朝、いつもより遅めに登校した私は、その足で一年生の教室のある四階へと向かった。
若い順から頑張って階段を登れという事なんだろうか。
四階が一年生。
三階が二年生。
そして二階が三年生と続いているのが、ウチの校舎の基本的な造りだ。
他学年の廊下というのは、どこか異世界のような感覚に陥る。
もうちょっとマイルドに言えば外国というか。
それはあっちから見ても同じなんだろう。
下級生の廊下を歩く上級生というのは、どしても目立ってしまうものらしい。
すれ違う後輩たちの視線を受けながら、どっかで待ち合わせでもすれば良かったと、わずかながらに後悔した。
目的の教室について、後ろの出入り口から中の様子を伺う。
すると目的の相手とバッチリ目が合って、彼女はぱたぱたと私のところまで小走りでやってきた。
「おはようございます」
私のもとまでやってきた穂波ちゃんは、ぺこりと頭を下げる。
私も「おはよう」と短く返して、一番の目的であったラッピングされた包みを彼女に手渡す。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。開けても良いですか?」
良いですか、と聞きながら彼女は既に包装紙をあけていた。
中から出てきたのは、秋らしい紅葉の絵柄の手ぬぐいだった。
「それなら何枚あっても邪魔じゃないでしょ?」
「はい、嬉しいです」
穂波ちゃんがにこおーと笑う。
他の運動部員がシューズなんかが消耗品であるように、剣道部員にとって竹刀と手ぬぐいは消耗品だ。
手ぬぐいはまだ年単位でもつけど、竹刀は練習用の安価なやつなら月に一本はダメにしてしまうくらい。
竹刀っていうのもちょっと考えたけど、誕生日のプレゼントが一ヶ月でダメになるようなのじゃ私も嫌だし、かといって試合用の良いやつはそれなりに値が張る。
しかも天然素材の宿命か、一本ずつ微妙に重心が違っていたりして、重要な場面で使うやつほど自分でちゃんと触って、試し振りして選ばないといけない。
あと、こうして教室で手渡すにはサイズ感がちょっと良くない。
そういうもろもろの理由を鑑みての結論が手ぬぐいだった。
最近は、その辺で普通にお洒落手ぬぐいが売ってるから良い時代になったなと老婆心のように思ってしまう。
オシャレ手ぬぐいを額に入れて飾るなんていう文化もあるみたいだしね。
私たちにとって手ぬぐいなんて、頭に巻いて汗でぐしゃぐしゃになるものなのに。
「ほんとはパーティーとかもしたかったんだけど、しばらく都合つかないんだよね?」
「新人戦が近いので毎日部活漬けですね……ごめんなさい」
「謝ることじゃないけどさ」
元気づけるように、しゅんとする彼女の肩に手を触れたら、ふいに「わっ」と周囲から色めき立った声が聞こえた――気がした。
気がしたっていうだけのは、全く意識を向けてなかったからで。
ふと顔をあげると、教室の内外の後輩たちがみんな、私たちの一挙手一投足を見守るように視線を向けているのに気づいた。
なに……上級生が下級生の教室に来るのって、そんなに注目浴びるもんなの?
えもいわれぬ恥ずかしさというか、居たたまれなさが襲って来て、私は小声で穂波ちゃんに耳打ちした。
「時間あるなら、ちょっと場所変えようか」
「あ……はい?」
穂波ちゃんは、ぽかんとして頷き返す。なんでそんなことをされたのか分かってない様子だった。
ふたりして教室を後にして、適当にぶらぶらと校舎を歩く。
別にそんな長話をするつもりもなかったし、歩きながら話してほどよい頃に解散すれば、それで良いだろう。
「どうして教室を出たんですか?」
「いや、何か、視線が……」
「ああ……」
彼女は何やら納得した様子で頷く。
「星先輩、結構人気者ですから」
「そうなの?」
「普段はどんな人なのかとか良く聞かれます。選挙に出た後くらいからは特に」
「……なんて答えるの?」
「面倒見のいいひとだよ、とか」
「そう……」
ううん……なんだかとても複雑な気分。
それならもっと生徒会役員に立候補してくれても良かったのに。
この半年のあれやこれやの準備も、かなり楽になったに違いない。
「あと、多少は噂になってるみたいです」
「噂?」
「お姉さまと妹的な」
「それはちょっと分かんないかな……」
昔の少女小説に、そういうのがあったっけ。
私よりはユリの方が詳しいような気がする。
「大丈夫? 迷惑かけてない?」
「迷惑なんてことは」
穂波ちゃんはぷるぷると首を振る。
「慕ってるのも尊敬してるのもその通りなので」
それから、すごく澄んだ真っすぐな瞳で彼女はそう言った。
穂波ちゃんのそういうところ、ホントすごいと思うよ。
ぜひそのまますくすくと大きく……うん、大きく育って欲しいね。
私の方は、こんなに真っすぐな敬意を向けられてしまうと、逆にダメ人間になってしまいそうだよ。
無条件の尊敬ほど人をダメにするものはないと思う。
「大会っていつなんだっけ」
「ええと……十一月に入ってすぐですね。今回は団体のレギュラーを狙ってます」
「取れるんじゃないかな。インハイ予選で個人戦に入れて貰えたくらいだし」
「過度な期待と油断はしたくないです。でも、レギュラー取れるくらいじゃないと、明さんに悪いですから」
「アレのことは別に気にしなくていいよ。好きでやってたことだし」
とは言っても個人的な稽古じゃなくって、結局は臨時コーチとして部のみんなに稽古つけてたみたいだし。
みんなの実力が上がって、相対的に穂波ちゃんだけが突出して伸びるってことはないかもしれないね。
「それじゃあ、楽器の練習もあんまりできないんじゃない?」
「それは確かに、なんですが……でも、ちょっとずつ前には進んでます。昨日は金管の音の出し方を学びました。知ってます? こう、ぶるぶるーって唇を震わせるんです」
そう言って、穂波ちゃんは二本指を唇に押し当てると、「ぶー」っと唇を震わせてみせた。
なんかブーイングしてるみたいだけど、そうやって空気を振わせて音を出すものらしい。
ただまだ慣れてはないようで、時おりスカしたように「ふすー」っと空気だけこぼれては、首をかしげていた。
それがおかしくて、彼女には悪いけどつい笑ってしまう。
「まだ練習が必要みたいです」
「そうだね」
私だって人のことは言えない。
よちよち歩きな演奏は早いところどうにかしなくては。
須和さんと宍戸さんは、お互い不慣れな楽器だけど大丈夫なのかな。
須和さんはダメってところは想像できないけど、宍戸さんは……。
気になってしまうとキリがないけど、ぐっとこらえておく。
あまり干渉しすぎるのは彼女のためにならないような気がした。
一応、調子はグループメッセで共有し合ってはいるし……まずは自分のことをどうにかしよう。
自分以外の「一人」を支えられるようになって「大人」だなんて、金八先生が言いそうな言葉だけど。
そういう意味じゃ、私はまだまだ大人にはなれそうにない。
歳を重ねて選挙権を手に入れても、大人って自覚はいつから芽生えるんだろうなって、そんな事ばかりが気になった。