いろいろ特筆すべきことが多くて話題にあがらないけど、いつだかユリと話した放課後勉強会は、平日の放課後に毎日ほそぼそと開催されている。
私とユリはレギュラーメンバー。
心炉は、平日二回の家庭教師の日以外は、都合がつく限り参加してくれている。
今日はその家庭教師の日だけれど。
そして先週までは入試に掛かり切りだったアヤセも、今週からは居残りに付き合ってくれるようになった。
「いまさら勉強いるの?」
「そう元も子もないこと言うなよ」
ごく自然にこぼれた疑問に、アヤセは苦笑しながら答える。
「何度も言ってるけど合格したわけじゃないし。何かやってねーと落ち着かねーんだよなあ」
「そういうもん?」
「呆れるほどに他人事だな……」
「まあ他人事だし」
「言ってろ」
他人事プラスわずかながらの羨ましさ。
前も言ったけど、受験の重圧なんてさっさと開放されるのに越したことはない。
それがイチ抜けできる(可能性がある)ってだけでも羨ましいもんだ。
落ち着かないから勉強するなんていうのも、どこか高みの見物みたいに聞こえてしまうし。
多少イジられるのくらいは、有名税みたいなもんで我慢してほしい。
「受かってるといーねえ」
「うむ、ユリは素直でよろしい。今日はなんの勉強してんだ?」
「すうがくー」
んなもん見りゃ分かることなのに。
それでも聞いちゃうくらいに落ち着けなくって、気持ちが空回りしているのかもしれない。
流石のアヤセでもこうなるかと、逆にこっちの方が落ち着いてくる。
さっきはイジって悪かったね。
うんうん。
これからは少しだけ優しく生きてみることにしよう。
「中学校の時にさー」
突然、アヤセがそんなことを呟く。
「どうしたのいきなり」
「いや、聞いてあげようよー」
ツッコミを入れてしまったけど、ユリはいつになく真剣な顔で待ったをかけた。
そうだった、優しく生きようって決めたばっかりじゃないか。
どんなくだらない話かしらないけど、とりあえず最後まで聞いてあげよう。
「いや中学校んときにさ、軸がシャーペンになってるコンパス使ってたのよ。なんかスタイリッシュでカッコいいなって思って」
「はあ、それで?」
「いや、数学のテストとかで図形書けとかいうのあんじゃん? そん時にさ、コンパスのシャー芯切れてんのに気づいたんだ」
ふふん。
なんかとりあえず数学繋がりの話だったっぽい。
流石にユリじゃあるまいし、いきなり何の関係もない話を始めたりはしないか。
「替えの芯とかなかったの?」
「それがよー、ウチの中学って基本的にシャーペン禁止だったのよ。筆記用具は鉛筆で、あとは色ボールペンが許されてるくらい?」
「ウチもそうだったー! 休み時間に鉛筆削り使うの忘れてて、授業中にこっそりカッターで削ってたよー」
「そんなわけで、そもそも『シャー芯が切れる』っていう概念が頭にないわけよ。たぶん、それもあってシャー芯タイプのコンパス使ってたんかな? 密かな憧れみたいな」
「んで、替え芯なくてどうしたのよ?」
「鉛筆くくりつけようかなっても思ったんだが、長さとか絶対ズレんじゃん。だから最終手段で……」
アヤセは溜めるようにひと呼吸置いて、中学生が「腕がが疼く……」とかやってそうなポーズで右手の指をわきわきと動かした。
「クラフトするわけよ。裁縫糸で即席コンパスを」
「うわあ」
ものすごい興味のない声がこぼれてしまった。
思った以上にしょーもなかった。
私の優しさもここまでだ……もはや聞かなかったことにして、目の前の確率問題に取り組む。
ただ、ユリの方は興味津々の様子で机から乗り出す勢いでくいついていた。
「糸でコンパスできんの!?」
「簡単簡単。芯はないっつっても針は使えるから、そこに糸くくりつけて、反対の端っこに鉛筆くくりつけて」
「超原始的なコンパスじゃん」
「そういうこと。グラウンドの白線引きでやったことねー? ロープ持ってぐるぐるーって丸く引くの」
確かに、小学校の時とかにやったことあるかも。
あの頃は運動会と言えばいろいろ変な競技があったし。
それ用にグラウンドに色んな図形を描いたもんだ。
いや、変な競技って意味では今も大差ない気はするけど。
「でも、そんなしちめんどくさいことするなら、もうフリーハンドで良くない?」
「ところがどっこい! なんでかこう、数学の先生ってフリーハンドかどうか見抜く目を持ってんだよな……そしてフリーハンドは容赦なくバツを喰らう」
「わかるうー! あたしも単純にコンパス忘れてフリーハンドで書いたらダメだった!」
ユリが激しく同意していたけど、ごめん、私はその気持ちがよくわからん。
てか、テストで文房具忘れたことないし……というか忘れるのが怖いから、学校用と家庭学習用とふたつ準備していたし。
「道具を持たざる者は、その時点で点を失う……これは日本の格差社会の縮図だね」
「ユリ。たいそれたこと言ってる風で意味不明だから……結局、即席コンパスでごまかせたの?」
「三角だったわ……いっそバツにしてくれた方が清々しかったわ……」
乗り切った話じゃないんかい。
てかほんと、何の話題だったんだこれ。
アヤセは何やらしんみりした様子で、そっと目を伏せた。
「その時気づいたわけよ。私、テストって苦手だなって」
「大げさすぎる」
「いや、だから大学も推薦枠狙ったと言っても過言かもしれないけど、過言ではない! だから、落ちるのちょーこえーよおー! 共通テスト受けたくねーよおー!」
「情緒不安定かよ」
彼女は突然力説したかと思えば、泣き叫ぶように机に突っ伏す。
私はすっかりお見捨てモードになってしまっていたが、代わりにユリが「よしよし」とアヤセの頭を撫でた。
「まっ――」
「え?」
咄嗟にユリの手を掴んでしまった。
彼女が驚いた顔をするのと一緒に、何とも言い難い空気が流れる。
いつもなら「ちくしょう、アヤセそこ代われ」くらいに思って終わりなのに……あれ?
自分でも無意識のことで、言葉に詰まってしまう。
でも何も言わないのも余計に変だ……仕方なく、ユリの代わりに私がアヤセの頭を撫でてやる。
「なんだ? どうした? 確変入った? もしくはフェス?」
「謎の単語を並べないでよ。ユリは受験ヤバいんだから、手を止めないで勉強する」
「うう……はーい」
なんか、うまいこと躱せたような気がする。
どうしちゃったんだろ。
これも意識の変化ってやつ……?
アヤセの染めてちょっと痛みもある緩いくせ毛をゆっくりかき回しながら、小さなため息がひとつこぼれた。