すわ、すぐにも開戦かと思いきや、精海竜王はいったんその身を隠した。
「戦の準備をする時間をくれてやろう。せいぜい、あがくがよいわモロルド王よ」
第六艦隊を壊滅させた矢先、すぐにも開戦となればおびただしい死者が出る。
それでなくても、モロルド陣営は第六艦隊との戦いで疲弊しきっている。
その辺りを精海竜王は気にかけている様子だった。
どこまでも優しき王である。
だからこそ、すれ違ってしまったことが悲しい。
できることならまた元のように、義父と婿として接したいが――。
「それはもう、叶わぬ夢なのだろうか」
日が沈んだモロルドの港。
環礁から引き上げてモロルドへとやってくる第六艦隊の水兵たち。
彼らの救護の陣頭指揮を執っていた俺は、ようやく撤収の目処が立った夜の港を前にしてそんなことを呟いた。
「コケーッ! コココッ! コケコーッ!」
エムリスさまの呪いが解けないトリストラム提督が、鶏の鳴き声で兵を鼓舞する。
なぜか自分たちを励ます鶏に、事情を知らぬ水兵たちが首を傾げている。
非常事態だというのに、そのなんとも滑稽な姿に少しだけ心が和んだ。
「…………旦那はん」
そんな中、ふと俺の背後にルーシーが立つ。
いつも飄々として凜としている彼女が妙に元気がない。振り返った俺に、力なく微笑んだ彼女は、俺の隣に人一人分の距離を取って並んだ。
灯台に照らされた夜の海が眼前には広がる。
喧噪の中に聞こえる波音に、しばし俺たちは耳を澄ませた。
「田舎娘は、きっと旦那はんが迎えに来てくれはるのを待ってます。あの娘は、旦那はんのことが大好きやさけ……」
「……ルーシー」
「いややわぁ。なんで、ウチがあの娘の心配なんか、したらなあきまへんのやろ。せやけどなんでやろなぁ、旦那はんにウチが言ったらへんとあかん気がしたんよ」
「ありがとう。俺は唐変木だからな。言われるまで君たちの気持ちに気がつかない」
そう言うと、ルーシーはほんのちょっぴり俺との距離を詰め、その身体をぴとりと俺の肩に寄せてきた。
どこか遠慮がちに俺にもたれかかる絡新婦。
その巨体の体重がすべてのしかかれば、たちまち潰れてしまうのは間違いない。
なのでいつも、彼女は力を加減してくれるのだが――。
今日は俺とは違う相手への配慮で、ほんの少しだけ軽い。
「なんだかんだで、ルーシーはセリンのことが好きなんだな?」
「そんなことあらしまへん。けったいなこと言わんといてください。あんな田舎娘、おらんようになった方がすっきりしますのんや。キーキーと、盛りのついた猿みたいに煩くてかまいまへんわ。ほんにもう、騒がしうて、騒がしうて……」
けどと呟いて、ルーシーは俯いた。
白磁のようなその頬を、つっとひとつの雫が滴る。
「けど、おらんなったらおらんなったで、静かすぎますえ。ほんまに、けったいな娘」
「……ルーシー」
妻の顎先からこぼれ落ちそうになった涙を指先で拭う。
ここにはいないセリンに遠慮している彼女を、俺は自分から引き寄せた。
途端、彼女は僕の肩に顔を押しつけ、えんえんと泣いた。
冷酷な仮面を被った、心優しき絡新婦の女王。
彼女にとって、もうセリンは大切な家族の一人だったのだろう。
そんな妻のためにも――。
「安心してくれ、絶対にセリンは取り戻す。また、二人の痴話喧嘩を聞かせてくれ」
「……いけずやわ、旦那はん。そんなんとちゃいます。うちは、うちは別に、あの娘がおらんくてもええんです。ちょっと物足りへんだけで」
「きっと、セリンもそう言うさ」
ぐしぐしと俺の肩につよく顔を擦りつけたルーシー。
再び、彼女が顔を上げれば、その瞳から涙は消え、微かにその鼻先が赤らんでいた。
いつものツンと澄ました顔はしかし、どこか少しだけ緩んでいるように感じた。
「取り戻しにいこう、ルーシー。俺たちの家族を、俺たちの幸せを、俺たちの国を」
「…………うん。旦那はん、どこまでもウチはアンタはんに着いていきますえ」
「ステラもぉ~ッ!」
「「ステラ⁉」」
湿っぽい空気にひょいと飛び込んでくるセイレーン。
ステラは肩を寄せ合う俺たちの周りを、くるりと飛んで回ってみせると、その間に無理矢理割り込んでくるのだった。
そんな彼女の合図と共に、次々に人が集まってくる。
「マスター! モロルド部隊の再編成が70%完了しました! 明朝の精海竜王との決戦にはなんとか間に合うかと!」
「ケビン。私も、動けないながらも陣頭指揮に加わるよ。ホオズキを補佐官にして、斥候部隊を指揮しようと思う」
「ヴィクトリア! ララ!」
頼りになる嫁たちが、ステラに続いてやってくる。
彼女たちがいるならこちらも百人力だ。
さらに――。
「おいおいおいおい! いったいどうなっているんだ! 俺がいない間に、モロルドが大変なことになっているじゃないか! 我が君、いったいなにをやらかしたんだ!」
「……戻ってくるのが遅いぞ、イーヴァン!」
セイレーンの奴隷売買について調査をしていたイーヴァンが、ようやく新都に戻ってきた。安心して、軍を任せられる補佐官の帰還にほっとため息が出る。
もっとも、彼は新都の惨状に怒り心頭という感じだが。
「とにかく、これでこちらの陣営の準備は整ったな」
「ぴぇ~っ! せ~かいりゅ~お~さんと、たいけつなのぉ~!」
「田舎娘の親だけあって、居丈高なんが鼻についてましたんえ。この際やし、あの頭の角をぽっきり折ったって、つんつるてんにしたりますえ」
「精海竜王は海竜たちの王。しかし、かつては神の使者に敗れたという話しも聞きます。マスター、臆することはありません。精海竜王なにするものぞ」
「ケビン。大丈夫だよ、私たちがサポートするから」
「……あぁ!」
かくして、モロルドと精海竜王の戦いの準備は整った。
セリン、待っていてくれ。
絶対に君を救い出してみせるから。
もう一度、共にモロルドの繁栄を目指そう。