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8月7日 おわりとはじまり

 なー。


 時刻は夕方六時を三〇分ほど過ぎたころ。

 この時間は実は、私にとって一番集中できるゴールデンタイムだ。

 ウチの晩御飯はだいたい七時前後。

 晩御飯に呼ばれたら、そこですっぱりと今やっていることをやめるというのは、子供のころから染みついたルーチンだ。


 なー。


 本を読んでいても、ゲームをしていても、勉強をしていても、ご飯に呼ばれたらすぐにやめて食卓につく。

 それがウチの絶対のルール。

 だからタイムリミットが迫る六時台は、本やゲームならなんとかキリのいいところまで。

 勉強なら、なんとか今日のノルマが終わるまで。

 手が進み、頭が働いて、体感時間が長く、そして短くなる。

 集中力を発揮する。


 なーなー。


 そしてさっきから泣いてるのは近所のノラ猫ではなく、妹のベッドを占領してダラダラとスマホをいじっているウチのメス猫だ。


「なーなー。せっかくお姉さまが帰ってきてるんだぞー。勉強ばっかしてないで構えよー。なーなーなー」


 集中モードの私は、そんなウザ絡みも華麗にスルー出来る。

 そもそも聞いていない、聞こえない。

 見ようとしなければいないのと同じ。

 脳内でセルフ透過処理。私のゴールデンタイムは誰にも邪魔できない。

 自分と、机と、目の前のテキスト。

 それが私の世界の全て。

 他は取るに足らない瑣末事。

 何ぴとたりとも私の邪魔は――


 不意にスマホが震えて、私は手にしたシャーペンを放り投げた。

 すかさずスマホを手に取ると、届いたメッセージ通知を立ち上げる。


――審査員特別賞!


 簡素なメッセージと共に、おちゃらけた集合写真が添付されていた。

 その中で、私の好きな人は歯を見せて笑っている。


――おめでと。


 順位のついた賞じゃないから何て送るかちょっと迷ったけど、素直にそう返すことにした。

 送信ボタンを押すのと同時に、張りつめていた緊張が口からこぼれる。

 他人事でしかないはずなのに、自分の夏が終わったような清々しさと心地よさがあった。


「パーフェクトスルー決め込んだと思ったら、いきなりニヤニヤしちゃってさー。なんなのさー」

「うっさい黙ってろ」


 咄嗟に口にしてからハッとする。

 しまった、油断した。

 私の罵倒を絡んでいい合図と判断したのか、姉は跳ね起きてベッドの淵に腰かけた。

 ピークタイムだけに許された黄金の精神も、気を抜けば不埒なそよ風に負けてしまう。

 修行が足りない。


「相手はだーれだ。ユリちゃんか」

「分かって言ってるやつほどタチが悪いのないからね」

「そう言いなさるな。ほら、ウチのとこにも届いたってだけだから」


 そう言って、姉は自分のスマホの掲げる。

 その画面には、私に送られて来たのと同じ画像がメッセージアプリのトークルームに表示されていた。


「星の方がずいぶんと早いご報告で、愛されてるねえ」

「愛よりも永遠が欲しいわ」

「突然詩人に目覚めた?」

「受験生のナイーブ」


 そういうことにしておけば、丸く収まるような気がした。


「ところで、どうだったの」


 話題を変えるように切り出す。


「どうだったって、何が?」

「この間の部活」

「ああ、大事な後輩ちゃんのこと?」


 尋ねられて、姉は腕を組んでうーんと唸る。

 難色ってよりは、単純におとといのことを思い出してる感じ。


「荒々しくて良いんじゃない。負けん気があるのは、強くなるためのひとつの条件だよね。昔の誰かさんみたいに」

「人のことはいいから、穂波ちゃんのことだけ聞かせてよ」

「姉妹のコミュニケーションじゃないのよさー。まーいいけど」


 姉は一回ぶーたれてから、もう一度小さく唸る。


「負けん気はあるけど、それを向ける相手が明確じゃないのが気になったかな」

「それは、ライバル的な存在ってこと? そんな少年漫画じゃないんだから」

「別にそこまで言わないけどさ。全国を目指すには、穂波ちゃんはまだまだ井の中の蛙かなって」


 そう言われても、いまいち要領は得られなかった。


「でも、外に大海があることは知ってるし、井から飛び出そうもしてる。私と稽古したがったのも、自分の弱み知ってるからだし、後は飛び出す脚力をつけること。あ、マッチョになれって意味じゃなくってカエル的な意味でね。ぴょこぴょこって」

「ごめん、よくわかんない」


 まあ、ハナから理解しようともしてないんだけど。

 たぶん素っ気ない表情を浮かべていただろう私に向かって、姉は得意げな笑顔を向けた。


「そのガッツに惚れ込んだので、お姉ちゃんは後期の授業が始まるまでちょこちょこ顔を出すことにしたのである。ワンコみたいでいい子だし」

「は……後期までって、まさか九月いっぱいまで居る気?」

「流石にギリのギリまではいないけど、新人戦に向けた後押しはしたいよね。まー、たかだか十二年竹刀振ってただけの小娘にできることと言ったら、全力で出る杭叩くくらいのことだけど」

「一応言っとくけど、潰さないでよ。そしたら本気で怒るから」

「だいじょぶだいじょぶ、少なくとも潰れる子じゃないでしょ。それにお姉ちゃんも嫌われたくはないよ」


 この期に及んで、まだ嫌われてない自信があるのが恐れ入るよ。

 でも夏が終わる一方で、これから始まるような子もいて。

 それって当たり前だけど、すごく不思議な感覚で。

 ちょっぴり、ほんのちょっぴり、センチメンタルな感傷が喉の奥をかすめて胸の辺りに落ちていった。


「星ちゃーん、お姉ちゃーん、ごはーん」


 下階から、母親の呼ぶ声が聞こえる。はっとして、私は解きかけの問題集に視線を落とした。


「ゴールデンタイムが……」

「ゴールデンタイム? 今って何か面白い番組やってたっけ?」


 白々しい姉のすっとぼけた声だけが、鼓膜にこびりついて落ちなかった。

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