雨の降りしきる、フロンティア7。湿った空気がこの街に充満して、歩く者を捕らえる。その中に、黒いレインコートに身を包んだ一人の男の姿があった。腰の生地は二本差しの刀で持ち上がっている。身長は170センチ後半といったところだ。せかせかと動く足は雨水を跳ね上げる。
男は居住区の門の前で立ち止まる。フードを取ると、壮年の髭面が露になった。鉄傑だ。
(コゥラの偽装可能時間は、およそ15分)
彼の懐の中には、結界術と空間術に長けた妖狐の書いた魔術符が入っていた。
(それまでにヨウマを排除する。檜橋を消す邪魔をさせるわけにはいかんのだ)
結界の中に足を踏み入れる。電撃が走ったような感覚に襲われた。
(さあ、行くぞ)
走り出す。頭に叩き込んだ地図に従って。
◆
ユーグラス警備会社の社員携帯が、一斉に通知音を鳴らす。ヨウマはウェストポーチからそれを取り出し、『結界に侵入者あり』という表示を見て、ソファから飛び上がるようにして立った。
階段を駆け下りながら、放送を聞く。目標は未だ不明。外に出て、庇の下に止められたパトロールカーに飛び込んだ。
「僕んちまで飛ばして。優香を守りに行かなきゃ」
「任せてください」
電気自動車はアスファルトを切り付けながら進んでいった。サイレンを鳴らして。
アパートの階段に足をかけた時、彼は嫌な予感がした。カタン、ピシャリ。
ゆっくりと扉を開く。第六感的嗅覚が、血を捉える。
「やっと来たか」
開け放たれたリビングのドアの向こうで、血に濡れた刀を握った鉄傑が待っていた。その足元には左肩を刺されて怯える深雪。そんな彼女を、優香が抱き締めていた。
「そっか」
ヨウマは刀を抜きながら呟いた。
「死ね」
床を蹴った。刃がぶつかり合って、火花が散った。
「会いたかったぞ、ヨウマ」
「黙れ」
魂の箍は勝手に外れた。剣の速さも重さもヨウマが上だった。彼は勢いのままに相手を蹴り飛ばす。鉄傑の体は窓を割り、ベランダの手すりにぶつかって止まった。
ヨウマは深雪の傷に手を翳す。
「これで止血はできた。安心して」
深雪は震えながらコクコクと頷いた。
「ヨウマ!」
とキジマの声。
「ちょうどよかった。深雪を病院に連れてって」
「そりゃいいけどよ……あの男はどうするんだ?」
「殺す」
「……そうかい」
彼は深雪の様子を見て全てを悟った。ヨウマの体から滲み出る殺気もそれをわからせた。
キジマが深雪を背負い優香と連れ立って去ったのを確認してから、ヨウマは鉄傑に近づいた。動く気配のないその肉体に、刀を向ける。突き出す──そこで、視界の左端に黒い人影を捉えた。刺突の姿勢に入っていたところから刀を振り抜き、不意打ちを弾く。黒い糸で編まれた人間が、刀を握っていた。
正対したまま動かないでいると、鉄傑がゆっくりと立ち上がった。
「それは私が召喚した式神だ」
彼は飛び込んでくる雨の中に、得物を握りしめていた。
「召喚術で自在に武器を呼び出せる。二人を相手に生き残れるか?」
「やるべきことをやるだけだよ」
影と鉄傑とに挟まれたヨウマは、静かに頬の汗を拭う。影が斬りかかってきたのをいなして、鉄傑の襟を掴んだ。そしてそのまま跳躍し、ベランダから飛び立った。空中で回転して、相手を地面に向けて投げる。鉄傑は素早く受け身をとってダメージを最小限に抑える。同じ武器が、向き合った。
何度か打ち合っている内に、影が飛び降りてきた。背後に回られたヨウマは印を結んで、分身に対処をさせた。目の前の敵に集中する。
「なんで深雪を刺したの」
雨のように冷たい声音でヨウマが問う。
「包丁を持ち出したのでな。正当防衛だ」
「よく言うよ。馬鹿みたいなテロリストが」
ヨウマは間合いを詰める。その切っ先は降り注ぐ水の中を滑っていき、鉄傑の喉仏のあと三寸というところを過ぎ去った。そこから、再び睨み合いになった。
