「ユーグラスよ!」
イルケのどすの効いた声が騒然とする総督府の待合室に響いた。首のないニェーズの死体が転がっている。その血を浴びた地球人の少女が震えていた。
「う、う、うえ!」
その少女が叫んだ。
「武器を持った人が、上に!」
「わかったわ。ヨウマちゃん、急ぐわよ」
「うん」
エレベーターのボタンを押しても動かない。止まっている。15階建てのビルの最上階に、総督の執務室がある。通常の階段は混み合っていて動けそうにない。非常階段を面倒な気持ちで駆け上がるヨウマは、先を越されていることを覚悟していた。
何とか登り切った。
「おばさんにはきついわねえ……」
なんてことイルケは呟いた。
「まだお姉さんだよ」
「嬉しいこと言うじゃない。さ、殺しに行くわよ」
イルケが扉を吹き飛ばし、二人は突入する。ちょうど、エルアウスと唐版士に警衛が殺されたところだった。胸に突き刺さった長巻がずるりと引き抜かれ、その切っ先がヨウマに向かった。
「また会ったな」
唐版士が犬の糞でも見るような表情で言った。
「なんだっけ……豚逆立?」
「犬羽交締唐版士だ!」
「変な名前」
その一言で堪忍袋の緒が切れたのか、唐版士は得物を顔の横で構えた。
「エルアウス、先に行け。ここは俺がやる」
「
彼が振り返れば、そこには黄色く半透明の壁が扉の前に存在していた。下を見ると、足元にも同様のものが存在する。そう、廊下の一部分が結界の箱の中に閉じ込められていた。
「ちいっ……」
舌打ち。
「この空間を隔離したわ。これで遠慮する必要がなくなって、安心できるでしょう?」
イルケは煙管を吸う。そして煙を吐き出した。
「死ぬ前に言い残すことはない?」
そのまま問うた。
「そのセリフ、そのままそっちに返すぜ」
唐版士が動いた。ヨウマが前に出てその斬撃を受け止める。重さで押し切ろうとした唐版士は、しかしそれが叶わないことを知って後ろに跳んだ。
「限りなき黒。満たされぬ器。虚ろなる心。現れよ、呪怨の大熊!」
「──呪怨の梟」
2体の式神が同時に召喚される。3メートルの熊に、力強く羽搏く梟。
梟が風を切ってイルケに迫る。それが吐いた炎は結界に防がれる。お返しの熱戦を躱した梟は、エルアウスの腕に止まった。
ヨウマは唐版士と斬り合っている。リーチの不利を背負った上に熊の妨害も受けるヨウマは、中々自身の間合いに敵を捉えられないでいた。
「不意を突かれたあの時とは違うんだよ!」
大上段。ヨウマはこれを待っていた。振り下ろされるまでの一瞬に彼は距離を詰め、刀を胸のあたりに構えて体当たりをかけた。心臓のすぐ傍に、オーンサガンの妖艶な黒い刃が突き刺さる。その勢いのまま押し倒し、剣を引き抜く。
「糞がっ……!」
唐版士は声を漏らした。すぐにエルアウスが走り寄って、その傷を癒した。即死でなければ殺しきれない。そう確信したヨウマである。
「唐版士、ここはヨウマだけに
ふらつきながら立ち上がった彼は長巻を構え直す。だが、その横を過ぎ去った熱線が、エルアウスの頬を切り裂いた。
「お喋りはやめなさい」
イルケは手加減をしたわけではない。ヨウマは確信していた。大規模な結界の展開で襲い来る疲労に若干ながら負けてしまったのだ。
「いける?」
その方へヨウマは近寄って、尋ねた。答えはない。ただ一つの頷き。彼にはそれで十分だった。
「これだけの結界だ、そう長くは保たねえさ」
唐版士に見抜かれて、イルケは僅かな笑顔を見せた。
「それまでに片付けるだけよ」
煙管の先に炎が揺らめく。戦いは終わらない。
◆
ダバラの刃を、鄭目は押し返す。式神と同化して強化された肉体は、ニェーズにも勝る膂力を彼に与えていた。
「つまらないなあ!」
彼は雄叫びにも似た声を上げてジャンプから爪を振り下ろし、ダバラの左肩に深々とした傷をつけた。痛みに顔を歪めながら、ダバラは後退した。
「ダバラくん!」
息を切らしながらグリンサが加勢する。鄭目は素早くバックステップして、人質の一人を突き出した。首元に爪を這わせ、浅い切り傷をつけた。
「それ以上近づいたらこいつを殺すよ」
「卑怯な……!」
「正々堂々としたテロリストなんかいない」
ダバラの一言を、鄭目はそう言って嘲笑った。
「早く離した方がいいよ、頭に風穴が空く前にさ」
グリンサは左手に雷の槍を握る。あまりケサンに余裕はない。エネルギーを十分に収束させず、敢えて発散させることで虚仮威し程度の槍を見せていた。投げても頭蓋骨を貫通できないだろう、というものだ。身長173センチの鄭目は、それを見通したように微笑んだ。
その後ろで、赤い髪の妖狐は半透明の刀を握っていた。結界で作り出した武器だ。背丈の低い彼女はその剣を縛られた人質に見せつけ、蹴り飛ばした後唾を吐きかけた。
「妖狐、『あっち』はどうだい?」
「駄目。ヨウマとイルケが追いついたみたい」
その会話を聞いたグリンサは自分の見立てが間違いでなかったと少し安心した。
「用事があるなら帰ったら?」
「我々の任務は時間稼ぎ……帰るわけにはいかないね」
鄭目の口から、生臭い息が漏れる。
「ま、いいけどね」
グリンサは槍を保持したまま、相手を睨んだ。
