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8月3日 天野'sレッスン

 天野さんにコーチを依頼した翌日、私はさっそく彼女のすむマンションにお呼ばれしていた。

 今週は遅番シフトだという彼女のシフトに合わせて、午前中のスケジューリング。

 こっちは夏休みで日程は自由自在なので、合わせるのはやぶさかではない。


「狩谷さんいらっしゃーい。あんまり片付いてないのは許してね」

「ああ、いえ、お世話になるのはこっちのほうなので」


 閑静な住宅街に立つ低層マンションは、車を持った社会人だからこそ選べる物件といったところか。

 コンクリ塗りの壁は少し冷たく感じるけれど、頑丈そうだなっていうのが第一印象だった。


 中は片付いてないとは言っても、普通に生活感がある部屋というくらいのものだった。

 ゴミ袋の山がその辺に投げ出されていることもなく、今日のために必死に片づけをしたってわけでもなさそう。

 衛生観念に敏感な仕事をしているからか、私生活でも綺麗好きなのかもしれない。


「部屋、こっちね。ネックを梁にぶつけないように気を付けて」


 言われるがまま、背負ったベースをぶつけないよう気をつけながら奥の部屋に入る。

 そこに広がっていたのは、乏しい語彙力で伝えるなら、まさしくクリエイターの部屋と形容すべき光景だった。


 真っ先に目に入るのは、何に使うのかもわからない大量の音響機材と、それに囲まれたパソコンデスク。

 部屋の片隅には縦型のピアノが一台設置されていて、傍には録音用と思われるマイクスタンドが鎮座する。

 そのほか、スタンドに立てかけられたアコースティックやエレキのギター。

 棚には木管や金管と思われる楽器ケースもいくつか並ぶ。


「なんか……すごい部屋ですね」

「ごちゃごちゃしててごめんね。でも防音なのこの部屋しかないから我慢してね」

「ああ、いや、そう言うわけではなくて……音楽家の部屋ってどこもこんな感じなんですか?」

「え? うーん、どうだろ。私は結構雑食気味な方かも? それより時間もないし始めようか」

「そうですね。よろしくお願いします」


 私は背負っていたケースを降ろして、中からベースを取り出す。


「わあー! ギブソンのブラックバード! ロックだねえ。ニッキーモデルのサンダーバードじゃなくってブラックバードなのがロックだねえ」

「はあ。これは何か、心揺さぶられるようなアイテムなんですか?」

「まあ、オタクからしたら心揺さぶられないアイテムってのが存在しないけど……どんな製品でも何かしら語れるポイントがあるよね」

「ちなみにこれはどんな特徴があるんですか?」

「オンかオフしかない潔いマスターボリュームと、具体的な性能は開示されてない自称『独自のピックアップ』かな。あと小指をひっかけるためのオプティグラブがついてるのに時代を感じるよねえ。漢らしいねえ」


 よく分からないけど、聞いてる側からしたら潔いとか、自称とか、時代とか、あんまりいい印象は受けないんだけど。

 別に本気でバンドをするわけでもないので、使えればそれで良いんだけどさ。


「そう言えば狩谷さん、アンプに繋いだことある?」

「アンプってなんですか?」

「面倒な説明を省いたら専用スピーカーってところかな。そのまま弾いてもペンペン蚊のなくような音しかでないでしょ? ピックアップを通して音が電気信号に変えてるからね。ライブとかで聞くような重低音を響かせるには、アンプを通さないといけないの。まあ、ものは試しということで……」


