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第八十八話

 カルシャイチャは家へと着くと、調理窯を軽く押した。

すると調理窯は滑らかに左へとずれていき、そこから階段が現れた。

「やっぱりか。料理を毎日するのに、野菜袋を釜のそばに置いているのはおかしいと思ったよ。隠し扉だったわけだ」

「気づいていたのですね。メルンさんは何故、見逃してくれたのですか?」

「『浮雲』の友人が必死こいて、街一つ守ってたんだ。だから信じた」

「――コーレウですか。彼女は使命を全うしたのですね」

「今は、リーゼって名乗ってるよ。性悪で良い奴。あれって昔から?」

「――ええ。とても強いお方です」

 カルシャイチャが下へと呼びかけると、眼鏡をかけたままのロコが顔を出した。

「あ、あれ? もういいの?」

「ええ。危機は去りましたから」

 ロコの手や顔、その服はオイルに塗れて、黒く汚れているが、その顔色は問題なさそうだ。彼女の表情を見た瞬間、口から緊張がすっぽ抜け、そのまま椅子へと座りこんだ。

「無事でよかった――どいつもこいつも心臓に悪いな。ガンファといいカルシャイチャといい、血抜きの仕事にでも就いたら? エポじゃきっと一般的でしょ? 家畜を捌く機会なんて無限にあるんだからさあ――」

「あら、手厳しい。申し訳ございませんね」

「すまないって思うなら、鼻先から爪先まで全部説明して。私もう考える気力ないから」

 投げやりに言うと、何故かナナがくすくすと笑い始めた。

「何笑ってんの、ナナ。あんたもこっち来て」

「お叱りですか? メルンさん」

「違う。ここ座って」

 きょとんとするナナの身体をぐるりと回して、膝の上へと座らせる。

「ちょ、ちょ――メルンさん!?」

 細い身体は、簡単に抱き締められる。健康になったのに、脆くて崩れそうな、私にはそんな印象が付きまとっている。イェルククのときから、ずっと。

「あんたもだよ。――心配した」

「――えへへ」

 その身体に血が巡っているだけで安心する。呼吸の度に上下する身体に安心する。段々と、自分のはやっていた拍動も落ち着き、気分が鎮まったころ、ニコニコと眺めている周りに聞こえるように舌打ちをした。

「なにやってんの。どいつもこいつも、一から説明しなよ。早く」

「はい、すみません」

 謝意があるなら、その微笑ましいといった感情を引っ込めてほしい。

「私が、ロコさんをここに隠したのは――雪を降らせないためです」


「雪――って、またなんでそんなことを?」

「私は『浮雲』に居た頃、一つの運命の帰結を見ました。その運命の糸は、メカニカに雪が降ることで、世界が滅びるというものでした」

 私は、反射的にロコを見たが、彼女は落ち着いていた。

「カルシャイチャは『浮雲』のこと、全部隠さずに話してくれてさ――そんな人を嘘吐きって突っぱねるわけにもいかないじゃん。もちろん、私を騙すための方法かもしれないけれど、私が邪魔なら殺せばいいだけだし。まあ、寝てたら床から手が生えてきて、そのまま引きずり込まれたのはビビった。気づいたら知らん部屋だったし」

 ロコはそこまで話すと鼻歌を歌いながら、設計図を取り出し始めた。

「そもそも私はヨミミに雪を見せたいだけだったし、ロクロースが現れないことに関しては別にどうでもいいんだよね。だから、室内だけで雪を降らせるっていう室内降雪機を考えたんだ――パーツがちょっと足りないけど、これならすぐにでも――」

「ごめん、ロコ。その話、後でもいい?」

「――おっと、失礼」

 がさがさと設計図がしまわれる横で、カルシャイチャが話を続ける。

「その滅びがどのような形で現れるかは、正直わからないのです。しかし、近況を推測するに、『統べしの』がロクロースを取り込もうとしている――これが妥当な仮説だと考えています」

「また『統べしの』か――どうしてこんなに旅先に現れてくるかな。私は一介の旅人でしかないのに、こんなに巻き込まれて、いい加減イライラしてきてるんだよ」

「まあ、避けなければ、滅んでどちらにせよ終わりですから――」

 カルシャイチャは仕方ない、といった具合で話す。『浮雲』が告げる終焉は現実的だけれど、カルシャイチャが容易く発する終焉は実感が湧かない。

「そもそも、『統べしの』の目的って何なの?」

 問いかけるが、カルシャイチャはかぶりを振った。

「すみません。あまり先のことを教えては、『浮雲』の意味がありませんから。これでも最大限の干渉なのです。『浮雲』から抜けて、人の身で変えられる、ぎりぎりのところです」

「リーゼからも聞いたな、それ――じゃあ結局は私達の力でどうにかするしかないと」

「ええ、申し訳ないです――」

 私は息を天に投げかける。神が試練を与えているような、世界が元より厳しいような、何とも言えない感覚に陥る。

「まあ、わかったよ。で、エポの街はこれからどうするのさ?」

 窓からちらりと見える様は、レーチヤの巫女のシステムが崩壊したときによく似ている。人々があてどなく彷徨い、祈り場に過剰な祈りを捧げ、いつも通りの生活をするものも当然いたりして――この数日後がひどくなるんだ。

