結局、来てしまった。
学校で勉強をするということにして、道場の入口からそっと中を伺う。
室内競技の運動部用に建てられた第二体育館の二階が、剣道部と柔道部の道場スペースとなっていた。
ここに来るのはたぶん入学の時以来。
入部届を(無理矢理)提出させられてからこのかた、ここは私にとってのタブー領域となった。
それを圧しても来るしかなかったのは、大事な大事な後輩がウチの姉に手籠めにされないか心配だからだ。
そうじゃなければ頼まれたって来るもんか。
しかし、書類上は引退したOGとはいえ幽霊部員の身の上だ。
堂々と踏み入るわけにもいかなくって、探偵かストーカーみたいに陰からこっそり覗き見ることしかできないわけだけど。
道場の床板がどたんばたんと踏み鳴らされて、乾いた竹の打突音、そして傍から聞けば奇声にしか聞こえない気合の一声が鼓膜を揺らす。
三年生はとっくに引退して、代替わりは済んだ。
目の前にいる十数人いるどの太刀筋を見ても、もう記憶と一致する人はいない。
ただふたつ。
つい二ヶ月ほど前に、二歳年上の相手に大立ち回りを見せた小さな剣士と、高校剣士としては完成されつくした堂々たる佇まいの剣士を除いては。
姉が防具をつけているところを見たのは何年ぶりのことだろう。
目に触れただけなら在学中何度かあったんだろうけど、こうしてまじまじと見るのは、たぶんアレが中学を卒業して以来のこと。
相変わらず、その立ち姿は呆れるくらいに無駄がない。
普段はあんな適当なくせに、彼女の剣道は真面目一徹で繊細だ。
構えも、間合いも、打突も、すべてが理想形のお手本のよう。
不本意極まりないけれど、私の心が「ああ、綺麗だ」とため息を溢す。
それに対して、穂波ちゃんの剣道は荒々しい。
激しくぶつかって、ぶつかって、ぶつかって、自分のペースに引き込んで、相手の呼吸が乱れたところで勝ちをもぎ取る。
姉の剣は綺麗だけど、私はこっちの剣の方が好き。
それは人間の好き嫌いの問題じゃなくって、在りし日の私がそういう剣を振っていたから。
私が得意としていた体当たりの剣道。
何ひとつ届かなかった、不出来な剣道。
「なに、してるんですか……?」
「ひいっ」
突然背中から声をかけられて、喉の変なとこから声が出た。
すっかり覗き――ではなくて視察に集中してしまっていたみたいで、声の主が近づいていたことに全く気付かなかった。
「……宍戸さん?」
声を掛けたのは宍戸さんだった。
彼女は、驚いた私に驚いたのか、ぎゅっと身体をすぼめて半歩後ずさった。
「ごめん、驚かせたかも」
「い、いえ、わたしこそ……声かけようか、ちょっと迷ったんですけど……」
「そもそも宍戸さん、なんでここに?」
料理愛好会の活動でもあったんだろうか。
むしろ、そうでもないと学校まで片道二時間かかる彼女がわざわざ登校する理由がない。
あるいは学園祭の準備って可能性もあるけど、よっぽど気合が入ってない限りは、クラスの出し物なんてだいたい二学期が始まってから突貫で仕上げるものだ。
「えっと、その……穂波さんに見学に来ないかって、呼ばれてて」
結論、宍戸さんの答えは予想していたどれにも当てはまらなかった。
「見学って、え、剣道部の?」
「え、あ、えっと、はい。あ、でも、それはついでで……」
互いに状況を飲み込めてないからか、なんだかぎこちないやり取りになってしまった。
とりあえず落ち着いてもらおう。
いや、まずは私が落ち着こう。
そう思った矢先に、視界に黒い影が差す。
「なーにしとるのかね、君たちは」
面を外した姉が、道場の入り口に立ってこっちを見ていた。
気づくと場内は静かになっていて、他の部員たちもみんな面を外して、汗を拭きながらひと息ついていた。
きっと、なんか廊下で話してるヤツがいるから様子を見に来たくらいのものだったんだろう。
その正体が私だってことに気づいて、不思議そうにしていた姉の表情は、みるみるいやらしい笑顔に変わっていった。
汗ひとつかかずに、なんて笑顔を浮かべるんだ。
それから小一時間ほどして、私はがっくりと肩を落としながら校門を出ることになった。
姉にエンカウントしてしまった私は、そのまま道場に連れ込まれ、端っこに座らされ、休憩が終わった後の残りの練習を強制的に見学させられてしまった。
それは宍戸さんも同じで、勢いのままあれよあれよと連れ込まれてしまった彼女には悪いことをしたと思う。
「星先輩、見に来てくれるのなら言ってくれれば良かったのに」
穂波ちゃんが拗ねるともまた違う、すましたような声でつぶやく。
部活を終えて、軽くシャワーも浴びたらしい彼女の横顔は、さっぱりと充実感に満ちていた。
「別にサプライズのつもりはなかったんだけど……」
こっちとしちゃ、居たたまれなさのせいで胃と腸がひっくり返りそうだったよ。
幸いだったのは、剣道部の後輩たちにとっては私はそもそも幽霊部員ですらなく、「いない人」であったことだ。
みんな「なんかよく分からないけど生徒会長が見学に来てくれた」くらいの温度感で受け入れてくれた。
だからといって、私の心が休まるかどうかは別の話なんだけど。
「それで……なんで私は部活の終わりまで待たされた挙句、こうして一緒に帰らされてるの?」
本題はこっち。
どうして私は今、穂波ちゃんと宍戸さんと、それから姉と一緒に帰り道を歩いているんだろう。
「それはね、帰りにお祭り見て行こうって話をしていたからだよ、我が妹よ」
姉は、宝塚の男役みたいな凛々しい口調と仕草で遠い彼方を見やる。
私はそんな彼女を、じっとりと最大の侮蔑を持って見返してやった。
「後輩の前だからって何かこつけてんの」
「いいじゃん! 伝説の人扱いでちやほやされてたんだから、少しぐらい調子に乗りたいじゃん!」
「その調子、一瞬で崩れ去ったけど」
それにしても今なんて言った。
お祭りだって?
