ヨウマは時折、自分に血の染みを見出す。風呂に入る前、裸になって鏡を見ると、そう感じられるのだ。そんなことは現実的にありえないとわかっていても、怖くなる。感情のない殺人マシーンになっていないか──己を疑い、その度に深雪や優香の顔を思い出して救われるのだ。
体を洗って湯舟に漬かっていると、そういう心の汚れも洗われていくようだ。
(今まで殺したのは、誰かを殺そうとしたやつだけだ)
事実そうであったかどうかは推し量りようもない。信じるしかない。少なくとも個人的な好き嫌いだとか快楽だとかで殺人をしていないことだけは確かだ。
(でもな)
イータイを殺した時、喜びを感じた。親友を奪おうとした者への復讐だったのか。
(そうだよな)
否定する材料もなく、肯定した。
(僕はヒト殺しなんだ……どこまでも……)
口元まで沈む。自分で選んだ道だ、後悔はしていない。大して脳味噌もない自分ができる父親への恩返しの手段を考えた時、こうするのが一番だと判断したのが中学2年の時。高校には行かず、ユーグラスに入社することを決めた。それから2年。気が付けばユーグラスの最大戦力の一つとなっていた。
(子供が生まれるまであと1年はある……)
ニェーズの妊娠は約20カ月。妊娠発覚が3カ月前であるから、残り16カ月。1年と4カ月の間に纏まった金を用意したい、というのが彼の本心だった。
(結局、子供のことは深雪にも優香にも言えてない)
怖いのかもしれない、と彼は自嘲した。深雪は何も言わない──否、言えないだろう。そういう人間だ。しかし優香には失望されるかもしれない。同情かもしれない。子供を迎えて育てるなんて言い出すかもしれない。それなりの時間を共に過ごしたが、まだ全てを知っているわけではなかった。だが、何より彼自身が怯えていた。優香のことは好きだ。それは自覚した。だからこそその関係に罅を入れてしまうようなことは絶対に避けたかった。
(女が絡むと途端に臆病になるんだな、僕は)
冷静な自己観察。結果が何であれ、受け入れていくしかない。
(話そう)
風呂から出て、そう思った。天網恢恢疎にして漏らさずと言うが、隠し事をすれば何かしらの形で露見するのだ。そうして子供がいたことと隠していたことで二重に責められるよりかは、正直に打ち明けたほうがトータルのダメージは小さいように感じられた。その判断がいくらか遅かった気もするが、後悔は好きではなかった。
ボーダーの寝巻を着て脱衣所を出る。リビングには二人が揃っていた。並んで座り、深雪が優香から勉強を教わっている。
「お先に」
「はーい。じゃ、入ってくるね」
「ちょっと待って」
呼び止めたヨウマの表情は動かない。だが、声は少し震えていた。
「何?」
「……子供が来年産まれるんだ」
「──誰との?」
拳を震わせて優香が問う。
「タジュン」
「……一人にして」
彼女は扉を乱暴に閉じた。
「おおお祝い、した方がいいですか?」
深雪が控えめに訊いてくる。
「いやいいよ。僕にとって喜ばしいことじゃないから」
「た、大変ですね。産まれたら、どうするんですか?」
「乳児院に預けるよ。僕は育てられない……どこかで手が出てしまうからもしれないから」
「よよ、よくわかりませんが、ヨウマさんがそう判断したなら反対はしません」
「いつもありがとう」
「う、うへへ……」
深雪は気まずそうに勉強に戻った。風呂場の方から叫び声。優香の声だ。そこに込められた感情を、彼は推測できなかった。
少し、希望のあることを考えたくなった。
「あと2カ月ちょっとで、弟ができる」
ヨウマはそう口にした。
「そそ、そうですね。お祝いパーティしなきゃですね」
「優香も連れて行っていいかな」
「さ、さあ……ででもジクーレンさんは、嫌がらないと思います」
「だといいなあ」
どうだってよかった。優香に嫌われるかもしれないということに怯えていた。
「何の勉強してるの?」
「きょ、きょ今日は数学です」
「数学かあ、嫌いだったなあ」
「よよヨウマさんの好きな、教科ってなんですか?」
「体育と英語。数学はちんぷんかんぷん」
「そそそういえばジクーレンさんに怒られてましたね」
「数学なんかよりニェーズ語勉強した方が百倍役に立つよ……」
「そ、そうですね……」
とはいっても、フロンティア7では総督府主導の教育運動によって日本語を中心とした社会が形成されている。そこにニェーズ/地球人の区別はなく、開拓地成立以降に産まれたニェーズの中には日本語が第一言語とみなされる者も存在する。しかしユーグラスの伝統を受け継ぐ警備会社は社内でニェーズ語が用いられることも少なくなく、ヨウマは二つの言語を自在に操っていた。
閑話休題。20分後に、あからさまに不機嫌そうな優香が出てきた。足音も心なしか重く、扉を開く手付きも力が籠っていた。
「明日カラオケ行く」
「いいけど……」
「一人で行く」
「それはだめだよ。ユーグラスの護衛対象なんだから」
「じゃあ部屋の外で待ってて。それでいいでしょ」
「はいはい、何時に出る?」
「朝から晩まで」
「本気で言ってる?」
「言ってる」
それだけ言い残して、彼女は部屋に向かった。
突如、フラッシュバック。馬乗りになるタジュン。徹底的な尊厳の破壊。勃起させられて、挿入を強制される。惨めで泣きたくなるような射精。ねじ込まれる、舌──。
「だ、大丈夫ですか?」
