夏の暑さはうっとおしいけど、日の午前中はまだ多少は過ごしやすい。
夜だって同じだろうって人もいるけれど、夜は昼の暑さで生まれた湿気が冷やされて、よりベタベタと身体に吸いつくような気がして、個人的には一番苦手な時間。
昼はまだ窓を開けて扇風機でもいいくらいだけど、夕方から夜にかけてはエアコンの除湿もフル稼働だ。
そんな個人的に一日で一番過ごしやすい時間に、私は苦い顔をしながらベースの教本と向かい合っていた。というのも、ことは昨日に遡る。
雲類鷲さんとクラス出店に関するひとしきりの相談を終えた私は、その足で視聴覚室に向かった。
登校すること事態は塾帰りに一緒だった琴平さんにも周知の事実であり、呼び出されること自体はまあ納得できる。
「そういうわけで、これ、よろしくお願いしますね」
ただし、視聴覚室を訪れるなり押し付けられたベースギターとその教本に関しては、まったくもって納得がいっていない。
「ガールズバンドの話なので、適当に練習しといてください。別に上手になれとは言いませんので」
押し付けた当事者である琴平さんは、ニヤニヤと胡散臭い笑顔を浮かべながら、さも当然のように語る。
「でも、どうせ出来合いの音源乗っけるんでしょ?」
「ええ、その予定ですよ。でもいくらエアギターといっても、あからさまじゃ画が良くないじゃないですか。フリだけでもそれらしくして欲しいんですよ。ライフルを肩に担ぐような放送事故は起きて欲しくないですし」
「言わんとすることは分かるけど……いや、そのライフルの例えはよくわかんないけど」
どうせ身内(本校生徒)に見せるだけなんだから、そこまでこだわる必要はないんじゃないかな。
そんな本心が顔に出ていたのか、琴平さんはダメ押しのひと言を付け加えた。
「身内にしか見せないからこそ拘るのがクリエイターの性というものですよ」
そう言われてしまったら何も言い返せない。
受験勉強もあるし、できる範囲で――という条件付きで、私は提案を受け入れることになった。
そんなこんなで、思いベースを背負って家に帰ったのが昨日のこと。
流石にすぐに手を付ける気にはなれなかったので、一晩寝て、気持ちをリフレッシュしてからあらためて向き合っているというわけだ。
向き合うの自体はいいのだけど、なんというか、そもそも教本に書いてあることがよく分からない。 いや、流石に全く触れたことがなくても、原理くらいは分かってる。
この手の弦楽器系は、コードを覚えることがまず第一。
覚えなければ始まらない。
でも、それが一番難しい。
少なくとも、人生の中でまずやったことがないような指の形をしなければならないのだから。
とにかく指が動かない。
あと吊りそう。
指の形を見て、抑える弦の位置を見て、鳴らす。
指の形を見て、抑える弦の位置を見て、鳴らす。
指の形を見て、抑える弦の位置を見て――ううん、まったくもってスタイリッシュじゃない。
このタブ譜というやつも慣れない。
五線譜ならまだ多少なり読めるけど……いや、中途半端に読めるからこそ脳内処理に時間がかかってしまう。
触り始めて初日だからということを差し引いても、まったくもって進歩する気配のようなものを感じられない。
フリさえできれば良いなら別にコードまで覚えなくても……とも思ったけど、それらしく押さえて見せるには結局覚えた方が早そうだ。
琴平さんもそれを分かっているから、こうして教本を貸してくれたんだろう。
そもそもなんでベース?