今日って何か――
「ああ、花笠」
そっか、もうそんな時期か。
夏だもんな。
「星先輩、忘れてたんですか?」
「あー、ダメだよ穂波ちゃん。この子、そういうイベント全く興味ないから」
「誤解を招く言い方しないでよ」
毎年同じ日付で三日間開催される街のお祭り。
生まれてこの方この街に住んでるわけだから、全く興味がないっていうのは間違いだ。
ただ今年はユリの大会の日程がガッツリ被ってしまったので、そもそもスケジュールにも記憶にも残していなかったってだけだ。
「実は、一回も来たことなかったので、今年こそって思ってたんです。だから歌尾さんと、部活の帰りに見て行こうって話をしていて」
穂波ちゃんの説明で、ようやく状況を理解できた。
それで宍戸さんが学校に来ていて、ついでに部活の見学に来てたってわけね。
「それになんでウチのバカタレがついてるの?」
「そりゃもう、観光大使ですぞ。あとバカタレはひどいですぞ」
「キャラ作るならせめて安定させろ」
「えー、じゃあヒゲじいで固定しますぞ」
「ウザ」
こういう時は相手にするだけ無駄なので、私はできるだけ視界に入れないようにそっぽを向いた。
その様子を見て、宍戸さんが小さく首をかしげる。
「あ、あの……おふたりは喧嘩中……なんでしょうか……?」
彼女はどこか怯えたように口にする。
というか、まんま怯えた様子で震えていたので、私は慌てて首を振った。
「ああ、いや、別に喧嘩してるわけじゃないんだけど」
「喧嘩もしてないのにいつも冷たい薄情な妹なんですぞ。もっと言ってやって欲しいんですぞ」
「うっさい、黙ってろ。あとヒゲじいそんなに『ですぞ』ばっかり言わないし」
「演技指導も厳しいですぞ……」
ズバッと言ってやったら、ようやく少し静かになった。
だけど、この後どう説明したら良いんだろう。
これが平常運転ではあるんだけど……流石に後輩の前では自重するべきだったのかもしれないなと反省もする。
とりあえずまずは、なんてことはないんだってことを伝えよう。
宍戸さんはまた変な誤解をしてしまいそうだから、丁寧に、はっきりと。
だけど私がそうする前に、宍戸さんはふるふると首を横に振った。
「薄情なんてこと……ないです。星先輩は、こんなわたしの話を聞いてくれて……一緒に考えてくれて……そんな、とても頼りになる、優しい先輩なんです。だから、薄情なんてこと……ない、と思います」
私は面食らってしまって、じっと彼女のことを見つめてしまった。
珍しく饒舌だからって言うんじゃなくって、そんな風に思ってくれていたんだってことに。
私の視線に気づいた宍戸さんは、なぜかぎょっとして、それから今度は力強く首を振った。
「ご、ごめんなさい……! わたし、その、偉そうに……しかもお姉さん相手に……!」
「あ、いや、こいつなんか別にどんな扱いしてくれたって良いけどさ」
なんだ、ものすごく恥ずかしいぞ。
そう言えば、面と向かって誰かに褒められるのってすごく久しぶりの気がする。
だからか分からないけど、耳の後ろがカッと熱くなって、鼓動が直接鼓膜を揺らすような気がして。
とにかく、目の前の後輩を直視することができなくって。この場で一番感情を揺さぶられなくてむしろ冷え切るだろう、姉のツラを見た。
見たのは良いんだけど、姉は両手で口元を押さえて、必死に笑いをこらえていた。
「あらぁ、星ちゃま良い後輩を持ったじゃありませんこと? こんなに慕われてる姿を見て、お姉さま感激ですわ」
「ああああ、今すぐぶん殴ってやりたい」
ぶん殴らないけど!
後輩の前だし!
「なんかずるっこの流れですね。私もお慕い申し上げてますよ?」
「穂波ちゃんも張り合わなくていいの」
ずずいと割って入る穂波ちゃんを、私は「皆まで言うな」と制する。
姉はというと、すっかり上機嫌でペチペチペチペチとこれ見よがしに私の肩をはたき続けていた。
ああ、もう、帰りたい。
帰るか。
「じゃあ、私はもう帰るから。お祭り楽しんで」
「え……星先輩、行かないんですか?」
穂波ちゃんは一転、この世の終わりみたいな顔で口にする。
ぶっちゃけ表情はほとんど変わってないんだけど、変わって無いなりに、この世の終わりみたいな悲壮感を漂わせている。
「今日まだ全然勉強してないし……」
「一緒に行ける、最後のお祭りかもしれないのに……?」
なんでそう、さも当然の期待を裏切られたような顔をするの?
私、そういう感情に直接訴えかけてくる系が何より苦手なんだけど。
そしてまた、姉と違って純水無垢な澄み切った瞳で言うもんだから、余計にこうかはばつぐんだよ。
「……バスで帰るつもりだったから、その時間までならいいよ」
それが最大限の譲歩だった。
穂波ちゃんも宍戸さんも、嬉しそうに表情をほころばせた。
姉の姿は、もう視界に入らないように脳内でモザイク処理を施した。
なんかもう……そもそもなんで学校に来たんだっけ。
身も心もどっと疲れて、ありったけの出店を制覇してやろうかってくらい、お腹が空いていた。