「今日が何の日か、分かる人はいますか?」
朝のホームルームで、担任の女教諭が開口一番そんなことを口にした。
教室のあちこちから「え-」だの「わからん」だの戸惑いの声がこぼれる中で、いくつかそれらしい答えがあがる。
「先生の誕生日!」
「三月の暮れです。残念ながらみなさんが卒業してからですね」
「先生の結婚記念日!」
「独身です」
「じゃあ先生のペットの誕生日!」
「そろそろ先生の話題から離れませんか?」
いい加減に釘を刺されて、クラスメイト達は一様に押し黙ってしまった。
「さっきの答えにヒントがあったのですが……」
担任は小さく息をついてから、クラスをざっと見渡すように視線を巡らせる。
「今日で、みなさんの卒業まであと百日となりました。高校生活が残り百日……と言い換えても良いかもしれませんね」
その言葉にクラスがどよめく。
たいていは「まじかー」なんていう、しみじみとした感嘆のどよめきだ。
「百日間。長い、短い、人によって感じ方は様々だと思いますが、漫然としたままでも時間は不可逆に流れていきます。今こうして話をしている間にも着実に」
「先生ー。怖いこと言わないでくださーい」
誰かの投げやりな反応に、担任は小さく鼻先で笑うと、出席簿を閉じて小脇に抱える。
「受験も大切ですが、残りの時間を悔いなく過ごしましょうという話です。在学中にやっておきたいことがある人は、自由登校期間の使い方などを考えておくと良いでしょう。ホームルームは以上です」
それだけ言い残して、彼女は教室を去っていった。
やらなければならないことはいろいろあるけれど、やり残したことか……何かあるかな。
最近何かと忙しい毎日だけど、そのほとんどは学校の外での話だ。
在学中――高校生のうちにしかできないこと。
すぐには思いつかないってことは、私は案外、学校生活というものをやりつくしているのかもしれない。
そもそも、やりたいことリストの項目が少ないせいもあるのだろうけど。
放課後になって、今日も勉強会が開かれる。
月曜日なので、今日は心炉も参加できる日。
土日はずっとこの四人で過ごしていたので、今日という日に限っては、なんだか「改めて集まりました」って言うような浮ついた空気に包まれていた。
浮ついているのにはもうひとつ理由があって、アヤセを除く三人は、机の上にペラ紙一枚を裏にして置いていた。
「いくよ? せーの……!」
ユリの掛け声で、一斉に紙をめくる。
表面に印字されていたのは、先月行われた全国模試の成績だった。
「C! やった、Dじゃない!」
ユリが印字された文字を見て、もろ手を上げて喜んだ。
「いや、それは喜んでいいのか?」
「喜んで良いんだよー! 夏の校内模試は散々だったもん!」
苦い顔をするアヤセに、ユリは満面の笑みで答える。
私もぶっちゃけアヤセと同意見だけど……でも、伸びてるのは確かだ。
この模試は一ヶ月前のユリの学力状況だ。
伸びしろしかないユリは、あれからさらに力をつけているはずだし……今ならもっといい結果を出せているかもしれない。
それは、全国津々浦々の受験生たちにも言えることだけど、実際にユリが伸び盛りなのは確かなことなので、全くの希望的観測ってほどでもないだろう。
「期末テストで学年の真ん中より前にいることができたら、B判定くらいに捉えて良いと思うよ」
ユリが目指す地元の国立大学は、おおむねウチの高校における平均レベルの難易度だ。
実際のところ、毎年大半の生徒がそこか、同じくらいのランクの他県の大学に合格している。
だから超大雑把な見積もりだけど、学年順位の平均を越してるかどうかは、ある程度の目安にして良いはずだ。
「真ん中かあ……根拠はないけど頑張れる気はするよ!」
「根拠のない自信で結構。こっちだって、勉強会の成果を見せてもらわなきゃ」」 じゃなきゃ、ただ放課後を適当に――今朝の担任の言葉を借りれば、漫然と過ごしていただけということになってしまう。私だってこうやって勉強会に参加している以上は、みんなに結果を出して貰いたい。
「そういう星は……わー! やっぱりAだ! すごいねえ」
私の結果を覗き込んで、ユリは目を丸くする。
「安堵はしたけど油断はできないってところかな……ギリギリ引っかかってるだけっぽい感じがするし、体感ではほとんどB判定」
なんていうか、ガッツリとした手ごたえみたいなのが感じられなかった。
基本問題はしっかり点を取って、応用問題もそつなくこなして、ふるいにかける用の高難易度問題はぼちぼちという感じ。
穿った見方をすれば、出題者の意図通りの点数を取らされたという印象だ。
目指す大学の難易度を考えたら、それをねじ伏せて高得点を取れなければ、安定した合格ラインに乗った気分になることはできない。
ユリと私の結果を確認したところで最後は心炉だ。
私はそっと、彼女の成績表に視線を落とす。
「え……B……?」
一瞬、目を疑った。
心炉がB……?
あれ、これまでずっと余裕のAじゃなかったっけ……?
もちろん難関大のひとつではあるけれど、私と競り合うような彼女の学力なら、安全圏をキープしているはずなのに。
戸惑う私を他所に、心炉はどこか余裕――というか結果に納得した様子で、小さく息を吐いた。
「星さんがギリギリ引っかかっているだけなら、その一歩後ろを行く私はこうなりますよね」
「は……もしかして心炉」
「試しに星さんと同じ大学を第一志望に出してみたんです」
なるほど……そういうことね。
体調でも悪かったのかと本気で心配しかけたけど、よくよく見れば第二志望以下にいつもの大学の名前が並んでいて、そっちはどれもA判定を獲得していた。
「心炉ちゃん、星と同じ大学受けるの?」
ユリの質問に、心炉は静かに首を横に振る。
「家庭教師の方の勧めもあって受けただけですよ。実際の志望校は変わりません。でも……」
心炉は、自分の成績表に目を落としてしばし考え込む。
「B……なら、挑戦してみるのもありかもしれませんね」
「マジ?」
その言葉に、この場で一番驚いたのはたぶん私だ。
石橋を叩いて渡る彼女の性格からしたら、その挑戦はかなりの思い切りを要するものじゃないだろうか。
「警察官を目指すにしろ、弁護士を目指すにしろ、キャリアを考えたら箔がつくのは間違いありませんし」
「もちろん、そうだろうけど」
「まあ……あくまで候補のひとつですよ。それとも、私が受けるのは嫌ですか?」
「そんなことは……心炉の進路だもん。決めるのは心炉だからね」
私がとやかく口を出せる立場じゃない。
彼女が受けると言うのなら、私は「一緒に頑張ろう」って言うだけのことだ。
「うう……ふたりが私の追いつけない高みに行ってるよ」
ユリが、眩しそうに顔をしかめて目元を手で覆う。
そんな彼女の肩を、アヤセが優しく叩いた。
「C判定は地に足付けて頑張ろうな」
「くうう……推薦合格の余裕が今は憎いよ……」
ユリの思ってもいないような軽口の恨み言は、放課後の部活の喧騒の中に溶けて消えて行った。