カーテンの隙間から差し込むかすかな朝日を受けて、天使が笑っていた。
「おはよ」
「……おはよ」
眠たい目をこするふりをして、私は視線を逸らしながら身体を起こした。
朝っぱらから完全な不意打ちだ。
そう言えば昨日、ユリを誘って家に泊めたんだっけ。
ベッドの隣に敷いた布団の上で、スウェット姿のユリがスマホのゲームを弄っている。
デイリーとかいうやつを済ませてるんだろう。
彼女が着ているスウェットは、私の押し入れから引っ張り出して貸したものだった。
流石に、突発的なお泊りのために部屋着まで持って来させるような面倒はかけさせない。
というか、部屋着を詰めるスペースがあったら、その分勉強道具を詰めさせたかったしね。
「今日はお休みだけど何すんの?」
「勉強に決まってるでしょ」
「ええー、一日中? どっか遊び行こうよー」
「クリスマスまでは頑張る約束でしょ」
「ううー」
ユリは不満そうではあったけど、納得はしているようだった。
私の周りの人間は、約束はちゃんと守る。
むしろ、そう言う人を選別して付き合って来たと言ってもいいかもしれない。
いわゆる価値観が合うかどうかっていうのは、こういうところだと思う。
休日なのに珍しく早起きの母親が作ってくれた朝ごはんを食べて、その後一緒に食器を洗ったりあと片付けをする。
それからお茶の一杯くらい休憩を挟んで、受験生の本分を開始した。
流石に二ヶ月前に比べれば、ユリもひとりで黙々と作業する時間が増えてきた。
学校の勉強は基本的には基礎と応用だ。
基礎の部分を理解するのが一番大変で、それさえ出来てしまえば、あとはどの基礎を使って目の前の問題に立ち向かうのかという話になる。
同じ〝解けない〟にしても、九月時点だと「問題の意味が分からない」と言っていたユリも、今は一歩先に進んで「解き方が分からない」という段階に変わって来た。
他人事なのに、成長を実感できるっていうのはなんだか嬉しい。
少なくともウチの高校に進学できるだけの理解力はあるのだから、このまま気を緩めずに地道に積み重ねて行けば、地元の国立大学くらいは悠々射程圏に入って来るだろう。
もっと早く始めていたら、トップランクの大学にも挑戦してみるかどうかというところへ行けたかもしれないけど……彼女の高校生活は部活を頑張る三年間だったのだから、意味のないたられば話だ。
「午前中の勉強頑張れたら、お昼くらいはどこか食べ行こうか」
「うん、いくー!」
遊びに行くことはできないけど、それくらいなら大目に見ても良いと思う。
程よい気晴らしは必要だ。
私も、ユリも。
結局、気づいたらもう夕方になっていた。
勉強だけの一日っていうのは、何人で過ごしていようとあっという間に過ぎていく。
ただ、集中はできたと思う。
たぶん、ユリが目の前にいたから。
彼女が今何をしていてどんな表情をしているのかが、すぐそこで見えたから、余計な気を遣わなくて済んだのかもしれない。
「夕飯食べてく? それとも帰って明日に備える?」
週の途中の休みだったので、明日もまだ学校がある。
明後日からまた休みだけど。
ユリは珍しく考えこんだまま、動かなくなってしまった。
「そんな悩むくらいならご飯食べてったら?」
「うん……うん、そうだね」
歯切れの悪い返事。
別に、大した選択を迫ってるつもりはないのに、なんだか不安になってくる。
私はそれをごまかすように、冗談めかして笑った。
「なんなら今日も泊まってく? 一旦、制服とか取り行かなきゃだと思うけど」
するとユリは息を飲んで、穴が開くほど私の目を見つめた。
ちょっぴり憂いを帯びた潤んだ瞳。
その奥にある、捨てられた子犬みたいな、何かに縋りつきたいような感情の淀み。
唇が柔らかく、ゆっくりと言葉を刻む。
「……いいの?」
迂闊なことを言ったとは思ってない。
でも、油断していたと言えばその通りだ。
私は、ほとんど愛想笑いだった笑顔を引っこめてユリに向き合う。
「帰りたくないの?」
たぶんそれは、真っすぐに彼女の核心を突いていたのだと思う。
ユリは少しだけためらいながらも、小さく頷いた。
「家にね、誰もいないのが怖いの」
「怖い……?」
「このままひとりぼっちなんじゃないかって」
「そんな……」
大げさな、なんて他人事みたいな言葉は胸の奥に飲み込む。
「お父さん、帰って来るのは分かってるけど、でも、もしもって考えたら怖いの。家にひとりっきりだと、なおさら……」
ユリは不安を包み込むように、重ねた手をもじもじとすり合わせた。
そのまま気持ちもすりつぶしてしまうんじゃないかって気がして、私は解くようにその手を取る。
「大丈夫。私は一緒にいるから」
「星……」
「それも……約束したし」
いつまでも一緒に居てくれるよね——ユリは時おり、口癖みたいに言う。
居るよ。
居たい。
言われたからじゃなくって、私の素直な気持ちで。
すると、なんだか胸の中を覆っていた不安とか焦りみたいなのとかが、全部すーっと消えてなくなったような気がして、心が穏やかに落ち着ていくのが分かった。
今なら、素直になれる気がする。素直な気持ちで、自分の想いを——
「星ちゃーん!」
「はい!?」
突然、下階から母親が呼ぶ声が聞こえて、上ずった声がこぼれた。
「お姉ちゃんから電話ー! あんた、スマホで出なさよ!」
「階段のとこ置いといて!」
小さく咳ばらいをして、飛び出しかけた心臓をもとの位置に戻す。
今、すごく良いところだったのに……あいつ、なんで家電に掛けてんの?