「一つ、聞かせてください」
傷を抑えながらダバラが問う。
「本当に金を出せば人質を解放するつもりでしたか」
「そんなわけないだろ」
性善説を信じようとした彼を馬鹿にするように、鄭目は人質の喉笛を掻き切った。噴き出した鮮血の中をグリンサは駆ける。2、3度打ち合ってから、彼女の蹴りが鄭目を吹き飛ばした。連続後方倒立回転から、壁際で踏みとどまる。
その僅かな隙に、グリンサは攻め立てる。低い姿勢で突撃した彼女は、何ら迷いなく太刀を横に振り抜いた。それに対しても鄭目は反応した。式神を纏った皮膚は鋼のようで、まるで刃を通さなかった。
一つ、勝ち筋はある。それは雷の槍。高密度なエネルギーの塊であるそれは、大抵の防御を貫通する。だが一発撃てば彼女の魂という器に湛えられたケサンは完全になくなる。分の悪い賭けだ。
目を狙った突きは瞼が止める。反撃が彼女の服の胸元を切り裂いて、それなりのサイズをした乳房が零れた。
「処女かい?」
間髪入れずに鄭目は尋ねる。
「だったら何?」
「差し出せば人質は解放してやる」
「サイテー……」
恥じらうこともなく、彼女は太刀を構え直す。双方、動かない。視線は火花を散らすようで、そこに誰かが入り込む余地はなかった。一人を除いては。
ジャグだ。ジャグが動いたのだ。火の玉を抱え、鄭目に接近する。それが攻撃に出る前に、彼は熱線を放った。極限まで圧縮されたケサンが影の装甲を貫いて、頭皮を焼いて過ぎ去った。
「狙いが外れたなあ!」
高揚に身を任せ、鄭目はジャグに爪を向ける。そうやって意識が自分から逸れた瞬間、グリンサは残るケサンを掻き集めて術を放った。だが、結界がその間に入った。
「私のこと、忘れていたでしょう?」
妖狐が艶やかな笑みを浮かべて言った。
「こりゃ、やらかしたな……」
グリンサは苦笑した。そして溜息を一つ。
「諦めないでください」
顔面に傷を負ったジャグがその前に立つ。
「……鄭目は任せた」
彼女の視線が妖狐に向く。桃色の和服からはみ出した、透き通るように白い肌を撃ち抜くように。
◆
ヨウマと唐版士の斬り合いは、ヨウマが優勢だった。エルアウスの梟が援護に入ろうとすればイルケの炎がそれを阻む。イニ・ヘリス・パーディの力を解放した彼を、唐版士は捕捉できないでいた。
少し、気になることがある。熊の姿が見えないのだ。どこに行けるわけでもない。ヨウマは怪訝に思いながら戦いを続けた。
ついに、長巻が手から離れた。弾き飛ばされたそれは結界にぶつかり、力なく床に転がった。動揺した唐版士を足払いで崩し、ヨウマはその首に刀を突きつける。彼は、唐版士の影の上に立っていた。
「終わりだね」
「……バーカ」
突如、ヨウマを横殴りの衝撃が襲う。結界に頭から衝突し、血が流れ出す。一時的に影に隠れていた式神が、再度出現したのだ。
「油断大敵だぜ」
長巻を拾い上げた唐版士は、それを下段に構えて詠唱を始めた。
「空の鳴動。黒雲を切り裂く一筋の光明。天を打ち砕く確かな一撃。震霆!」
銃の形を作った左手から、空気を震わせて光線が放たれる。それが着弾するまでの僅かな間に、イルケが結界を挟み込んだ。だが止めきれず、偏向されたそれがヨウマの頬の肉を抉った。
そして、それがミスだったのかもしれない。ヨウマの援護を行ったイルケを、梟の炎が襲う。それを防いだ瞬間、空間を隔離していた結界が消えた。
「あばよ!」
そう言い残して執務室へと入っていく唐版士を追おうとすれば、イルケは嘔吐した。限界だ。
「悔しいわねえ……」
薄れていく意識の中で、イルケはそう呟いた。
◆
ヨウマが目を覚ました時、傍にはグリンサと優香が並んで座っていた。
「どうしたの」
寝たまま、開口一番そう言った。話すと頭が痛んだ。そこには包帯が。
「どうしたの、って……可愛い弟子が気絶したからお見舞いに来てあげたんじゃん」
窓の向こうには、輝ける満月。
「ありがとね」
体を起こして、優香を見た。その瞳は不安に揺れている。
「大丈夫だって。安心して」
左手を伸ばして、頬を撫でた。それを彼女は握った。
「銀行強盗、どうなった?」
「人質一人殺して、それからしばらくしたら召喚術で逃げられた」
「総督は?」
「殺された。真っ黒焦げだって」
重く、痛い沈黙が流れた。勝ちを確信したその瞬間以降、彼の記憶はない。ただこうして聞いていると、自分が如何に愚かであったかが胸に刺さる。
「そうだ、イルケは? 怪我してない?」
「ゲロ吐いて気絶して、それからずっと寝てるよ。ケサンの使い過ぎだって」
「……僕が起きてれば状況変わったのかな」
「ま、それはそうだね」
「はっきり言うんだ」
「事実は事実だよ。向き合わなきゃ」
敗北の質量がどっと押し寄せる。
(そうだよな)
優香の頬から手を離す。
(あそこでとっとと止めを刺しておけばよかったんだ)
後悔はきりがない。津波のようにあらゆる感情を押し流していく。それでも優香の顔を見ると、その勢いも少しは削がれた。
「凩さん、時々ご飯に行ってたな」
優香は俯いたまま言う。
「なんで」
小さな声が漏れた。
「なんで死んじゃうのかなあ……」
すすり泣く声が静かな病室に響いた。夜は、更けていく。