祈り場では、エポが気を失っていた。顔面から地面に突っ伏してピクリとも動かない。
「一部神の力を弾かれたんだ、しばらくは身体も動かせんだろう」
「こっわ、気をつけよう――」
ガンファは祈り場の祭具をひっくり返すように漁り始めた。目的のものでないと見るやその傍らに投げ捨て、効率的に、しかし乱雑に事を進めていく。手伝いたさはあるが、ガンファが何も言ってこないということは、説明の手間が惜しい、ということだろう。
「そういえば、ナナは無事なの?」
「ああ。宿には強力に『治安』の術をかけて――しっかりと説得もした。奴らの勝利条件は、君を捕えることだと。ナナは賢い子だな。直情的な所もあるが、よく教育が行き届いている。冷静さは常にあるみたいだ。」
「まあね――で、目当ての物は見つかった?」
「ああ、これだ」
ガンファは立ち上がると、指輪を渡してきた。
「これが本来、ハルキュイネに唯一繋がる指輪だ。ハルキュイネから人間への接触を図ったことにより、必要ないアクセサリーになってしまったが――今こそ鍵としての役割を果たしてくれるはずだ」
「なるほど、ハルキュイネに直接干渉しようってことか」
「ああ」
「――いいの?」
聞くと、ガンファはしっかりと頷いた。
「気持ちはわかるが、そうするしかない。天秤は平衡でなければならないんだ」
「そうだね――『炎は導、煙は本質――』」
私は指輪を、煙管に焚べて、煙を吐き出す。
「『彼の者の願いが、あなたに届かんことを――』」
そこは花に満ち溢れていた。花畑は、ピンク、黄色、水色と煌めきの表情を見せ、ここがあの灰色の街と同様の領域だということは、言われなければわからないほどであった。
可憐で純粋な空間に、その少女は座り込んでいた。
長い金髪に青い瞳。フリルの装飾が施されたそのドレスが、その愛らしい内面を象徴しているかのようだった。しかし、何かを祈るように強く結ばれた手は、小刻みに震えており、その額には冷や汗が浮いている。。
「ハル――」
ガンファが声を掛けると、彼女はぱっと顔を上げ、驚きの表情を見せた。
「ファーレ、来れたのね――」
彼女は立ち上がり、ガンファに近づこうとするが、その足がもつれてしまう。
「ハル!」
ガンファは彼女に駆け寄り、その身体を抱きとめた。彼は、ハルキュイネを受け止めた彼の表情は穏やかではなく、千切れてしまうのではと思うほど、強く唇を噛みしめていた。
「お前は――いつも無茶をする。こんなに弱って――」
近づいてみても、一部神が放つはずの圧倒的な気配はどこにもなかった。ただ、赤の司祭ほどの気配もない。人間と比較したって、その生気は絶え絶えのように感じられた。
「ごめんね、ごめん。私じゃ――駄目だったの――」
ハルキュイネはガンファに支えられながら、ゆっくりと地面に座った。
「私には救う力があると、そう思ってた。一部神はそういう役目だって。私はエポの人たち皆が幸せになるように、そう願ってた。でも、そんな簡単だったら、もう、神の頭と神の心が、全部幸せにしてたんだろうね――」
「駄目なんてことはない、ハル。お前は優しすぎた。それだけなんだ。人を愛しすぎた。それだけなんだ」
ガンファの声は、静かにだが、震えていた。
「天秤を平衡に、か――。昔、メルン様にも言われたよ。君はそれだけが心配だって。心が強すぎて、頭が機能しないんじゃないかって――ほんと、その通りだった。メルン様はいつだって正しい――」
ハルキュイネのその力は、恐らく、人間達に使われたせいで、ほとんどが枯渇してしまったのだろう。そして、街としての倫理観が薄くなっていき、結果として、ナナに手を出すような運びになってしまったのだろう。
「そう――きっとあなた達が来なくても、他の誰かに、悪行を働いてたと思うよ――」
「――だね。まったく、同じ意見」
ここは一部神の領域、私の考えることなんて手に取るようにわかる、か。
だとしたらハルキュイネは、私達がこれからどうするかにも気づいているだろう。
