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11月17日 時間の使い方

 校舎を歩いていたら、不意に廊下の向こうから金管楽器の演奏が聞こえて来た。

 演奏というにはメロディも何もない、音階の練習くらいのものだったけど。

 これは、どの楽器かな……流石に、聞き分けるだけの耳はまだ持ち合わせていない。


 それにしても、お昼休みだというのにずいぶんやる気のある生徒がいるもんだ。

 吹奏楽部って大会近いんだっけ……?


 そんなことを思っていたら、いつの間にか音の元へとたどり着いてた。


「あれ……」


 目の前の光景を目にして、戸惑いが口からこぼれる。

 空き教室の一角で、楽器を構える穂波ちゃんと宍戸さん、そしてそのコーチをする須和さんの姿があった。


「あ、星先輩」


 穂波ちゃんが目ざとく私の姿を見つけて、ぺこりとお辞儀をする。

 流石に通り過ぎるのもどうかと思い、私は教室に足を踏み入れた。


「珍しいじゃん。いつもの練習室はどうしたの」

「なんだか、今日は使えなかったらしくって」


 穂波ちゃんが答えてくれて、私は確認するように須和さんを見る。

 須和さんは相変わらずの無表情のまま、無言で頷き返してくれた。


「う、うるさかったですか……?」


 宍戸さんがおずおずと尋ねる。私はうっすら笑顔を浮かべながら、首を横に振った。


「学校の中じゃ環境音だよ」


 放課後になれば、当たり前のようにそこら中から吹奏楽部の練習の音が聞こえる。

 音楽室も練習室もスペースに限りがあるわけだから、パート練習なんかはその辺の普通の教室でやっていることが多い。

 当然、その辺の教室が防音になっているわけがないので、校舎中に音はだだ漏れだ。

 それを環境音だって思えるのは、学校という環境の不思議なところだと思う。

 校門をくぐれば、そこはひとつの世界であって、ある意味で治外法権。

 これが住宅街のど真ん中なら間違いなく騒音案件だ。


「ふたりとも楽器は馴染んだ?」

「そうですね。細かいスキルは全然ですが、とりあえず音を出すだけなら」


 そう言って穂波ちゃんは、「ド、レ、ミ、ファー」とスライド管を滑らせて、音階を奏でる。さっき聞いたのはこれか。

 トランペットほど高くはない、いくらか落ち着きのある音色。


「宍戸さんも順調そうだね」

「そう……ですね。須和先輩が厳しくしてくれてるので……」


 宍戸さんは、おっかなびっくり表情を伺うように、須和さんのことをチラ見する。

 視線を向けられた本人は、小さく息を吐いて静かに目蓋を閉じた。


「基本はできているから、より高度なことを要求しているだけ」

「それを、一般的には厳しいって言うんじゃないかな……?」


 須和さんの場合、その「高度」のランクがより高そうだし。

 妥協も許してくれなさそうだし。

 というか、一貫して宍戸さんには特に厳しいような気がする。

 自分が得意とする、トランペットパートを任せているせいもあるんだろうけど。


「あんまり無理させないでよ。宍戸さんにとってはリハビリみたいなものなんだから」

「そ、それは大丈夫……です!」


 驚いたことに、私のフォローを否定したのは宍戸さん自身だった。


「須和先輩、当たり前のことしか言ってないので……私も自分でできてないの分かってるので……その、納得してます」

「そ、そう……なら良いんだけど」


 この感じ、久しぶりだな。

 宍戸さんも普段はあんななのに、演奏に関してはストイックで、それが当然ですみたいな感じで厳しい練習を受け入れている。

 そういう環境で育ってきた人にしか分からない、常識みたいなものがそこにある。


 そう言う意味だと、穂波ちゃんとかユリとかも同じ。朝練をして、放課後も練習して、大会前は土日もまるっとつぶして。

 それがすごいかどうかじゃなくって、それぞれの日常があるって話だ。


「狩谷さんは」

「え?」

「昼練」


 ううん……須和さんの提案に、思わず黙り込んでしまう。

 した方がいいのは確かなんだろうけど、環境がなあ。

 学校での練習と、天野家での練習は、物理的に両立ができない。どちらかを選べと言われたら……私としては天野家の方が都合がいい。


「あと一ヶ月あるし、こっちはこっちで何とかするよ」

「そう」


 須和さんは強く薦めることはせず、それであっさり引き下がった。

 やっぱり、気を遣われてる……?


 それが信頼されているからなのか、ハナから期待されてないからなのか。

 前者であって欲しいなとは思うけど。


 それから適当な席に座って、昼休みの終わりまで練習を眺めていた。

 ふたりが吹いて、須和さんが気になったところを指摘する。

 彼女のコーチはとても端的だ。

 どこがダメで、どうするべきかを、短い言葉でズバズバと語る。

 これは確かに……須和さんの人となりを良く知らない人からしたら、無慈悲で冷たいようにも感じてしまうのかも。


 ぼんやりと、週の頭に雲類鷲さんに言われたことが頭の片隅をかすめていった。

 別に、いつも通りの須和さんだと思うけどな……それをひと目で判断できるほど、私も彼女との付き合いが長くはない。


 以前、病院に連れて行ってくれた時は、なんだかいつもの彼女とは違うなと思ったけど……やっぱりあれも、良い変化じゃないかって私なら思う。

 他人を理解しようとする。

 逆に自分を理解してもらおうとする。

 それを悪いことだっていう人が、果たしているだろうか。


「須和さん、塾辞めたって聞いたけど」


 だけど、それだけは聞いておくことにした。


「必要なくなったから」


 相変わらずの調子で彼女は答える。


「実技の方が配点高いんだっけ……?」

「それもある」

「〝も〟……?」


 微妙な引っかかりを覚えて、ついつい聞き返してしまった。

 彼女はわざわざ突っ込まれるとは思っていなかったのか、落胆したように小さく息をつく。


「時間の使い方を選んだ」

「はあ」

「それだけ」


 それで話を打ち切って、彼女は教室を出る支度をはじめる。

 時間の使い方を選んだ――ようは、他のことのために塾は辞めたってことか。

 それってたぶん……というか間違いなく、〝これ〟のことだよねと、楽器をケースに仕舞い始めた面々を見ながら思う。


 もしかして、負担になってるのかな……でも手伝いたいって言ってくれたのは彼女の方からだし。

 仮にそうだとして、時間を天秤にかけるのなら、私が須和さんだとしても確かに塾を切る。

 だって彼女は既に学年上位の成績の持ち主ではあるけれど、目指す先の大学は、それをあまり重視しないのだから。

 必要十分を満たしているというやつだ。


 あまり、気にしない方が良いのかな――と、目の前の彼女の姿を見る限りは、そう思う事しか今はできなかった。

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