侍女が部屋を出ようとしたところで声をかける。
「ちょっと、待ってもらえますか? これをメリンダに渡して貰いたいのですが」
私はかばんからハンカチを取り出す。
旅の間に作った、小さな蜂の刺繍がしてあるものだ。
「畏まりました。あとで必ず渡しておきます」
侍女は
遠ざかる侍女の背中を目で追ってしまったのはなんとなく、だった。
だから廊下を曲がる時、彼女が手に持つハンカチがぐしゃりと握られたのを目にしたのもたまたまで。
「あっ……」
思わず声が出てしまった。
どうして、と一瞬そう思った。
けれど、急に婚約者として現れた私へ、良い感情を持つ人ばかりじゃないのも理解はできた。
それにあの侍女はいつもあの幼女……じゃない、チェリエに振り回されて心がくたびれているのかもしれない。
そう思ったらなんだかちょっぴり可哀想になって。
だから仕方がないかと思えた、けど……。
「あんまり見たくはなかったな」
それは私の偽らざる気持ちの吐露だった。
それにしても結局、キール様のお母様だというのはどういう意味だったのだろう?
はぐらかされたようで、それも少し気持ちが悪かった。
「……直接聞いてみよう」
今日は昼食を一緒にとる約束をしているので、その時に聞いてみればいい。
そう考えてから、自分がまだ
朝からバタバタしてたもんな……
そういえば今日はメリンダがいないから、髪も自分で
適当に服を見繕って着替え、髪も梳かし終えると、外から僅かに窓を叩く音が聞こえてきた。
どうやら雨が降り出したようだった。
「お昼は庭園で食べる約束をしてたのに……」
残念、と私は肩を落とた。
けれどこれからいくらでもその機会はあるし、と気持ちを切り替える。
「よし! お昼まで時間があるし、昨日やってた刺繍を終わらせちゃおう」
私は机に置いておいた刺繍枠を持ち上げた。
今取り掛かっているのは、リスの刺繍だ。
動物シリーズを作ろうと決めたのは旅の間で、元からある蝶に加えて鳥と蜂を作った。
一度作ると魔力で簡単に象れることが分かってから、なるべく多くの種類を作りたくてそう決めたのだ。
今作っているリスは、4つ目の動物シリーズということになる。
「よし、これでどんぐりも終わって……完成っ!」
どうにかギリギリ昼食前に完成させることができた。
刺繍枠のネジを緩めて、ハンカチを広げると……うん、かわいいリスさんだ。
ドングリを両手で持って、食べようとしている姿はどこまでも愛らしい。
「さぁ出ておいで」
私が魔力を通すと、机の上にリスが象られた。
ここまではもう手慣れたものだ。
魔力で作った動物たちは、見えない糸のようなもので私と繋がっている。
その糸を通すことで、自由に動かすことができるのだ。
まるで本物そっくりのリスは、滑るように私の体を登った。
それから肩に乗っかって、魔力でできたドングリをかじりはじめる。
しばらくの間、もふもふの手触りに癒やされていると、昼食の時間になる。
そうだ、この子も連れて行こうっと。
私は薄いピンクのボレロを羽織って、部屋を出た。
「待たせたか?」
キール様は急ぎ足で大食堂へ入ってきて、私を見るなりそういった。
「いいえ。大丈夫ですよ」
確かに少し待ったけど、その間に魔力を象ったりしていたから暇はしていなかった。
そんな私の答えを聞いて、安心したように息を吐くと席につく。
大きな長机の一番端。そこがキール様の定位置らしい。
私はキール様の隣に席を用意されていた。
「お仕事はお忙しいのですか?」
「そうだな、国境沿いがかなりきな臭くなっている。近いうちに私も行くことになるだろう」
そういってから、キール様は私の頭を撫でた。
「少し寂しくさせるが待っていてくれるか?」
「はい、もちろんです」
「おや、ところでそこの
「そうです、可愛いでしょう?」
キール様は、その手を伸ばしてリスの体を撫でてくれる。
リスはキール様の腕の上を走って、するすると頭の上に登るとドングリをかじる。
もちろんそれは、私がちょっとしたイタズラのつもりでやったこと。
「はは、まるで本物のリスのようだな」
キール様は嬉しそうに笑って、頭の上のリスを優しく掴むと、手のひらの上で遊んでいる。
そんな姿を見ながら、私はごくりと唾を飲み込む。
そして大きく息を吸って。
「そういえば……チェリエ
何気ない会話のように。なるべく自然を装ってそう口にした。
けれど、その名前を聞いたキール様の変化は劇的だった。
笑顔がひきつり、口角を震わせ、リスを撫でる動きも止まった。
時計の秒針が鳴らす音だけがやけに響いて聞こえる。
しばらくすると大きなため息を吐き、遊んでおいでとリスを床に降ろした。
「隠すつもりじゃなかった、といったら信じてもらえるか?」
「もちろん信じます。ただ、チェリエ様は”いつだってチェリエを隠したがる”といっていましたけれど」
「意地悪な言い方をしないで欲しい。隠しているように見えるのは、そうした方が
キール様はそういうと、グラスに入った水を口に含んだ。
「……
急に天啓の話が始まったので、少し面食らってしまった。
けれどキール様は構わず続ける。
「それは女神による祝福と……呪いだ」
呪い——そう口にした瞬間、キール様の顔が歪んだ。
その表情は、憎しみと悲哀がないまぜになったような複雑さで。
「ええっと、呪い……ですか?」
「自分の天啓を知ってしまったばかりに戦場に駆り出される。これもある種の呪いだろう」
それはキール様か聞いた時、怖いと思ったのでよく覚えている。
「しかし
「チェリエ様も天啓を賜っていたのですね。それってどういう……?」
そう聞こうとしたを遮るように、キール様は首を横に降った。
「いくら相手がリアでも、本人の許可なしに教えるのは
「そうですよね、すみません」
「とにかく女神の祝福をギフトだと人はいうが、別の側面から見れば……
天啓を持っているんだと、少し浮かれていた自分に冷水を掛けられたような気分になった。
果たして私の天啓は祝福なのか、それとも呪いになり得るものなのか。
そんなことを頭の中でぐるぐると考えていた。
「さあ、怖い話はこれくらいにして食事にするとしよう」
キール様が明るい声でそういって籠に積まれたパンへ手を伸ばす。
異変を感じたのは、彼に倣ってパンに手を伸ばそうとした時だった。
「メリンダ……?」
朝方に侍女へ渡したハンカチは、くしゃくしゃになってメリンダの元に渡っていた。
それはさっき蜂を象ってみて、分かったことだった。
しっかりと意識をすれば遠くの刺繍にも干渉できるのは実験済。
だからこそ侍女に持たせたのだ。メリンダに何かあれば分かるようにって。
その蜂からは、メリンダの激しい感情がありありと伝わってきて……。
「キール様、チェリエ様のお部屋はどちらですか? 私……行かなくちゃ!」