「それじゃあ、今はユリちゃんと一緒に暮らしてるんだ」
キッチンでコーヒー豆を挽く天野さんに、私は静かに首を横に振った。
この場で焙煎してるわけでなければ、挽きたてのコーヒー豆はそれほど香りを発しない。
ウチでは豆から準備することはないので聞きかじった知識だけど、フライパンとかで少し炒ってから挽くと香りが立つらしいね。
「まだですよ。明日、本決まりすれば……っていう感じです」
「なるほどね。でも、楽しみだね」
「……はい」
ちょっぴり恥ずかしいような気持もありつつ、私は素直に頷いた。
彼女の言葉を真っすぐに受け止められるのは、彼女が私の気持ちを知っている人物だから。
思えば私の口から伝えずに、恋心の核心を突かれたのは、彼女が初めてのことかもしれない。
知り合いでこのことを知っているのはアヤセと宍戸さん、あと続先輩、そして姉くらい。
続先輩は、会長選挙の時の約束で必然的に教えるような形になってしまったし、その成り行きを知る姉も同じこと。
もっとも姉に関しては、もっと前から感づかれてるような節はあったけど……でも直接問いただされたりすることはなかったので、今や真相は闇の中だ。
天野さんに関しても、もともと恋愛相談をしたという前情報はあったけれど、じゃあその相手は誰なのかって言うところに関しては、完全に彼女のフィーリングによるものだ。
まあ……夏休み中、私とユリと天野さんで何度も合っていれば、言動の端々でそれっぽいサインを拾われてしかるべきなのかもしれない。
自分的には気を付けているつもりなんだけど……とかく恋愛下手なんだっていうことは、ここ最近で嫌というほど痛感した。
むしろユリにバレてないのが奇跡なんじゃないだろうか。
いや、まさかユリにも……ううん、それは怖いので考えないようにしよう。
そもそも、私の気持ちが彼女にバレていたとしたら、今みたいな関係は築けていないだろう。
それはそれで、全く興味を持たれてないみたいに感じられて、いくらか危機感を持つべきだけど。
「実家とは言え、ひとつ屋根の下でしょ? もうドキドキじゃない」
「それは……まあ。でもドキドキというよりはワクワクというか」
「同じことだよ。期待はしてるんだよね?」
「まあ……はい」
「いいねえ。青春だねえ」
天野さんは生暖かい笑みを浮かべながら、電動のドリップマシンに挽いたばかりの豆をセットした。
スイッチを入れるとマシンはすぐにコプコプと水槽の循環器みたいな音をたてはじめて、ほんのりと香ばしい香りが漂いはじめる。
コーヒーマシンいいな……一人暮らしで買って後悔するものとして良く名前が上がるけど、どちらかと言えばコーヒー党な私にとっては憧れのアイテムだ。
やがてマグカップなみなみのコーヒーを提供されたころには、憧れは「買おう」という決意に変わっていたような気がする。
「それで本題だけど、ブラックバードを預かるのは大丈夫だよ。知っての通り、今さらギター一本増えたところで変わらないような家だし……練習場所も、前みたいにウチを使ってくれるのも」
「ありがとうございます」
今日は、その話をしに来たんだ。
ユリがひと月くらいとは言えウチに住むのなら、借りたベースを狩谷家に置いておくわけにはいかない。
見つかれば絶対に問いただされるし、その時に上手い嘘をつく自信が私にはない。
だったら家の外に置くしかない。
選択肢は、夏休みもお世話になった天野さんのマンションに置かせてもらうか、琴平さんに頼んで放送室に置かせてもらうか。
後者のほうが取り回しは楽なんだけど……必然的に練習場所は学校になる。
そうなったとき、おそらく一緒に登校して一緒に下校することになるユリとの学校生活の中で、いつ時間を割けるというのか。
まだ天野さん家のほうが、プライベートな時間の中で無理して時間を作れると思う。
一緒に住んでいるからこそ、四六時中べったりってわけでもないだろうし……そうだったら、むしろ私の精神が持たない気がする。
ただ、練習は休日に限られるかな。
今までみたいに平日も僅かな時間を見つけて――というのは流石に無理だろう。
あわよくば、天野さんにレッスンをつけて貰いたいなっていう気持ちもあるけれど。
「そもそもユリちゃんに話すっていう選択肢はなかったのかな?」
マグカップを傾けながら、天野さんがもっともなことを言う。
だけどそれに関しては、私の中でハッキリと答えが出ている。
「ユリは地元の国立目指してて、今が一番大事な時なんです。成績も伸びて来てるみたいだし……今、勉強以外のことに意識を割かせたくないっていうか」
「ううん、なるほどねえ」
天野さんは、納得したようなしないような、曖昧な頷き方だった。
「私は、ユリちゃんはそう言うのも含めて、なんだかんだで自制できる子だと思うけどな」
「そうですか……?」
それは、なんか私の中のユリのイメージとは違う……気がする。
もちろんまるっきり自制できない愚か者ってわけじゃないけど、もっとこう他人をアテにしてるっていうか、手綱を握らせたがるっていうか……。
「ギターの練習の時も、『ここできるようになろうね』って課題を出すと、次の時までにはちゃんと仕上げて来るし。逆に、こういう表現どうかなみたいなのを考えて、あっちから聞かせてくれる時もあったし」
「そんなやり取りしてましたっけ?」
「音を聞けば分かるよ。あっ、今ここ悩んでるんだなとか、この部分を頑張ってみたから聞いてもらいたいんだなとか」
サッパリ分からなかった……けど、天野さんがそう言うならそうなんだろう。
でも、やっぱりちょっと私の知るユリとは重ならない。
そんな分かりにくいことしなくたって、もっとストレートに意見や感情を出す子だと思うんだけど……大人の女の人相手だから緊張してたのかな。
だとしたら、それに気づかなかった私の落ち度だ。
「なんていうか、狩谷さんってユリちゃんのお母さんみたいだね」
「よく言われます……」
「あ……ごめん、悪気はないんだよ。仲いいなっていう延長っていうか」
「大丈夫です。分かってます」
なんだか気を遣われてしまった。
確かに、今それを言われるのはちょっと心に来るので、いくらかテンションが下がってしまったような気はするけど。
天野さんは、仕切り直すようにコーヒーを口にする。
「受験の方が大事だよねっていう狩谷さんの考えは正しいと思う。将来に関わることだからね。その点に関しては私も同意見だよ」
そう言って彼女は、壁に掛けてあった裸のままの鍵を一本取って、私の前に差し出す。
「ここの鍵だから、練習したい時いつでも使って」
「鍵……って、良いんですか?」
「土日だと私も出勤の方が多いだろうし、わざわざ時間を合わせるよりは良いかなって思って」
「天野さんがそれで良いなら、ありがたいですけど……」
微妙に気がひけるけど、ここはお借りしておく。
こっちも悠長にしている時間はないし、利用させてもらえるものは何だってありがたい。
時間は着々と過ぎていく。
クリスマスだってもう、そう遠い未来の話じゃない。