「明日、お父さんとこ行ってくるね」
夜、部屋で一緒に勉強をしていたら、ユリがそんなことを口にした。
「そう。分かった」
私は、特に深く考えることもなく返事をした。
明日は週中の祝日だから、お見舞いに行くって言うのは特に不自然なことじゃない。
連休でもなければ特に予定も立てていないし、ひとりの時間が作れるならベースの練習もできる。
「これからのスケジュールをいろいろ相談するんだって」
「スケジュール?」
「うん。退院の日取りとかリハビリの日程とか」
その言葉に、シャーペンを握る手がはたと止まった。
けど、すぐに何事も無かったかのように手を動かす。
「退院できそうなんだ。良かった」
「うーん。たぶん。あたし、まだ詳しいこと聞いてないから。とりあえず今は相談で、すぐ退院ってわけじゃないみたいだけど」
「退院したら自宅療養?」
「たぶんそうなるかな? 最初のころ、休めるなら年内は無理しないでくださいってお医者さんも言ってたし」
「そう……とにかく良かったね」
良かったねって気持ちは本当だけど、同時に漠然とした喪失感も覚えていた。
そっか。
もう退院なんだね。
だったら、このユリの居候も、そう長く続く話じゃない。
「そしたら、ユリも家に帰んなきゃだね」
口にしてしまった方が、覚悟ができて楽になるような気がした。
するとユリは「「うー」と小さく唸る。
「これはこれで、毎日合宿みたいで楽しかったんだけどなあ」
「合宿なんて、チア部で嫌ってほどやったでしょ」
「嫌って思ったこと一度もないよ!」
彼女はドヤ顔で胸を張った。
そうだった。
こいつはホントに好きでやってたんだった。
基本的に、誰かに時間を左右されるのって好きじゃないから、私は部活の合宿とか嫌いでしかなかったけど……。
でもその、合宿気分っていうのが、少しだけ寂しくも感じられた。
なんとなく、もう家族の一員みたいに感じていたけど、半月そこらじゃ普通はそうだよね。
合宿――普段は一緒に暮してない者同士、一時的に共同生活をしているだけ。
裏を返せば、それを越えて赤の他人同士が家族になるって、ものすごく難しい。
見た目は家族みたいに取り繕うことができても、心の底からそうなるには。
「ユリって、将来的にもずっと実家にいるつもりなの?」
口にしてから、ちょっと意地悪な質問だったなって思った。
将来のことなんて誰にも――自分にも分からない。
こうしたいって言うのは単なる希望であって、実際にできるかは別の話だ。
「うーん……わかんない」
けれどユリは、特に答えづらそうにするわけでもなく、ただ素直にそう答えた。
「絶対に居たいって気持ちがあるわけではないんだよね。でもお父さんひとりにするのは不安っていうか、寂しそうだから、少なくともちょくちょく顔出せるところには居たいな――とか」
ユリが出て行ったら父親はひとりになる。
それが彼女にとってのネックになっているのは、私も理解はしている。
「ユリ自身は、県外に行ってみたいとか思わないの? それこそ、例えば……お父さんのこと抜きにして考えたら」
それも意地悪な質問だったかな。
けれども、実際のところどう思ってるんだろうっていうのは、聞こうと思っても聞けなかった。
これまでは、もう一歩を踏み出すのが怖いし、無意味なことだと思っていたから。
でも今は違う。
私はユリを支える存在になりたいのだから……もっと踏み込んでいかなきゃって思えている。
私の問いかけに、流石の彼女も少しだけ考え込むように虚空を見つめた。
それから少しして、ニヘラと緩んだ笑みを浮かべる。
どことなく、寂しそうな笑顔だった。
「全然、想像つかなかった。やっぱ、わかんないや」
「そこ、考えてみようよ。例えば……全然、実現できそうにないことでも良いから、夢とかないの?」
「夢っていうか、妄想ならいくらでもあるよ!」
ユリの声が元気に弾む。
「またバンド組んで、メジャーデビューから全国ツアー、武道館ライブとかまでしてみたり……女優とかになって、ドレスでレッドカーペットも歩いてみたいよね。それからアラブで石油を当てて、パジェロでラクダレース追いかけてみたりとか……あ、異世界召喚とか地味に永遠の夢だよ!」
ユリが語るのは、本当に荒唐無稽な〝夢〟だった。
地に足のつかない、あり得ないからこそ語れる夢。
語るだけタダの夢。
彼女らしいなって思うけど、私が聞きたいのはそういうことじゃない。
「もうちょっと身近な話しようよ。例えば東京住んでみたいとか。ユリなら京都も好きそう」
「うーん、どうかな。考えたこともなかったよ」
「それを考えてみようよ」
「ええ? なんか、今日の星はグイグイくるね?」
多少、無理やりなのは認めよう。
でも、ユリがなんというか……家に囚われてるような気がするのは、私だけだろうか。
犬童家は仲がいい。
それ自体は良いことなんだろうけど、ユリの中で「それを壊しちゃいけない」って気持ちが走っているような気がして。
要因は間違いなく、父親とふたり暮らしだということ。
そして原点に立ち返れば、母親が亡くなっているということ。
私や、先に家を出て行った姉と違って、ユリは家に居なくてはならない存在だって。
それが、彼女の中で無意識の枷になっているような気がしてならない。
事情を考えたら仕方のないことかもしれない。
でも、「仕方ない」で済ましてしまっていいことなんだろうか。
私は別に、カウンセラーの資格を持っているわけでもなければ、誰かのお悩み相談に的確な助言をして回れるような人間でもない。
出来る事は、ただ背中を押してあげることだけ。
踏み出しあぐねているところに、手を引いてあげることだけ。
だからこそ、もしもユリの本心というものがあるのなら、せめて私には聞かせて貰いたかった。
家を離れて暮らしているっていうこの状況は、ユリにとっても自分を見つめ直すいい機会だと信じているから――
「ごめん、星。それ宿題にしてもいい……?」
ユリは、また少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべて告げた。
今日一番、彼女は戸惑っていたような気がする。
「いいよ」
私は二つ返事で答える。
今はそれでいい。
宿題ってことにしてでも、ユリがそのことを、少しでも頭の片隅で考えてくれるのなら。