「私達、一部神殺しとかにされない? 平気そう?」

「ふふ」

 カルシャイチャは薄く笑った。

「凡庸な『神秘』の民と、数百年の時を漂った元『浮雲』の民。どちらが強いと思いますか?」

「こっわ。死人だけは勘弁してね。治政にも通じてるって、私信じてるから」

 そう投げかけたが、カルシャイチャは無言のままだった。

「――え、まじ?」

「ふふ、そんなわけないじゃないですか。ちょっとした冗談ですよ」

 おかしい、と言った具合に、カルシャイチャがけらけらと笑った。いや、年数の重みを冗談に乗せないでほしい。本気かと思った。

「とりあえず、数日間は差し迫った状況にはならないでしょう。どうか、エポの街で物資を整えて、その後で出発くださいませ。エポは必ず、私が立て直します。人として、この苦難を乗り越えますから」

「あんたがいるなら平気そうだね。ガンファもほとぼりが冷めたらまた来ればいい」

 ガンファは目線をつ、と逸らしながら、頭を掻いた。

「まあ――そうだな」


 翌日、大概の準備を済ませ、馬車に荷物を載せた。エポの街は混乱の最中にあると言っても、そのほとんどはいつも通りの生活を余儀なくされて、商店はいつも通りだ。カルシャイチャさんのような聖職の人は、どたばたしているけれど。

 荷物を載せ終えたメルンさんは、ロコへと話しかけた。

「そういえば、ロコも馬車に乗ってく? 道中、楽できるよ。ガンファもいるから美味しい食事付き」

 車輪をつけた機械を押していたロコは目を輝かせた。

「えっ、ホント!? いや、めちゃくちゃ助かるよ。この二輪に乗るのも体力いるし、食事を用意する気力も湧かないから、ほんとこの旅、地獄だったよ」

 すると、ガンファさんはいつも通りの呆れた声を上げた。

「全く、お前は勝手に物事を進める。神授医としての能力に甘え過ぎだ」

「残念、私は神授医じゃないからあんたにお説教を食らういわれはないよ」

「はあ――。その機械、乗せておこう。ロコ、君は先に荷台に入っておけ」

「なんだかんだ言って、子供に甘いのは変わらないね」

「やかましいぞ、メルン。体術でケリをつけてやろうか」

「お、珍しくやる気だね、いいよ、付き合ってやろうか、ガンファ」

「もう――メルンさんもメルンさんだけど、ガンファさんもガンファさんだよ」

 そのぼやきを聞いてか、ロコがくすりと笑った。

「大人っぽいけど、友達のことになると、あんな感じなんだね、二人とも」

「そう。難しい言葉は使ってるけど、内容は子供の喧嘩だよ」

「そうだね。でも、すごい楽しそうじゃない。特にガンファさんなんか」

「そう?」

 二人は殴り合いをしているけれど、その試合はとても綺麗だった。一つ一つが、まるで決められていたことのように、完璧な比率で描かれていて――問題のガンファさんの表情を見たとき、私はびっくりしてしまった。どうせ、呆れ顔で付き合ってあげてるのかと思いきや、ガンファさんの口の端には微笑みが浮かんでいた。誰かに優しくするための笑いじゃなくて、自分を奮い立たせるための笑いでもなくて、純粋にただ零れただけの笑顔。

「油が注がれたみたいだ」

「油?」

 ロコの呟きを思わず聞き返すと、彼女はこの前のように時計を見せてくれた。

「機械ってね、使ってると、どうしても動きが悪くなるんだよね。劣化とか汚れとか、その原因はいろいろだけど、そういう奴にはとりあえず油を差しとくんだよ。そうすると不機嫌そうにぎいぎい言ってた機構が滑らかに動き出す――」

 時計の歯車をくるくると回しながら、ロコは私を見つめた。

「私さ、人間も同じだと思ってるよ。長く生きた分、心に積もるものがある。心が欠けることがある。それで人は、上手く動かなくなる時があると思うんだ。金属が軋むように、心も軋んでいくわけでさ」

 ロコは再び、二人の方を見て、私も釣られるようにそっちを見つめる。

 とても、自然な光景だった。

「油を差すのは正直、気休め。汚れも錆びも、欠けた部分にすら目をつむって。でも、そうするしかないときがある。良いとか悪いとかじゃない。そうして、また心から笑えたらとりあえずは大丈夫、じゃない?」

「そう、かもね」

 私は、イェルククの麦畑を思い出していた。

 イェルククも私も、前に進んでいる。

「じゃあ、早く先に進まないとね、全く、あの二人は!」

 私は荷台から降りて、大声で呼びかけた。

「二人ともいつまでやってるんですか! 日が暮れるまでやるつもりですか!」

 二人の大人は顔を見合わせて、軽く、腕をぶつけ合った。

「待たせたね、ナナ。行こうか」

 運転席へ座るメルンさんとガンファさんを見送って、私は荷台に上ろうと足をかけた。

「――?」

 その瞬間、頬に何かがくっついた気がして、私は慌てて拭った。

 それは、白くて、ふわふわとしたものだった。

 思わず見上げると、空から、雪のような何かがはらはらと舞い落ちていた。

「灰、だ。ハルキュイネ様の、灰――」

 遠くから、叫び声が聞こえた。

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