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10月13日 対等でありたい

「……これでよしと」


 デスクライトが煌々と降り注ぐ勉強机を見下ろして、私は大きく一息ついた。

 視線の先には、コピーしてもらった『Sing,Sing,Sing』の楽譜が広がっている。

 流石に須和さんの寄せ書きたっぷりの楽譜を使うことはできないので、音楽室にあった綺麗なままのやつを人数分コピーさせてもらった。


 そのベースのTAB譜部分に、さらに分かりやすいように抑える指の名前とかを書いて、自分用の楽譜が準備できたのが今しがたのこと。

 見てくれは悪いかもしれないけど、初心者としてはこれくらい分かりやすくしないと、毎度抑える指と弾く弦の確認作業だけで日が暮れてしまう。


 元の曲は動画サイトで聞いたけれど、流石にそれと楽譜とを照らし合わせて、実際にベースがどんなメロディを奏でるのかまで見極める力はない。

 とは言え、分からないなりに気づくことはあるもので。

 この曲はいくつかの短い章のような構成になっていて、その章ごとに似たようなフレーズを繰り返すことで成り立っている。

 特に、合奏の屋台骨であるベースはそれが顕著のようで、多少難しそうな部分もありつつも、一度覚えてしまえばひたすら反復練習で身体に覚えさせることができそうだった。


 その『Sing,Sing,Sing』という曲名のイメージそのままに、耳になじむフレーズを繰り返すことで「ノってこいよ! 混ざれよ!」と言われているようにも感じる。

 そういう曲ってあるよね。

 私でも知っているところだとラヴェルの『ボレロ』とか。

 あっちはマジで極端な例だと思うけど。


 せっかく楽譜の準備ができたし、少しだけ弾いてみようか。

 私は自室の壁に立てかけたケースを手に取り、中からブラックバードを取り出した。

 この、ちょっと重いかなっていうくらいのずっしりした感覚もすっかり馴染んだものだ。

 一緒に貸してくれたチューナーでチューニングを済ませてから、とりあえず肩慣らし――もとい指慣らしとして、夏休みの間に必死に練習したサンボを弾く。

 流石に、ソラでできるようになったものを一ヶ月そこらで忘れるなんてことはない。

 なめらかな指運びのまま一曲を弾ききることができた。


 さて、じゃあ新しい曲に入ってみようか。

 流石にテンポくらい取らないと自分が何を弾いているのかも分からなくなってしまいそうなので、スマホのメトロノームアプリをゆっくり目に鳴らしておくことにする。

 とりあえず最初のフレーズくらいは一通りやってみよう。

 押さえる弦を見ながら、弾く弦を見ながら。

 よちよち歩きの赤ちゃんみたいだけど、そうやって少しずつ形にしていくしかない。


「星ちゃん、お風呂空いたけど……あら?」


 突然部屋にやって来た母親が、私の姿をみてたいそう驚いた様子で立ち尽くしていた。


「どうしたの、またそんなの弾いちゃって」

「いや……」


 いやもなにもないんだけど、まあ、普通は驚くだろうね。

 仮にも受験生が机に向かって勉強するどころか、床に胡坐をかいて楽譜とにらめっこしてるんだから。


「息抜きだよ。学園祭でやったら、思ったよりいい気分転換になったから」


 流石に「クリスマスコンサートに出場するんだ」なんて言えなくて、そうごまかしておいた。

 どうせ当日に鉢合わせるなんてこともないだろうし、これくらいの嘘は方便ってことにしてほしい。

 少なくとも母親はそれで納得してくれたのか、「ふーん」とさほど興味なさそうに相槌を打った。


「星ちゃんもお姉ちゃんといっしょで成績いいから心配はしてないけど……まあ、息抜きは必要よね」

「だからアレは関係ないって」

「はい、ごめんなさーい」


 聞き飽きましたと言わんばかりのため息をついて、母親は部屋を去って行く。

 口だけの謝罪なら言わなきゃいいのに。

 それもあと数ヶ月の辛抱だから我慢するけど。


 集中が途切れてしまったし、このままお風呂に入っても良いかな……いや、そんなに長くないんだし、このフレーズくらい最後までやろう。

 勉強と音楽とういう、どっちも同じくらい時間をかけたいものを両立させるには、なんとなくの妥協は禁物だと思う。

 ある種のタスク管理だと思って、今日やると決めたことはやる。


 このフレーズが終わったらお風呂に入って、また髪の手入れをしている間に一緒に英単語帳でもめくって、それから寝るまでの時間は机にかじりついて勉強する。

 一分一秒が惜しくて、一日が二十五時間でも二十六時間でもあればいいのになんて、こんなこと思うの初めてだな。

 ほんの何ヶ月か前までは、ぼーっとしてる時間の方が多くって、毎日二十四時間もいらないよなんて思っていたのに。

 これを充実と呼んでいいのかは疑問があるけれど、少なくとも暇を感じることはない。

 時間が限られていることもあってか、勉強にも集中できている。


 もしかして私……部活やってた方が、成績伸びたのかな?

 そんなこと今考えたって仕方がないし、勉強のために幽霊部員って言うのは単なる名目上のことで、実際は行きたくないから行かなかったというだけだ。

 そう、今回のバンドにしたって学園祭の時と違って、自分でやると決めてやったこと。

 そのモチベーションの差を忘れてはいけない。


――曲、シングにしたんだね!


 天野さんからスマホにそんなメッセージが入っていた。

 練習中だし、適当なスタンプだけ返しておこうと思ったら、さらにメッセージは続く。


――ジャズは自由だから失敗とか気にしないでのびのび楽しんでね。

――間違えても「このアレンジ痺れるだろ?」って顔してればいいんだから。


 とても教師免許(しかも音楽)を持ってる人間の言葉とは思えないけど、そんな彼女がいうからこそ、そういうもんなんだろうなっていう謎の納得感があった。

 いきなり飛び込むことになった音楽っていう新世界に、物おじせずに向き合えるのも彼女のおかげなのかも。

 そのうちちゃんとお礼しなきゃな。

 私は彼女に貰ってばっかりで、何も返せてないような気がする。

 社会人と未成年なんだから気にするなって彼女なら言いそうだけど、できるだけ対等な立場でいたいなっていう気持ちが私の中にある。

 借りを作りたくないとかそういうんじゃなくて、数少ない気の許せる大人だからなのかもしれない。

 果たして彼女が、憧れるような素敵な大人かと言われると、多少の疑問は残るけどね。

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