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11月12日 裏打ち

 ほとんど一週間ぶりにベースに触れた。

 季節がすっかり秋から冬に変わろうとしている中で、そのボディはウッカリ触れたらびっくりしてしまうくらいに、キンキンに冷えてしまっていた。


「ああ、ごめんね。今、暖房付けるからね」


 天野さんは笑って、部屋の隅にあるストーブのスイッチを入れた。

 灯油のツンとした香りが部屋に広がる。

 電熱線やハロゲンのヒーターじゃ、東北の冬は乗り越えられない。

 エアコンの暖房も怪しい。

 床暖+エアコンならギリギリ。

 そうでなければ、灯油式のストーブか温風ヒーターは生活の必需品だ。


「密閉されてる部屋だから、一回暖めちゃえば快適なんだけど、逆に一回冷えちゃうととことん冷え切っちゃうからね。これ、ブランケット使って」

「ありがとうございます」


 受け取ったブランケットを足にかける。

 すると、天野さんが傍に身を屈めて、ブランケットの位置をお腹の上あたりに合わせてくれた。

 その上に、ブラックバードを乗せるように持たせてくれる。


「こうやって楽器の間に挟むと良いよ。服の上から保冷剤当て続けるようなもんだから、少しでも厚手にしないと身体が冷えちゃうからね」


 確かに、冷たさは全く感じない。

 その分、ちょと身動きが取りづらいけど、温かさと引き換えなら我慢できる範疇だ。


「それじゃあ、あんまり時間ないし始めようか」

「分かりました」


 鍵はお借りしてるとは言え、流石にノーアポ突撃はしない。

 事前に今日伺っていいか聞いておいたところ、仕事の前にちょっとだけならレッスンできるかも――というので甘えさせてもらうことにした。


 私は、チューナーで手早くチューニングを済ませると、さっそく楽譜の頭から順位弦をはじく。

 間が空いたこともあって、自分でも分かるくらいに不格好な演奏だった。

 でも、毎日少しずつでも繰り返しやっていた分、身体の方はちゃんと曲と弾き方を覚えている。

 もたついた序盤を除けば、だいぶそれっぽい形にはなったような気がする。


「今はこのくらいなんですが……」


 躓きつつも最後まで弾き終えて、お伺いを立てるように天野さんの表情を伺う。

 彼女は考え込むように短く唸った後、にっこりと笑みを浮かべた。


「思ったより酷くないかな?」

「酷いことは酷いんですね」


 それに関しては自覚があるので何も言うまい。

 天野さんは、腕組みをしながらもうひとつ唸り声をあげた。

 たぶん、何をどうアドバイスしようか悩んでいるんだろう。


「家で練習してた時、何かでテンポ取りしてた?」

「はい。スマホのメトロノームのアプリですけど」

「じゃあ、家でやってたみたいに弾いてくれる?」


 私は鞄からスマホを引っ張り出すと、いつも使っているアプリを立ち上げる。

 すぐに、カチカチという規則的なリズムが部屋に響き始める。


 私は身体を揺らしてメトロノームのリズムに拍を合わせる。

 それからいざ弾き始めようとした時、天野さんからストップの声がかかった。


「私が入りのサインを出すから、それに合わせてくれる?」

「はい」


 何か間違ったかな……?

 ちょっと心配になりつつ、今はメトロノームの流れに身体を預ける。

 天野さんも、刻まれるリズムに拍を合わせて、やがて指揮者みたいに指先でサインを飛ばした。


 私は指示通りに演奏に入る――けど、あれ、なんだこれ。

 すごく弾きにくい。

 というか、テンポずれてる……?


 慌てて修正しようとすると、天野さんが手を振って「そのまま」とサインを送ってくれた。

 そう言われたら仕方がない。

 歯に何か挟まったような、若干の気持ち悪さを保って、序盤のキリのいいところまでを引き終えた。


「……今の、すごく弾きにくかったです」

「うん、だろうね。でも狩谷さんはこれに慣れなくっちゃね」


 そう言って、天野さんは私の代わりにアプリを止めてくれた。


「ジャズのリズムって、基本的に裏打ちなんだ。『タン、ウン、タン、ウン』じゃなくて『ウン、タン、ウン、タン』」

「ウン、タン、ウン、タン……?」

「そ。だから、入りは『ウン』のところ。で、『タン』で他の人と呼吸を合わせるの。うーん、わかるかな?」

「まあ、なんとなくは」


 ええと……あれだ。

 裏打ちってやつ。

 女子高生がジャズを頑張る映画で、そんなことを言ってた気がする。

 このリズムに乗せれば、どんな曲でもジャズになるって。

 あれって、こういうことなのか。


「最初は気持ち悪さがあるかもしれないけど、慣れたらこっちの方がしっくりくるようになると思うよ。それこそ、みんなと合わせる時にはね」

「分かりました。身体に覚えさせます」


 と言っても、明日の合同練習までに間に合うだろうか……いや、間に合わせるしかない。

 今だって、気持ちは悪いけど引くことはできたんだし。

 私には土日しか練習する時間がないのだから、ここで集中するしかないんだ。


「今日は、何て言って出て来たの?」


 突然、天野さんがそんなことを訊ねる。


「えっ? ああ……美容院に行くって言ってきました。実際、この後に予約入れてますし」


 定期的に痛んだ毛先を切り揃えて、トリートメントをしてもらうだけの美容院通いだけど。

 ユリも暇つぶしについて来たがったけど、暇を潰すくらいなら受験の苦手を潰せと、たんまり宿題を置いてきた。

 まあ、それだけでは流石に聞き分けが無かったので、昼過ぎに街で合流してお茶と買い物くらいしようって事になっているけど。


「それじゃあ、毎回は使えないでしょう。次からどうするの? それこそ明日のスタジオとか」

「明日は、ユリの方に用事があるので大丈夫です。お見舞いがてら、週一回くらいは家の掃除とかしたいって言ってたので」


 退院した時に埃をかぶった家に帰るのは嫌だってことで、こまめに掃除をしておきたいのだと言う。

 あと、週に一回くらいは仏壇に挨拶しなきゃ、お母さんも寂しいだろうし――ということだ。

 そんな事言われたら、私としたら「行っておいで」と見送るしかないし、今の状況を思えばとてもありがたいことでもあった。


「週一回は、そのタイミングを使って何とかなると思います。それ以外の時は……まあ、頑張ります」


 要するに、ひとりで出かける理由があれば良いのだけれど。

 こんなことなら、土日だけでも塾に通っておけばよかったかな。

 私が通わなくていいって決めたんだし、今さらそのために通うなんていう手のひら返しはしないけど。


「分かった。無理はしないでね。私もできる限り協力するから」

「ありがとうございます。なんていうか……ほんと、いろいろ、ありがとうございます」


 なんだか、この夏から天野さんには、本当に甘えっぱなしだ。

 いつだかユリに言われた「甘えんぼ」という言葉も、こうなっては面と向かって否定もできないな。


 二重生活ならぬ、裏打ちみたいな生活……正直、あんまり自信はない。

 こうなってしまった以上、やっぱり話してしまった方が早いのかな……?

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