音もなく、また一週間が始まる。
いや、一週間が始まる音って何だって話だけど。
強いて言うなら、朝のホームルームを告げるチャイムの音だろう。
「おはようございます」
教壇に立つ教師に合わせて、起立から声を揃えた朝の挨拶を口にする。
担任が同様に「おはようございます」と返した後がそのまま着席の合図だ。
「今日は、取り立てて連絡事項はありません……が」
担任は勿体付けるように言葉を溜めて、黒板の隅にある今日の日付に視線を向ける。
「大学入試の共通テストまで、ちょうど二ヶ月となりました。とっくに追い込みの時期に入っていると言って良いでしょう」
忘れてない。
でも忘れたい話題に、教室のあちこちからうめき声が聞こえる。
「受験勉強は、がむしゃらにすれば良いというものではありません。目標とする大学、その点数に足りているかどうか。足りるためにどの教科が伸びしろがあるのか。逆に、どの教科はこれ以上点数を下げるわけにはいかないのか。ある程度の千里略を持って挑むことも必要だと思います。学問としての教鞭を振うはずの教師が口にしていい言葉ではないと、常々思いますが」
「先生のそう言うとこ大好きー」
どこかから棒読みの野次が飛んで、クラスに失笑が溢れた。
担任も薄く笑みを浮かべて、自嘲気味に「ありがとうございます」と返した。
「来週には全国模試の結果も返ってきます。一喜一憂するなとは言いません。ですが、あと二ヶ月の間、どれだけ頑張らなければならないのかを、冷静な目で判断するようにしてください。私からは以上です」
そう締めくくり、朝のホームルームは終了した。
一限目はこのまま教室での授業なので、部屋の中は一気に休み時間のだらけ切った感じに切り替わる。
同時に、頭上を大きな影が遮った。
「おう狩谷。ちょっと面貸せよ」
雲類鷲さんだった。
制服の上から羽織ったカーディガンのポケットに手を突っ込んだままの彼女は、不躾に顎で廊下を指す。
「……カツアゲ?」
「ちげーし!」
まあ、そんなこと分かってるけど。
変に断ってもめんどくさそうなので、私は言われるがまま彼女について教室を後にする。
「お前、昨日、白羽に会ったろ?」
廊下に出るなり、雲類鷲さんはそんなことを訊ねてくる。
それは、どういう意図の質問なんだろう?
計りかねているけど、とりあえず素直に頷いておく。
「会ったけど」
「どんなんだった?」
ますます質問の意図が分からない。
というか、大雑把すぎる。
「どんなんって……いつものスワンちゃんって感じだったけど」
「なんか話したか?」
「いや、別に……演奏のことならこっぴどく言われたけど」
あれ、そう言えば雲類鷲さんってどこまで知ってるんだろう。
琴平さんが知ってるなら、彼女もクリコンのことを聞いてるのかな……?
いくらか心配になったけど、特に練習のことについて突っ込んでくる様子はなかったので、その考えで間違ってないんだろうなって思うことにした。
「うーん、そうか」
「なんなのいったい」
いい加減にじれったくて、今度はこっちから聞き返す。
すると雲類鷲さんは顔をしかめながら、とっくに水泳部を辞めたはずなのに色素が薄いままの髪をかき上げた。
「あいつ、塾辞めたらしいんだよな」
「塾……って、夏に行ったあそこか」
「そ。昨日、講義の日だったのに来ねーから連絡してみたら『今日から辞めた』って言いやがんの」
「そうなんだ」
としか、私には返すことができない。
私だって今聞いたばっかりだし。
「まー、あいつ成績良かったし、共通テストもそんなにガチらなくて良いハズだから心配はしてねーけど。でも、いきなりだったから、何か聞いてっかなって」
「いや、特には……てか、なんで私に聞くの?」
「あたしと佳織以外なら、お前くらいしか思い当たらなかったから」
そんな、保護者みたいな扱いされても……というか、保護者って言うならむしろそっちふたりのことでしょ。
雲類鷲さん達が知らないことを、私が知ってるわけがないじゃないか。
「藝大? 音大? って実技の方が比重が大きいらしいし、そっちに集中するようにシフトしたんじゃないの? あんまり気にしなくて良いと思うよ」
「それはその通りなんだけどよ」
雲類鷲さんは、歯切れの悪い様子で言葉を詰まらせる。
「吹部を引退してから最近、落ち込むならまだいいんだけど、逆にやる気に満ち溢れてるみたいで。そもそもやる気に満ちてるっていうのが異常で……まあ、そう言う感じだ」
途中まで説明しようとして、彼女が解釈を私に投げたのがありありと伝わった。
まあ、伝えたいことは何となく分かるけどさ。
「とりあえず、私が見る限り変な様子はなかったけど……何かあったら伝えるよ」
「ああ、そうしてくれ。あとコンサートは聞きに行くからな」
「それ、琴平さんにも聞いた」
雲類鷲さんは「そうか」と笑って、先に教室に戻って行った。
私もちょっと遅れて席に戻ると、隣の席で心炉が怪訝な表情を浮かべていた。
「最近、どこに行っても人気者ですね」
「サインでも考えておこうかな」
そう適当に返しておいてから、私はちょっとだけ考えて、心炉にも須和さんのことを聞いておくことにした。
「昨日の須和さんってさ、別にいつも通りだったよね?」
「はい?」
予想だにしてなかった質問だったのか、心炉はあっけにとられたように聞き返して、それから黙って明後日の方向を見上げた。
「……いえ、そもそも違いが分かるほど普段の彼女のこと知りませんし」
「まあ、そうか」
文系と理系でクラスが交わることも無ければ、部活だって違う。
私も宍戸さんの件が無かったら、「吹奏楽部にいるなんか演奏が上手い子」程度の認識で名前すら知らなかっただろう。
「しいて言えば、風の噂に聞いたほど怖くなかったですね」
「風の噂?」
「吹奏楽部じゃ、めちゃくちゃ厳しかったそうじゃないですか」
「ああ……」
それは私も知っている。
というか、彼女本人からそんなふうな話を聞いた。
怖いか怖くないかって言うよりは、空気を読めるようになったってことじゃないのかな……昨日の様子を見ていたら、そう思ったけれど。
そして、良いか悪いかで言えば、きっと人間的に良い変化なのではなかろうか。
少なくとも私はそう思うけど。