 天野さんは、箱型のスピーカーのようなものを引っ張り出してくると、ケーブルを使ってベースと繋いだ。


「じゃあベース側のスイッチ入れて貰えるかな?」

「スイッチって、これですよね」


 私は手元のトグルスイッチを倒す。それを確認して、天野さんはゆっくりとアンプのつまみを回し始めた。


「適当に音出してくれる?」


 私は頷き返して、弦の一本をピックで弾いた。

 同時に、ずんと響く低音がアンプのスピーカーからあふれだす。

 肌を伝ってビリビリと響く音の波。それまで家で耳にしていた、すりガラス越しに聞いた三味線みたいな軽い音ではなく、これがホントのベースの音。


「どう?」

「なんか、ちょっと、感動すらありますね」

「良いこというねえ」


 天野さんは満足げに頷く。


「どんな楽器でも、初めてちゃんと音を出せた瞬間って気持ちが良いよね。それを味わいたいがために、こんなに楽器の種類ばっかり増えちゃったんだけど」

「これは、また別の問題の気がしますけど」


 たぶん、コレクター気質もあるんじゃないかなと思う。

 そう言う意味では、彼女は清く正しく音楽オタク――もとい楽器オタクなのかもしれない。

 だとしたら、当然の疑問が沸き起こるのも、仕方のないことだとして許してくれるかな。


「そんなに音楽が好きなら、なんで仕事にしなかったんですか?」


 もちろん、音楽で食べてくってのは難しいんだろうなってのは思うけど。

 それでも彼女は好んでカフェの仕事をしているように見えた。

 でもこんなに音楽も好きそうだし。

 だからこそ、その心が分からないっていうか。


「なんていうのかな。仕事にするのは何か違うかもなって思っちゃったって言うか、趣味でも満足できちゃうのかもって思っちゃったっていうか」

「趣味でも……そう言うものなんですかね」

「街の音楽団とかには入ってるんだよ。定期公演とかもあって。あと個人的にネットで演奏あげたりとかもしてたり」

「そうなんですか? アカウント教えてくださいよ」

「ええー、それはなんか、恥ずかしいからやめとこう」

「不特定多数には公開してるのに?」

「それを言われたらそうかもしれないけど……いやいや、それより今は狩谷さんのベースレッスンでしょう」

「そうでした」


 セッティングをして、音が出るようになったばかり。

 技術的なところはまだ一切手を付けてない。

 天野さんは、アンプの設定を微調整してから私に向き直った。


「それで、何を弾きたいのかな?」

「何というと?」

「弾きたい曲だよ。あ、それともオリジナル? だと一回楽譜見せて貰ったほうがいいかな」

「いやいやいや、そう言う意味じゃなくって。その、特に決まってないですけど」


 そもそも架空のバンドを演じるだけだし。

 実際にステージを目指して練習をしてるわけじゃない。

 私が必要なのはフレーバーとしての演奏技術。

 それっぽい演技。

 演×演。

 すると、天野さんは納得したように頷く。


「なるほどね。狩谷さんが何かしっくり来てないのは、弾きたい曲のイメージがないからかもしれないね」

「それで変わるものなんですか?」

「変わるよー。例えばコードひとつとっても、覚えたところでそれがどんな曲になるのか分からないでしょう。逆に、これを弾けるようになるためにこのコード覚えなきゃなんて風にも考えられるし」


 確かに、ひとりで練習してた時には、結局このコードを覚えることには何の意味があるんだろうなんて思ったりもした。

 それって結局、演奏にどう関係するかのイメージができてなかったからってことだとしたら……何事にも目標は必要ってことなのかもしれない。


「すみません。曲は決まってないです」

「そっかそっか。じゃあ、それはメンバーと話し合ってもらっておくとして」


 メンバーが誰かも知らないんだけど。とりあえずユリがギターってのを知ってるくらい。

 というか、別に実際に一曲弾けるようなレベルにまでならなくても……なんてことを、すっかりやる気になってる彼女に伝えるのも悩みどころで。

 そうやってうだうだ考えが纏まらないでいるうちに、天野さんは棚から何か書類のようなものを取り出して私に差し出す。


「初心者向けの曲だとこの辺かな。私とのレッスンはこれを弾けるようになることを目標にしよう」

「そんな簡単に言いますけど、ほんとに初心者も初心者ですよ」

「大丈夫大丈夫。ベースボーカルの曲だから、そんなに無茶なことさせるパートもないし。それと別に、バンドの曲も決まったら並行して練習してこうね」


 そう言って、天野さんはなんとも楽しそうな笑顔を浮かべた。

 冷静に考えたら、こっちはやることが増えたような気がするんだけど……そもそもこのレッスン、何回行うつもりなんだろう。

 社会人、時間大丈夫?

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