「お前の力のことは知っている」
鉄傑が口を開く。
「イニ・ヘリス・パーディ……こちらも身体強化を使っている。舐めるなよ」
「よく調べたね」
「内通者を用意してあるのでな」
「やっぱりか。教えてくれない? そのヒトのこと」
「それはできんさ」
会話を斬り裂くように、ヨウマは踏み込んだ。人外的瞬発力から繰り出される一撃は回避不能──と思われたがそうではなかった。脳に強化をかけることで思考速度、ひいては体感時間を引き延ばした鉄傑はそれをすんでのところで躱し、代わりに相手の顔面に拳を叩き込んだ。
濡れた地面を転がるヨウマ。そこに追撃の水の矢が飛来した。体を回して避けはしたが、先程までいたところは深く抉れていた。
さっと起き上がって、彼は刀を正眼に構える。イニ・ヘリス・パーディに甘えればカウンターを食らうだけ。分析の果にあるものは拮抗だった。
「なぜ亜人と共に過ごす?」
「ニェーズも地球人も変わらないよ」
「亜人は純粋種を害するだけだ」
「違う。あんたの絶望を押し付けないでほしいな」
「口の回る男だ」
鉄傑は空いている左手を掲げた。
「天の涙。燦然と輝く選ばれし魂。その御力の一端を、今ここに。水矢」
彼の周囲の雨粒が静止する。それは姿を変えて矢のような形になった。
「射抜け」
その掛け声を契機に、矢はヨウマに降り注いだ。結界でそれを受け止めるも、絶え間ない攻撃を前に突破されるのが時間の問題と彼はすぐに理解した。だが何ができる? 自問は答えを必要としなかった。
深く息を吸って、吐いた。受け身になった者に勝機はない。目にケサンと魔力を集めて、矢の一つ一つに反応できるようにする。結界を解いて、突っ込んだ。刀で矢を弾きながら接近していく。左手に雷の槍を生み出し、距離を置こうとする鉄傑に向かって投げた。
槍は雨の中に消えた。だがそれでよかった。ヨウマは刀の間合いに敵を捉え、逆袈裟に斬りかかった。時間にしてみれば、ほんの10秒ほどの斬り合い。その間に、彼は鉄傑の刀を弾き飛ばし、その喉を狙っていた。が、結界。体中に呪文を刺青で記した鉄傑は、己が契約したあらゆる術をノーモーションで扱えるのだ。
仕切りなおそうと引き下がったヨウマ。しかし、突然の痛み。腹から飛び出しているのは、鈍色の刃。ずるっと血と未消化物の絡まったそれが引き抜かれると、彼は力なく倒れた。息が荒くなり、左手で止血を試みるが集中できない。
「抜かったな」
刀を拾い上げ、余裕綽々といった態度の鉄傑が、痛みに苦しむヨウマを見下して言った。
「素手の分身で私の式神を止められるわけがなかろう」
逆手に得物を持ち替え、振り下ろさんとする。その一瞬に、差し込まれた一撃があった。
「ごめんね」
グリンサだった。二人の間に入って、鉄傑の刀を抑えたのだ。
「後は任せて」
ヨウマの耳で、救急車のサイレンが響く。
「私もいるわよ」
熱戦が雨水を蒸発させながら、鉄傑の頬肉を焼いた。
「七幹部が二人……これは無理だな」
鉄傑は苦笑を浮かべた。
「ここは撤退させてもらおう。覚えていろヨウマ。お前は必ず報いを受ける」
「何が──」
と毒づく暇もなく、彼は消えた。蝋燭の火に息が吹きかけられたように。
グリンサがヨウマの前にしゃがみ込んで、その上体を起こさせた。そして傷口に手を当て、止血をした。
「無理させちゃったね」
「僕が迂闊だっただけだよ。グリンサのせいじゃない」
救急隊員が彼を担架に乗せる。濡れそぼった体を、グリンサは震わせた。
◆
それと同時刻。ヨウマが鉄傑と対峙したそのタイミング。ザァザァと汚れた雨が降る鍛冶屋通りを訪れる、金髪の日本人の姿があった。猫鍵谷火増である。
「ジクーレンさん」
