校舎を歩いていたら、不意に廊下の向こうから金管楽器の演奏が聞こえて来た。
演奏というにはメロディも何もない、音階の練習くらいのものだったけど。
これは、どの楽器かな……流石に、聞き分けるだけの耳はまだ持ち合わせていない。
それにしても、お昼休みだというのにずいぶんやる気のある生徒がいるもんだ。
吹奏楽部って大会近いんだっけ……?
そんなことを思っていたら、いつの間にか音の元へとたどり着いてた。
「あれ……」
目の前の光景を目にして、戸惑いが口からこぼれる。
空き教室の一角で、楽器を構える穂波ちゃんと宍戸さん、そしてそのコーチをする須和さんの姿があった。
「あ、星先輩」
穂波ちゃんが目ざとく私の姿を見つけて、ぺこりとお辞儀をする。
流石に通り過ぎるのもどうかと思い、私は教室に足を踏み入れた。
「珍しいじゃん。いつもの練習室はどうしたの」
「なんだか、今日は使えなかったらしくって」
穂波ちゃんが答えてくれて、私は確認するように須和さんを見る。
須和さんは相変わらずの無表情のまま、無言で頷き返してくれた。
「う、うるさかったですか……?」
宍戸さんがおずおずと尋ねる。私はうっすら笑顔を浮かべながら、首を横に振った。
「学校の中じゃ環境音だよ」
放課後になれば、当たり前のようにそこら中から吹奏楽部の練習の音が聞こえる。
音楽室も練習室もスペースに限りがあるわけだから、パート練習なんかはその辺の普通の教室でやっていることが多い。
当然、その辺の教室が防音になっているわけがないので、校舎中に音はだだ漏れだ。
それを環境音だって思えるのは、学校という環境の不思議なところだと思う。
校門をくぐれば、そこはひとつの世界であって、ある意味で治外法権。
これが住宅街のど真ん中なら間違いなく騒音案件だ。
「ふたりとも楽器は馴染んだ?」
「そうですね。細かいスキルは全然ですが、とりあえず音を出すだけなら」
そう言って穂波ちゃんは、「ド、レ、ミ、ファー」とスライド管を滑らせて、音階を奏でる。さっき聞いたのはこれか。
トランペットほど高くはない、いくらか落ち着きのある音色。
「宍戸さんも順調そうだね」
「そう……ですね。須和先輩が厳しくしてくれてるので……」
宍戸さんは、おっかなびっくり表情を伺うように、須和さんのことをチラ見する。
視線を向けられた本人は、小さく息を吐いて静かに目蓋を閉じた。
「基本はできているから、より高度なことを要求しているだけ」
「それを、一般的には厳しいって言うんじゃないかな……?」
須和さんの場合、その「高度」のランクがより高そうだし。
妥協も許してくれなさそうだし。
というか、一貫して宍戸さんには特に厳しいような気がする。
自分が得意とする、トランペットパートを任せているせいもあるんだろうけど。
「あんまり無理させないでよ。宍戸さんにとってはリハビリみたいなものなんだから」
「そ、それは大丈夫……です!」
驚いたことに、私のフォローを否定したのは宍戸さん自身だった。
「須和先輩、当たり前のことしか言ってないので……私も自分でできてないの分かってるので……その、納得してます」
「そ、そう……なら良いんだけど」
この感じ、久しぶりだな。
宍戸さんも普段はあんななのに、演奏に関してはストイックで、それが当然ですみたいな感じで厳しい練習を受け入れている。
そういう環境で育ってきた人にしか分からない、常識みたいなものがそこにある。
そう言う意味だと、穂波ちゃんとかユリとかも同じ。朝練をして、放課後も練習して、大会前は土日もまるっとつぶして。
それがすごいかどうかじゃなくって、それぞれの日常があるって話だ。
「狩谷さんは」
「え?」
「昼練」
ううん……須和さんの提案に、思わず黙り込んでしまう。
した方がいいのは確かなんだろうけど、環境がなあ。
学校での練習と、天野家での練習は、物理的に両立ができない。どちらかを選べと言われたら……私としては天野家の方が都合がいい。
「あと一ヶ月あるし、こっちはこっちで何とかするよ」
「そう」
須和さんは強く薦めることはせず、それであっさり引き下がった。
やっぱり、気を遣われてる……?
それが信頼されているからなのか、ハナから期待されてないからなのか。
前者であって欲しいなとは思うけど。
それから適当な席に座って、昼休みの終わりまで練習を眺めていた。
ふたりが吹いて、須和さんが気になったところを指摘する。
彼女のコーチはとても端的だ。
どこがダメで、どうするべきかを、短い言葉でズバズバと語る。
これは確かに……須和さんの人となりを良く知らない人からしたら、無慈悲で冷たいようにも感じてしまうのかも。
ぼんやりと、週の頭に雲類鷲さんに言われたことが頭の片隅をかすめていった。
別に、いつも通りの須和さんだと思うけどな……それをひと目で判断できるほど、私も彼女との付き合いが長くはない。
以前、病院に連れて行ってくれた時は、なんだかいつもの彼女とは違うなと思ったけど……やっぱりあれも、良い変化じゃないかって私なら思う。
他人を理解しようとする。
逆に自分を理解してもらおうとする。
それを悪いことだっていう人が、果たしているだろうか。
「須和さん、塾辞めたって聞いたけど」
だけど、それだけは聞いておくことにした。
「必要なくなったから」
相変わらずの調子で彼女は答える。
「実技の方が配点高いんだっけ……?」
「それもある」
「〝も〟……?」
微妙な引っかかりを覚えて、ついつい聞き返してしまった。
彼女はわざわざ突っ込まれるとは思っていなかったのか、落胆したように小さく息をつく。
「時間の使い方を選んだ」
「はあ」
「それだけ」
それで話を打ち切って、彼女は教室を出る支度をはじめる。
時間の使い方を選んだ――ようは、他のことのために塾は辞めたってことか。
それってたぶん……というか間違いなく、〝これ〟のことだよねと、楽器をケースに仕舞い始めた面々を見ながら思う。
もしかして、負担になってるのかな……でも手伝いたいって言ってくれたのは彼女の方からだし。
仮にそうだとして、時間を天秤にかけるのなら、私が須和さんだとしても確かに塾を切る。
だって彼女は既に学年上位の成績の持ち主ではあるけれど、目指す先の大学は、それをあまり重視しないのだから。
必要十分を満たしているというやつだ。
あまり、気にしない方が良いのかな――と、目の前の彼女の姿を見る限りは、そう思う事しか今はできなかった。