務によってではなく、善性によって為されるのだと学んだ。
私は、運命の糸の先を見据え、人が干渉できる隙間をこじ開け、どうにかここまで持ってきたのだ。これこそが『浮雲』からの使者の役目。破滅を防ぐだけではならない。人々を守り、人々に自らを守らせる。それこそが役割。『浮雲』によるリネーハの消滅という最悪の結末は避けなければならなかったのだ。
「君はいずれ、『統べしの』の新月病によって、その身体を支配されるだろう。そこが、『浮雲』が待てる最大の線。その後には、リネーハの民は支配を受け、この世界全てを揺るがす勢力となってしまうだろう――そうなる前に『浮雲』は必ず君を救うだろう」
その言葉に、リネーハの救済が含まれているか、そんなことは考えるまでもなかった。ああ、それでは間に合わない。きっと人々はまだ気づけない。だから私は、この身の全てが奪われる前に、自らを分け、残る片方を本へと変えたのだ。身体だけでは『統べしの』に気づかれてしまう。私は自らの認識すらも虚偽する必要があった。自らが本でなければならない。見つからないように、目立たぬように――しかし、元々本好きの私は、その中でも一つ願望を抱かずにはいられなかった。
あなたの思う本をすぐに持ってくる、あなたの友足り得る本になりたい、と。
「『化粧は偽りではなく強がりで、そして願望への糸筋。それを含めた全てが私の本物。飾り気を偽りとしか使えぬあなたに、支配できる余地は元よりございませぬ故』」
奇妙な詠唱と共に、黒縄が煙の中へと吸い込まれていく。それは、飛び掛かったという様子ではなく、竜巻に吸い取られ、無遠慮に散らされる苛烈さに似ている。煙の中からばたばたと倒れる音がした。見ると、それは気を失って倒れているリネーハの民たちだ。
「『統べしの』の新月病は、じりじりと迫る影のようでした。私自身、私の意識の変容に気づけないまま、その傀儡となったのですから。しかし、所詮は病」
煙からついに現れたその姿は、コーレウによく似た姿でありながら、その所々が違うものであった。蛇のように細く鋭い目。神官にしてはあまりに軽薄で、妖艶に歪んだ口元。
「リーゼ――」
その名を呼ぶと、彼女は尊大で邪悪な笑いを浮かべた。
「ああ、長かった。長かったのですよ、メルン。あなたの良き隣人、リーゼはこの時を待ちわびていました。昔の名も身体も捨てるこの時を――」
「何を――」
コーレウの問いに答えている様子はなかった。私に言葉をくれているように思えた。しかし、結果的に、それはコーレウへの解答だ。
「所詮は病。その力の蓄積は私の身体に依存したもので――その身体を無くせば病の力の大部分は立ち消える――」
リーゼが足元の木の棒を拾い上げると、それは一瞬で杖へと形を変えた。彼女の術はコーレウが扱ったものと全く同じものであったはずなのに、その違いは歴然としていた。彼女の術の本質は、虚偽などではなく、化粧なのだ。
彼女は、杖を愛おしそうに撫でると、ようやくコーレウと目を合わせた。
その眼差しは、獲物を食い殺すときの目であった。それ以外がなかった。
「心臓のない私を真似るのは大変だったでしょう? ええ、確かにあなたは私がちょろっと意地張った理想の姿でしたが――」
彼女は軽いステップと共に杖をコーレウへと向けた。楽し気に踊るように、ようやく出番が回ってきた演者のように、その瞬間を待ち望んでいたように。
「『着飾った本物には遠く及ばない、あなたはここで死に絶える。私の名はリーゼ以外にあり得ませんわ』」
詠唱とは思えないほど、自然に流れ出た言葉は、コーレウの右肩から左腰までを容易く切り裂いた。いや、切り裂いていた。言葉が紡がれた瞬間に、その事象はすでに起こっていたとされたかのように。
これが、『浮雲』の術だ。何が起きたか、全く認識できなかった。術というのは物理的な何かを通すことによって超常的な現象を引き起こすものだ。だが、リーゼが今しがた使った術は、どうだろうか。先に、概念があった。世界が、彼女の唱える概念に従ったのだ。
「残念ながら、リネーハはこれであなたの支配には置かれません。それとももう数百年ほど、この私と踊りますか? お相手いたしますよ、あなたの足が折れてひしゃげるまで」
コーレウの身体はもはや支えを失い、真後ろへと倒れていく。その口は微かに動いたようにも思えたが――私が一番よく見ていたのは、その目であった。
――我らが統制の下に。
その目に映る願いは、他のリネーハの民――いや、黒縄と変わらぬそれだけであった。
倒れ行くコーレウは塵となって消えていく。本物に出会った偽物の末路は、呆気ないものだった。私が苦戦した時間を返してほしくなるほど、本当に呆気ない。
リーゼはその消滅を確認すると、その胸に手を当てて、穏やかな表情を浮かべた。
「『心臓は私にはなく、その性質はメルン様と同様でございました』」
その詠唱の直後、ごうっと音がした。リーゼは、予想外だったらしく顔をしかめる。
「再度のダンスのお誘いを断られました。そんなに私のステップは気に食わなかったのでしょうかね」
私は、はあ、と息を吐き、マスクを外した。
「さてね。長い間、本だったから、ステップが下手になってたんでしょ」