それに対する彼女のアンサーは、「ベースっぽい顔だから」だった。
「黒髪ロングと言えばベースですよね。ユリさんは主演ですし、茶髪のショートなのでギターです」
理解が追いつかない。
とはいえ、貸してくれたのは確かに黒髪ロングに似合いそうな漆黒のベースだった。
思ったより重いのが玉に瑕かな。
しばらくぶら下げていると普通に首回りがこってきた。
「あ……ヤバ」
すっかり迷走――もとい集中していた私は、部屋の時計を見上げて思わず声をあげてしまう。
今日はこの後、天野さんとランチの予定が入っていた。
前回は思わぬ〝いいお店〟で面食らってしまったけど、今回は事前の聴取によればお寿司とのこと。
だから緊張しなくていいよ、とこっちの気持ちを見透かされたような一文も付け加えられていた。
「ふうん、それでベースを、狩谷さんがねえ」
カウンターで並んでお寿司をつまみながら、天野さんは興味深げに頷く。
連れてきてくれたのは地元チェーンの回転ずし。
私も別のお店のなら行ったことがある。
全国チェーンのお店よりは高いけど、高級店よりはリーズナブル。
ウチではちょっと良いことが合った時の定番だ。
なお、回転ずしだけど回転してるのはメニューだけで、すし自体は直接注文する。
何年か前はまだお寿司も回ってた気がするけど、最近はめっきりこのタイプのお店が増えたらしい。
「狩谷さん、音楽の経験は? あ、真鯛をあぶりでお願いしまーす」
「小学校のころにピアノをちょっとやったくらいです。でも卒業する前に辞めちゃいました。あと私、アジでお願いします」
これでも、小学生のころは結構習い事というやつをやっていた。
週二回の道場通いに水泳、ピアノ、習字。
週に五日は習い事の日――だけど、思い返せばよく身体が持ったな。
あの頃は、何でもかんでも気になったものに手を出していたっけ。
小学生の体力、恐るべし。
何でも手を出した弊害というべきか、それも極めるには至らなくって、中学生になる前には部活で続けた剣道以外はやめてしまったけれど。
「なら基礎はできてるんだね。弦に慣れるかどうかが問題かな。つぶ貝とカニミソ軍艦おねがいしまーす」
「それがなかなか難しくて……左手で押さえて右手で引くって、普通に難しくないですか? マグロ赤身、あとアオリイカを漬けでください」
「その辺が慣れだよねえ。狩谷さん、穴子一本で頼んだら分けて食べれる?」
「穴子好きですよ。あと慣れなのは分かってるつもりです。時間さえあれば、私だって何とかできると思うんですけど」
「一本穴子もくださーい。期間はいつまでなの?」
「二週間後らしいです。サマになってればそれで良いっては言われてるんですが、無茶言うなって話です。ただでさえ受験勉強に合宿もあるのに……えんがわください」
「なるほどねえ」
天野さんは、お茶を手に一息つく。
このところやり込められてばっかりだからすっかりグチってしまったけど、やっぱりお寿司は美味しいな。
地味にこの、お寿司とお寿司の間にお茶でガリを齧る瞬間に幸せを感じる。
「よかったら教えてあげよっか」
「はい?」
突然の言葉に、私ははじめ、何のことをいわれているのかわからなかった。
だけどすぐに、それが楽器のことだと気づいて、さらに彼女が何者であるかを思い出した。
「あ……え……ベース、教えられるんですか?」
「専攻じゃなかったけど、ひと通り大丈夫だよ。教えスキルに関しては、まあ免許をご信じなされ」
天野さんは得意げな笑みを浮かべる。
そう言えばこの人、こう見えて音大出身のうえに音楽の教員免許持ちだった。
「それは、すごくありがたいですけど……レッスン料はいかほどで?」
「そんあのいらないよー。仕事で教えるわけじゃないし。でも、どうしてもって言うなら、レッスンのたびにこうしてご飯につき合って貰えたら?」
それって天野さんに何の得もないのでは?
きっと好意で言ってくれてるってのは、彼女の性格からしたら分かるんだけど、あまりに得がありすぎる話に身構えてしまうのは本能だろうか。
でも、申し出自体はすっごくありがたい。
「あの……それでよければ、すごくありがたいです」
「おっけー。魅惑の個人レッスン、期待しててね。ウニ、極上の方でおねがいしまーす」
それからすっかり機嫌がよくなったらしい彼女は、次々と高級皿を平らげていった。
「どうしたの? 遠慮しないでどんどん食べてー」
「はあ。まあ、それなりにもうお腹もいっぱいになって来たんですが……じゃあ茶碗蒸しを」
「あ、茶碗蒸し特選の方でお願いしますねー。こっちにも、合計二個で」
注文する彼女は、とても生き生きしていた。
家族と食べる時じゃ、遠慮して決してできないオンパレード。
こういうのを目にするとつくづく思う。
独り身の大人ってすごい。
そういうところは、ちょっぴり憧れるっていうものだ。