アヤセがウチにやって来たのは、三時のおやつの時間を過ぎて、ひと心地ついたくらいの時だった。
どっか外で待ち合わせをしても良かったのだけど、彼女が家の手伝いで何時になるか分からないということだったので、終わり次第ウチに来てくれるということになった。
それなら逆にアヤセの家でいいじゃんとも思ったけど、それは全力で拒否されてしまった。
この間、和菓子がどうこうって話をしたばっかだし、ぜんざいか何か食べたかったのに。
「ほいこれ。店の余り」
とか思ったら、お土産にどら焼きやら大福やら、多少日持ちするお菓子の詰め合わせを持って来てくれた。
小言のひとつでも言いかけたところだったけど、今日のところはこれで手を打とう。
温かいお茶を淹れて私の部屋で机を囲む。
アヤセが食べ飽きてるから気にするなというので、私だけお茶請けにどら焼きを貰うことにした。
代わりにアヤセには冷蔵庫にあったチョコパイをひとつあげた。
「とりあえず、合格おめでとうでいいの?」
「昨日も言って貰ったけどな。おかげさまで、不祥事でも起こさなきゃ大学生になります」
熱い湯のみを寄せ合って、形だけ乾杯しておく。
もう二年したら、本当にお酒のグラスを交すようになっているのかな。
でも飲み屋で騒ぐよりは、喫煙所でダラダラくっちゃべってる方が容易に想像できるのはなんでだろう。
たぶん飲酒というものに対して、今ではそんなに憧れがないからかもしれない。
「一人暮らしになるんでしょ? 寮とかあるの?」
「寮もあるけど、二年経ったら出なきゃいけないらしいんだよな。引っ越しあるなら最初っからアパートでもって気はするけど、親は寮にしとけって言ってる」
ご両親の気持ちは分からないでもない。
何かあったらひとっ飛びって距離じゃないし、娘の独り暮らしともなればある程度管理の行き届いたところに住んで欲しいっていうのが本心だろう。
「兄貴が関西にいるから、何かあったら俺に任せとけって言ってくれてるみたいなんだけどな。おっかあ達ももちろんそのつもりでいるけど、それはそれとしてって感じだ」
「アヤセはアパート暮らしがいいの?」
「ぶっちゃけどっちでも良い。ほんと、三年目の引っ越しが面倒そうだなっていうくらい」
そう語る彼女は、本当に「どっちでも」っていう様子だった。
別に大学生活に先立つ不安があるわけじゃないんだね。
だったらどうして――
「そんじゃ、話って何だったの?」
ちょうどどら焼きを食べきったくらいのタイミングで、そう尋ねることにした。
するとアヤセは目に見えて取り乱して、すすりかけたお茶を吹き溢してしまいかけていた。
「わり、ちょっとこぼれたかも」
「お茶くらいなら乾けばいいけど……てか狼狽えすぎ。そんな変なこと話すつもりだったの?」
「内容自体は大したことないんだけどさ……」
そう歯切れの悪い返事をしながら、アヤセは胡坐をかいていた姿勢を正座に正す。
またそんなかしこまって。
見ているこっちの方が、そんな改まって話すようなことなのかと身構えてしまうじゃないか。
「先に言っとくけど、怒らないで聞いてくれよな」
「それは内容によるけど」
「ああ……じゃあ少なくとも私は、責めるとかそういうつもりで言ってるんじゃないって先に言っとくな」
「私これから責められんの?」
「だから、そーじゃねーって言ってるだろ!」
そうは言っても、完全に「私、何かやっちゃいました?」みたいな雰囲気じゃん。
心当たりが何もないし。
しいて言えば……クリコンに出るのを決めたこと?
やっぱりそんな事してる暇ねーだろって、友達として忠告してくれるつもり?