と工房の前で立ち止まる。風通しのいい建物に戸はなく、彼は燃え盛る炉の前で剣を打っていた。その壁には盾のように幅広の剣が立てかけられていた。彼を職人として認めさせるに至った、傑作盾剣クェンソ。
「客か?」
金槌を振るいながら彼は訊く。
「無天。呪い。歪み。それら全てを消し飛ばす、確かな一撃。炎矢」
彼女が詠唱を終えて右掌をジクーレンに向ければ、そこから炎の矢が飛び出した。着弾地点で、爆発。煙が晴れれば、盾剣で攻撃を受け止めた彼の姿があった。
「これでも呪われた身でな、あまり相手をしたくない。今のうちに消えろ」
ゆっくりと立ち上がりながら彼は言った。
「今頃鉄傑ちゃんがヨウマを殺しに行ってるにゃ。同じところに送ってあげるにゃ」
動揺の色を見せないが、ジクーレンは内心焦燥を感じていた。息子の命だ、案ぜざるにはいられない。
「やれるものならやってみろ」
挑発を受けて、火増は口の端が引き裂かれたような笑顔を見せながら、右手に生み出した直刀で襲い掛かった。だが容易く受け止められて、振り抜かれた反撃で吹き飛ばされた。路肩に停めてある車に突っ込んで、そのセキュリティーアラームを激しく鳴らした。
(身体強化が一瞬遅れてたら死んでた)
浮かんできた言葉を抱えながら上体を起こす。その眼に盾剣を振り上げたジクーレンが映った。バギャン、と金属のフレームが瓦のように割れる。ゾッとした。回避が間に合わなければ真っ二つになったのは自分だったのだと。
手を叩く。早口で詠唱を済ませ、式神を呼び出した。
「限定解除、ロロ第2形態!」
ロロと呼ばれた3つ眼の黒猫はその筋肉を膨張させ、一回り大きくなった。それは走り出し、ジクーレンに噛みつかんとする。しかしその顎が掴んだのは盾剣の分厚い刃で、そのまま押し込まれたことで破壊されてしまった。
(第3形態を使えば逃げる分の魔力がなくなっちゃう)
雨と混じった汗が頬を流れ落ちる。
(雨のせいで炎魔術も威力が下がる……このままじゃホントに殺されちゃう)
刀を構え、じりじりと引き下がる。
(ニーサオビンカにかけられた呪いで弱体しているんじゃないの? それともその上でこのパワー?)
重すぎる攻撃を躱しながら、考える。
「呪われているはず、と思っているな」
ジクーレンに見透かされて、火増は顔を顰めた。
「そうだ、俺は30年前にニーサオビンカを襲撃したことでガスコに呪われた」
彼女は右に左に視界を動かして状況を打破する切っ掛けを探していた。しかし、ない。
「ケサンを使えば使うほど内臓を侵される。だが単純な力比べではその限りではない。お前は勝てんよ」
「そうだにゃ。失敗したにゃ」
ジクーレンは咳き込む。口を覆った左手には血が付いていた。
「でも戦いようはあるにゃ」
火増が左手を突き出す。
「捩れ。悲鳴。奪われた光。発せよ。火転」
一瞬にして形成された巨大な火球が、一気に雨を蒸発させて水蒸気を発生させる。それに紛れて突撃をする。視界を奪った上での攻撃。不可避であるはずだった。だが、ジクーレンは研ぎ澄まされた戦士の勘でそれを防いでしまい、彼女は蹴り飛ばされることになった。
観衆の数人を、横向きの女体がなぎ倒した。空中で姿勢を変え、何とか着地する。大好きなスニーカーの底が擦り減った。それでも、と刀を真っ直ぐに構える。
それをジクーレンが追う。逆手に持たれた剣が振り下ろされ、地面に突き刺さる。罅の入ったアスファルトから引き抜かれたそれは、鋭利さを保っていた。
「さて、そろそろ終わりだにゃ」
火増は刀を納める。
「一ついいニュースをあげるにゃ。鉄傑ちゃんは撤退……ヨウマは無事にゃ。次は必ず勝つにゃ。待っててにゃ~」
指を鳴らせば、消えた。それを認めたジクーレンは、膝から崩れ落ちた。