深雪に声をかけられた。知らぬうちに彼の顔は汗に濡れていたのだ。
「……気にしないで」
精一杯の優しさを含ませて、そう言った。深雪の前では強がっていたかった。
「むむ、無理はしないでくださいね」
「わかってるよ。安心して」
少し震える声でそう答えて、深雪の傷を見た。
(強くなれよ、僕)
背負うものは軽くない。それでも進み続けなければならないことを彼は知っていた。その結果踏み躙ってきた命を今、顧みる。
◆
居住区内にも、カラオケはある。しかしヨウマにその位置はわからず、ニェーズの案内を受けて辿り着いた。歩道の端には雪がうず高く積まれ、太陽光を受けても溶けないでいた。
「ありがとね」
ヨウマは軽く礼を言う。
「構いませんよ、ヨウマさんの頼みですから」
そのニェーズは快く去っていった。
「知ってるヒト?」
優香が上目遣いで尋ねる。
「いや……一方的に顔知られてるのはよくあるよ。新聞にも乗るし」
「そっか。有名人なんだ」
「良くも悪くもね」
雪の降る朝9時のことである。『カラオケデーパ』とある看板の下を通って、受付へ。眠たそうな顔をした店員が言葉数少なく対応する。ニェーズ向けのカウンターは高いので、ヨウマが優香を肩車していた。
「学割ってあります?」
「……あるよ」
そう言うと店員は大きく欠伸をした。
マイクとプラスチックのコップを受け取り、部屋へ通された。
「呼ぶまで入ってこないでね」
それだけ言って、優香は扉を閉ざした。
(そりゃないよ)
思いつつも、言わなかった。
すぐに声が聞こえてくる。振り払うような大声だ。歌詞に耳を傾ければ、想い人に子供がいたことを叫ぶ歌だった。
(なんでそんなピンポイントな歌があるんだ……)
音程は無茶苦茶で、感情に振り回されている。ヨウマは音楽の理論に詳しいわけではないが、歌は嫌いではない。酷い歌唱には苦笑いをするのだった。
警戒中はスマートフォンを見ない。当たり前のことだが、徹底しなければならない。だが業務用の電話が鳴れば別だ。手早く通知を確認し、メッセージに目を通す。
『総督の娘のこと、承知した』
ジクーレンからだった。
『そういうわけで よろしく』
サッと送って、電話をしまった。
ドアの向こうから漏れてくる歌声に、泣き声が混ざる。泣くことはないだろう、と彼はドアの横の壁に凭れかかった。他の客が前を通る時、刀に驚いたのを見た。敵意がないことを示すために軽くお辞儀をする。戸惑いつつも返礼があって、それで終わった。
次の曲が始まる。真っ直ぐな慕情を歌う。ヨウマは気恥しくなって、少し意識を逸らそうとする。だが壁の染みを数える程度のことしかできない。
(入れてくれないかなあ)
ぼんやりと照明を見上げた。警護任務は退屈なのだ。しかし優香も楽しく歌っているというわけでもないことは、わかる。歌が止まって、すすり泣く声が強調される。
(……話さない方がよかったのかな)
思いがやってくる。頭を横に振る。そんな悩みは昨日終わらせたはずだった。だが迷う。選択とは後悔だ。父がそう言っていたのを思い出した。
(こういうことかあ)
次の歌。大声を張り上げて、恋人に置いていかれる歌詞。
(そんなことしないよ)
心の中で答える。
そうして、3時間が過ぎた。途中から歌声ではなく泣き声ばかりになり、ヨウマは気が重くなった。
「ヨウマ!」
「はいはい」
とドアを開く。泣き腫らした彼女は震える瞳で彼を見た。
「ご飯食べよ」
「何にする?」
「ん」
とメニューを突き出す。ピザ、唐揚げ、ラーメン。
「じゃあ……ピザで」
無言のまま優香は受話器を壁から取って、注文をペラペラと言う。
「飲み物取ってくる」
と言った優香を、ヨウマは呼び止めた。
「僕も行くよ。一応護衛任務だしさ」
二人は並んでコップにコーラを注いだ。
「ヨウマは歌うの好き?」
「得意ではないよ」
「デュエットする?」
微笑んでそう言う彼女は憑き物が落ちたようだった。
「いいね」
「じゃしよっか」
飲み物を取って戻り、椅子の上でピザを待つ。優香は何だか気まずそうだった。料理が来るまでの数分間。彼女は俯き続けていた。
「あの、さ」
届いて手を付けようというところで言った。
「その……子供が産まれたら、タジュンのところに行っちゃうの?」
「行かないよ。誰があんな女と……」
「ならよかった。怖くてさ。子供はどうするの?」
「乳児院かな。僕はあの子の父親にはなれない」
「恨みがあるから?」
「平たく言えばそうなるね」
「ふ~ん……」
ピザを一切れ頬張る優香。熱い。慌てて飲み込んだ。
「タジュンはいつまで刑務所にいるの?」
「まあ無期懲役だと思う。ユーグラスに協力した分で、死刑にはならないように手配するって親父が言ってた」
「そういうの、あるんだ……」
「あるみたい」
ヨウマは昔読んだ刑法を思い出す。そういう手続きも可能であると書いてあったような気がした。が、どこか自分とは無縁であるように思って忘却の壺の中に封じ込めていたらしい。
「……一緒にいてくれる?」
遠慮気味に彼女は尋ねた。
「うん、いるよ」
それを聞いて頬を赤らめるのをヨウマは見た。
15分ほど、他愛もない話をしながら食事をした。これまでのこと、これからのこと。にこやかな空間だった。
「歌おっか!」
彼女は立ち上がって言った。
「何歌う?」
「Rabbit Squad!」
「ちょっと聞いたことがあるな」
そうやって、二人は一日を過ごしたのだった。