それに関しては、面と向かって言われたらちょっと考えてしまうかもしれないけど……でも、できる範囲でベストを尽くそうって考えは変わらない。
私が出場することが宍戸さんの枷になるから、繋ぎ止めておくためにも必要なことなんだ。
あとは……ううん……ダメだ。
ほんとに思い当たらない。
ここは彼女の言葉を待つしかない。
もうちょっと人に優しくしろとか?
私はかなり優しい人間だと思うけど。
「星ってさ……ユリと付き合ってたりする?」
「……は?」
今、自分がどんな声色で返事をしたのかよく分かんなかった。
上ずってた?
ドスが効いてた?
焦ってた?
怒ってた?
わかんない。
けど、頭の中身がぽーんと全て吹っ飛んでいたのと、アヤセが苦い表情で取り繕うように手を振っていたのだけが、疑いようのない事実だった。
「だから、責めるとかそういうんじゃねーんだってば! かといって偏見持ってるわけでもなくって! ほら、どの学年にも何組かあからさまなのがいるから、むしろ当たり前のことって言うか……いや、別にそういうことを話したいわけじゃねーんだけど!」
「じゃあ、どういう事を話したいわけ?」
「うーん……なんだ、その。もしそうなら、私も空気読んどいたほうがいいのかなって」
「空気読むってなに?」
「いや、なんか、ふたりの時間じゃましねーようにとか……そういう」
アヤセの言葉は、どんどんしどろもどろになっていった。
というより委縮してしまっているようだった。
いつもの厚顔無恥な感じはどうしたよ。
私を弄るのが生きがいみたいにしてたくせに。
「私とユリが付き合ってたら、アヤセは友達辞めるってこと?」
「そうは言ってねーけど……ほら、放課後の勉強会とか、私居ない方がいいんじゃねーのとか」
「それって企画したのも、アヤセや心炉のこと誘ったのも、全部私の考えなんだけど?」
「そりゃそうだけど」
「ふたりのこと嫌々誘ったって思ってるの?」
「そういうわけじゃねーよ」
「そういう事でしょ。邪魔してんじゃないかって思うってことはさ」
「違うんだって。私なりに……」
「違くない! そもそも、アヤセのこと邪魔者扱いしてたって思われた事の方が私は――」
話している途中で急に冷静になってしまった。
今、何の話をしていたんだっけ……?
ううん覚えてる。
覚えてるんだけど、自分じゃない誰かが私の声でしゃべっているような、そんな気持ちの悪い感覚に包まれていた。
実際に気持ちが悪い。
食べたばっかりのどら焼きが、胃の中でぐるぐるととぐろを巻いているかのようだった。
「ちょっと……」
アヤセの顔も見ずに――いや意図的に避けて立ち上がって、机の引き出しから薬を取り出す。
小箱に入ったシートから錠剤を剥き出すと、ぬるくなり始めたお茶で乱暴に飲み込んだ。
薬をお茶で飲むのは良くないって言われるけど、気にするような心の余裕がなかった。
「……ごめん。ちょっと今回、重くって」
「そ、そうか……お大事に」
半端なところで話が途切れてしまったせいか、部屋の空気は静かに、そして完全に冷え切ってしまっていた。
私が何か言うべきなんだろうけど思考が回らない。
言葉が出てこない。
そもそもアヤセの質問に何も答えてないし……たったひと言「それは違う」って言えばいいだけなのに。
でも、これから変えて行こうって思っている矢先に、未来を否定するような言葉を口にすることがどうしてもできなかった。
「その……体調悪いのに押し掛けて悪かったな。出直すわ」
「あ、まって……」
呼び止めようとした声は蚊の鳴くほどに小さくて、帰り支度を整えて立ち上がる彼女を止めるには至らなかった。
それから彼女を玄関先で送り出したのは覚えているのだけど、気が付いたら真っ暗な部屋のベッドの上で、何もすることができずに堪えるような呼吸ばかりを続けていた。
間違えた……間違えたんだよね。
自分を納得させるように頭の中で繰り返していたその言葉は、帰り際にアヤセが、彼女自身に向けてぽつりと呟いたひと言と同じだった。