「ファーレ。私と人間を、切り離しにきたんでしょう?」
ガンファの唇から血が滲んだ。そこから垂れた血を、ハルキュイネは、細く、折れそうな指で優しくぬぐい取る。そして、彼女は可憐に笑った。
「わかってる、わかってるよ。そうすべきだってわかってる。悲しいけど、苦しいけど、でもそれが一番いいって、よくわかってるよ」
優しく諭すような声に、しかし、彼の声は荒れていた。
「だが、ハル――!」
「私ね――実はさ、今が、一番幸せなんだよ」
ハルキュイネは、その笑みを崩さない。純粋で、透き通るような笑顔。
「『妬みしのハルキュイネ』は、人を愛したくて、愛したんじゃない。人に愛されたくて愛したんだよ。自分勝手で、わがままな、そういう存在。でも、振り返る人々はいずれ私の力だけを見るようになって、私のことを忘れていった。だからね、ファーレが来てくれたとき、嬉しかったんだよ。ファーレはずっと私のことを見てくれた。私のことを愛してくれた。私のことを大事にしてくれた――だから、これで十分なの。わがままな私の、敵わなかった願い。それを叶えてくれたから――」
ガンファはそれに、声を発することができなかった。その喉は締まり、感情を吐き出すまいとせき止めているようだった。ハルキュイネはふらふらと立ち上がり、ガンファの頭を抱きしめる。
「いつか――また会えるよ、ファーレ。私がわがままじゃなくなったら。この思いを呑み下せるようになったなら。あなた達の悲しみを見つめても、天秤を傾けずにいられるようになったなら。そのときにまた会おう、ファーレ」
ハルキュイネは、ガンファの頭を離して、また、そよ風が吹くように笑った。
ガンファは顔を上げ、言葉を発さなかった。
ハルキュイネは背を向け、彼を降り返らなかった。
ただ、呆然と、その景色を眺めることしか、できなかった。
轟轟と、強い音が響き渡っている。
私が身体を起こすと、ガンファは既に服を整えていた。
「外が騒がしいな」
「何の音?」
祈り場の空気が、ぶるぶると震えている。隣で太鼓でも打ち鳴らされているかのような心地だ。絶え間ない轟音に慌てて外に出ると、エポの民達は空を見上げていた。
「お二方、無事ですか」
広場の中央にはカルシャイチャとナナが立っていた。二人とも、私達に目を遣ったが、すぐ他の民と同じように空に見入ってしまう。何事かと振り返ってみると、祈り場の頂上から噴き出した炎が、空へと、渦を巻きながら吸い込まれていくのが見えた。
「ハルキュイネは空から来たりて、民を癒し、しかし、やがて空へ帰る日が来る。民はそのときまで忘れてはならない。ハルキュイネの庇護の下、自らの命があるのだと。そして、ハルキュイネの陽だまりのような庇護は、突然に失われるのだと――」
カルシャイチャが何かの一節を読み上げ、視線を落とした。
「エポに伝わる預言です。長く埋もれており、民はこの預言を忘れ果てました。『どのような物事も、果てでは自然へ収束する』――これが、口噛の術の初めの一節。それを覚えていたのはガンファ様だけだったのです。忘れ果てたゆえに――エポは自然へ帰ってしまったのです。ハルキュイネとの繋がりを失う、という形で」
炎は、火山の力をすべて吸い尽くすかのように、空へと舞い上がり続ける。
あの無垢な炎は、いずれ帰ってくるのか、それが私達人間の生きているうちに為されるのかは、今はまだわからない。一部神は、良き隣人でしかない。願いをなんでも叶えてくれる道具でも、人類の完全なる庇護者でもない。
「カルシャイチャも覚えてたのに、どうしてエポは救われなかったの? 知っていて見守ることに徹していた。まるで――『浮雲』みたいだ」
「メルン、お前――。本当なのか、カルシャイチャ」
その指摘と質問に、彼女は目を伏せるのみだった。
「責めるつもりはないよ。ただ、ロコはどうしたのかなって、気になってる」
「その話は、彼女も同席した方が良いでしょうね――こちらへ」