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10月12日 レッツ・シング

 昼休み、私は心炉と一緒に第一音楽室を訪れていた。

 音楽室は大きく二つあって、ひとつは授業でよく使う第一音楽室。

 そしてもうひとつが、こっちも授業でも使うけど、ほとんど吹奏楽部の部室みたいになってる第二音楽室。

 ちなみに、いつも込み入った話をするときに使われている個人練習室は、第二音楽室の奥にある。


 まあ、別に場所はどっちでも良かったのだけど、第二音楽室の方は数名の吹奏楽部の生徒が弁当を食べながらスマホで動画を見ていたので、空いてるこっちに集まったというだけにすぎない。


 教室に入ると、既にほかのコンサートメンバーが集まっていた。

 その中で、何故か穂波ちゃんひとりだけ、窓に向かって大きな深呼吸をしていた。


「何してるの?」

「あっ、星先輩こんにちわ」


 穂波ちゃんが振り返ると、彼女はタコみたいに頬を膨らませていた。

 同時に、窓ガラスに張り付いていたティッシュペーパーらしき紙が、ひらりと床に落ちる。

 穂波ちゃんは、慌ててそれを拾い上げた。


「ブレスの練習だってよ」


 傍にいたアヤセが、代わりに疑問に答えてくれた。

 穂波ちゃんは窓ガラスにティッシュペーパーを当てると、ふーっと息を吹き付ける。

 そのままゆっくり手を離すと、ティッシュは見事に窓にはりついたまま動かなかった。


「すごいすごい」


 純粋な驚きで手を叩いた。

 何の意味があるのかは分からないけど、たぶん演奏に必要な呼吸とか何かを練習してるんだろうなっていうのは理解できた。

 指導していたらしい須和さんが、感心するように頷く。


「良い肺を持ってる」

「誤解を受けそうな評価だね」


 何かシリアルキラーみたいなセリフに聞こえたのは私だけ?