姉に対する不満がメーター振り切って高まりかけたけど、そう言えばユリと過ごすからってスマホをサイレントモードにしてたの忘れてた。
ちらっと目にしたスマホの画面には、山のような通知がついていた。
「ごめん、ちょっと行ってくる。ついでに泊まって良いか聞いてくる」
「う、うん。ありがと」
ユリも気圧されてしまったみたいで、控えめに笑っていた。
手を放して階段に向かうと、家電の子機が保留状態で立てかけられている。
取り上げて耳に当てると、こっちのことなんてお構いなしなムカつく声が頭に響いた。
『ユリちゃん泊まりに来てるんだって? そういう面白イベントはちゃんとお姉さまに報告しなさいよ』
「やだよ」
情報源はたぶん親だろうな。
娘の初めてのひとり暮らしだからって、母親がちょくちょく姉と連絡を取っているのは知っている。
「この後に用事あるから、用がないならもう切るけど」
『用事って何さ?』
「え……? ええと……今日もユリが泊まれないか親に聞くんだけど」
『ふうん?』
「何……悪い?」
冷やかしのひとつでも覚悟したけど、変に取り繕うような余裕も今はなかった。
ユリを安心させるためにも、ことは一刻を争う。
たぶん親も二つ返事でOKはくれるだろうし、さっさと済ませて部屋に戻りたいんだ。
『ちょっと、お母さんに代わって?』
「は……? まあ、いいけど」
突然何を言いだすんだ。
まあ、どうせ行かなきゃいけないから、ついでで良いけれど。
リビングへ降りて母親に子機を渡すと、そのまま流れるように何やら相談を始めたようだった。
母親は「うん」だの「なるほど」だの相槌ばっかりで、何の話をしているのかさっぱり分からない。
けど、しばらくして話は済んだのか、子機がまた私のところに戻って来た。
「今度は何?」
『とりあえず、泊めてもらえるかどうかは自分で相談するんだよ。それより、お姉ちゃんの部屋まで行ってくれる?』
「なんなんだ、ほんとに……」
お使いゲームでもやらされてるような気分。
階段を登って姉の部屋へ向かう。
その途中、ユリが私の部屋から顔を覗かせていた。
「取り込み中?」
「いや、なんか姉が部屋に行けって」
ユリは分かったような分からないような曖昧な頷きを見せて、部屋の中に戻って行く。
それから私は姉の部屋へと入った。
扉を開ける時ちょっと乱暴になってしまったくらいは許して欲しいもんだ。
「来たけど」
姉の部屋は、夏休みが終わってから一切手付かずのまま変わっていない。
唯一、私が自分の部屋から避難させたブラックバードのケースがベッドの上に放り投げてあるだけ。
『うむ。そこに部屋があるじゃろ?』
「は? 何言ってんの?」
『部屋があるじゃろ?』
「その口調、ムカつくからやめて」
『すいません』
ちょっと強めに言ったら、姉は素直に謝って来た。
それから気を取り直すように咳ばらいをして、今度はいつもの声色で語る。
『どうせ空いてるんだし、つかっていいよ』
「何が?」
『ユリちゃん』
いい加減、話が進まなくてイライラしかけていたところで——ふっと、姉の言葉が腑に落ちてくる。
え……まって、そういうこと?
じゃあさっきお母さんと話してたのって、まさか——
「ちょっと……ユリのこと、どこまでお母さんに聞いてるの?」
『これは簡単な推理だよホームズ君』
いや、ホームズに推理を披露するお前は誰だよ。
ツッコミたい気持ちを押さえて、私は電話の先の姉に向き合う。
『泊まって良いどうか、どのくらいの期間にするのかは、星とユリちゃんで、それぞれの親と相談するんだよ』
「……わかった」
わかった。
理解した。
これはとてつもない大ごとだ。
でも、不謹慎かもしれないけど……ちょっぴりワクワクしている自分がいた。