 口にした当の本人は、よく分かってない様子で小首をかしげていたけれど、気を取り直したように大きくひとつ手を鳴らした。

 教師が生徒の注意を引くような、そういう手鳴らし。

 穂波ちゃんも深呼吸をやめて彼女の方を見る。


「用事はふたつだけ」


 須和さんはそう言って、まずひとつ――と、足元に置いてあったひょろ長い楽器ケースを持ち上げる。

 そのまま穂波ちゃんの目の前に差し出すと、穂波ちゃんも恐るおそると言った様子で受け取った。

 中には一本のトロンボーンが詰め込まれている。

 年季が入っているのか、決してピカピカではない、ちょっとくすんだ色が特徴的だった。


「学校の余りを借りた。古いし誰も使ってなかったけど、音は確認済み」

「おお……」


 穂波ちゃんは目を輝かせながら楽器を見つめる。

 昔取った杵柄じゃないけど、今の彼女の気持ちはちょっとだけ分かる。

 私も借りたベースを初めて見た時、多少なり感嘆はしたものだ。

 私たちからしたら十分すぎるほどの非日常感と、ある種の高価なものを目の前にしたときの緊張が合わさったような興奮だ。


「ところで、トロンボーンでいいの?」


 ここにきて、須和さんは元も子もないような疑問を口にする。

 問われたはずの穂波ちゃんも、逆に首を傾げ返す。


「他に選択肢があるんですか?」

「……例えば」


 須和さんの視線が、穂波ちゃんの隣に隠れるように座っていた宍戸さんを捉える。

 宍戸さんはびくりと肩を揺らしたけど、この期に及んで逃げるようなことはしなかった。


「宍戸さんがトランペットかトロンボーンをできるなら、私がもう片方をやって、八乙女さんがサックスという手もある」

「うん? それって何か変わるのか?」


 今度はアヤセが首を傾げた。

 私も同じ意見で、同様に首をかしげたくなったけれど。


「宍戸さんが八乙女さんにコーチするなら、慣れた楽器を教えた方がいいのでは――ということじゃないですか?」


 心炉が補足するように言うと、須和さんはその通りだと言わんばかりに頷いた。

 なるほど。

 言われてみれば、そういう考え方もあるなと思う。


「他の楽器に触れるのも経験」

「確かに宍戸さん自身も、他の楽器なら肩の力を抜いて演奏できるかもしれませんね」


 すごいな心炉。

 須和さんの言ってることバッチリ理解してる。

 私もある程度分かるようになってきてたつもりだったけど、こと音楽のことになるとまるっきり宇宙語でも聞いてるような気分になってしまう。

 そして、その感覚はアヤセも同じようだった。


「なるほどな。で、歌尾はサックス以外って吹けるん?」

「え、えっと……どっちもある程度なら。でも、こうなってからは試したことがないから……」


 宍戸さんの返事は、しどろもどろだった。

 そんな中で穂波ちゃんがすっと手を上げる。


「あの、良いですか?」

「悪いなんてことはないよ」


 私のお墨付きをもらって、穂波ちゃんはケースからトロンボーンを取り出す。

 小柄な彼女が持つと、もっと大型の楽器を持ってるんじゃないかって錯覚してしまうくらいだった。


「私、これがいいです」


 彼女はそのまま、何よりも単純明快な答えを示す。

 そう言われちゃ、周りの人間が「ダメだよ」なんていう道理はどこにもなかった。

 その意思表示には須和さんも納得した様子で、特に物申すこともなく、再び宍戸さんを見る。


「トランペット」

「え?」


 突然彼女に指をさされて、宍戸さんはぽかんとしていた。


「サックス」


 須和さんはそう言って、今度は自分自身を指さす。

 それで宍戸さんも何を言ってるのが合点がいったようで、みるみる目を見開きながらゆっくりと伸びあがった。

 なんか、ジブリ映画でこんな感じの見たことあるな。


「そんな……須和先輩の前で……!? 私のトランペット、ほんとに素人レベルなのに……!」

「私も同じ」


 須和さんは、足元にあったもう一つのケースを持ち上げて、宍戸さんに差し出す。

 さっきのトロンボーンのケースよりも小型で、形からおそらくトランペットが入ってるんだろうなっていうことがひと目でわかった。


 受け取った宍戸さんは、恐る恐るケースを空ける。

 すると、そこに入っていたのは、ピカピカに磨かれた美しい金属光沢のトランペットだった。

 楽器素人でも、年季の入った穂波ちゃんの楽器と比べたら、新しく良いものなんだろうなっていうのが理解できた。


「これ、もしかして……」

「私の」

「や、やっぱり……!」


 宍戸さんの声は、ほとんど悲鳴に近かった。

 それでも須和さんはお構いなしに、相変わらずのマイペースで手を差し出す。


「次に会う時」


 これは分かった。

 「あなたのサックス貸してくれる?」って、きっとそういう事だろう。


「え、ええ……?」


 突然の申し出に宍戸さんは完全に度肝を抜かれて、目の前の楽器を見つめたまま固まってしまった。

 光沢に証明の輝きが反射して、彼女の表情を明るく照らす。


「挑戦してみるのも良いんじゃない?」


 その迷いを前向きなものにするために、そう声をかけた。


「少なくとも、責めるような人はここにはいないよ」

「星先輩……」


 宍戸さんは私を見て、それからもう一度トランペットを見つめる。

 彼女は静かにケースの蓋を閉じて、大事そうにそれを抱えた。


「私、やってみます。穂波さんも挑戦するなら、私も」

「歌尾さん……!」


 穂波ちゃんと宍戸さんは見つめ合って、どっちからともなくニヘラと笑った。


「さて、楽器も決まったとこで曲はどうすんだ?」


 流石アヤセ、いいタイミングで良い話題を切り出してくれた。

 正直、曲が決まんないことには練習もできないし。

 私はそもそもそういうやり方で教わったから、目標という意味でも早めに決めておきたかった。


「これをやる」


 須和さんは、手に持っていたスコアブックを広げて私たちに見せてくれた。

 一瞬、何が書いてあるのか理解できなかった。

 楽譜が読めないとかじゃなくって、楽譜のいたるところに色とりどりのマーカーペンで手書きのコメントが書かれていたからだ。


 コメント――と呼ぶのも、ちょっと違うような気もする。

 ひと言で表現するなら、そう、寄せ書きだ。

 沢山の寄せ書きが、ページをカラフルに埋め尽くしている。


 その中でようやく曲名らしきものを見つけた私は、大きく、それは大きく息をのんだ。


「私のやり残したこと」


 呟いた須和さんの言葉には、相変わらず感情がこもっていなかったけど。

 それでも彼女の強い意思が――それが良い感情か悪い感情かまでは分からないけど――ひしひしと伝わって来るような気がした。


――『Sing,Sing,Sing』。


 それが、このメンバーで目指す終着点だ。

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