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12月8日 応援してるから

 風呂上がりに脱衣所で身体を拭きたくなくなった。

 それは、人間に刻まれた生存本能による防衛行動だと、私は勝手に解釈している。

 無理に抗う必要はない。

 だから、昔一度リフォームして暖房のついた浴室で、ぬくぬくとしながら身体の水滴をふき取る。


 逆にユリは、キンキンに冷えた脱衣所の空気を、サウナを出た後の水風呂のように楽しんでいるようで、ブルブルガタガタ身体を震わせながら、笑顔で先に出て行ってしまった。

 私があの境地に至るには何年必要――いや、たぶん、未来永劫ないだろう。

 正直なところ、家を出て行くなら浴室暖房付きの物件をマストに選びたいと考えるくらいに、すっかり文明の奴隷になっている。


「星ー。先出てるよー?」

「うん。分かったから扉閉めて」


 先に脱衣所を離れる時、ユリは律儀に浴室の扉を開けて断りを入れる。

 そのたびに寒気が流れ込んできて、生乾きの柔肌にザクザクと突き刺さる。

 ぶっちゃけ堪えがたいけど、顔を見てから離れようというその心意気が嬉しいので、くしゃみと一緒に我慢する。


 自分の身体がそれほど強くないのは十八年も付き合ってくれば分かりきったことで、ことさら冬になっては、ちょっとでも寒いと思ったら重ね着や暖房をガンガンに炊いて、過ごしやすい環境を作る。

 我慢が身体に悪いというのは、体調管理に至っては言葉通りの意味だと思う。


 一方で、私の〝ちょうどいい〟は、ユリにとっては〝ちょっとやりすぎ〟のようで、部屋の暖房の温度に関しては、例年よりも気持ち下げるようになった。

 一度か二度くらいの低下なら、ブランケット一枚でどうにか管理できる差だ。

 動きやすさは犠牲にするけれど。


「星、そんな寒がりでクリスマスにベース弾けるの?」

「それは鋭意検討中」


 自室でブランケットにくるまってスマホを弄っていた私は、ユリの質問に話半分に答えた。

 わりと痛いとこ突いているよね。

 昨日の練習の時も、冷所でキンキンに冷やされたベースのボディに触れた時、背筋から脳天に突き上げるような寒気に襲われた。

 とは言え、天野さんが教えてくれたブランケット一枚挟む戦法は本番では少々見てくれが悪い。

 現実的な対応としては、お腹や下腹部の見えないところに、厚手の防寒具を重ねるしかないような気がする。

 いわゆる、腹巻的なのとか。


「この間、手首に貼るホッカイロを教えてもらったのが良さそうだったな。リストバンドみたいなのに装着するやつ。あれすると、指先までぽかぽかになるらしいよ」

「手はあたし、いつもぽかぽかー!」


 そう言って、ユリは私の頬にべちゃーっと手のひらを押し付ける。

 スキンケアをした直後でちょっと滑り気のある質感だけど、なるほど確かにポカポカと温かい。


「って、お風呂上りなら誰でもそうでしょ」


 流石の私だって、今は一日のうちで一番身体の末端が温まっている時だ。

 押し付けられた手のひらを押しのけるように握り返してやると、ユリも指をにぎにぎさせながら頷いた。


「確かに、過去イチ温かい気がする」

「それは言い過ぎ」

「あいたっ」


 空いたもう片方の手で額にチョップを食らわしてやると、ユリは大げさに痛がりながら、ぱたんと仰向けに倒れ込んだ。

 そのまま、ひとつ大きなあくびをすると、うんと手足を伸ばして大の字に広がる。


「なんか、びみょーに力が有り余ってる気がする」

「全力で勉強に取り組んでないと?」

「勉強のキャパはもう一杯だよ! めいいっぱい頑張ってるよ!」


 ものすごい勢いで否定されてしまった。


「いやー。何て言うか。勉強のキャパと、それ以外のキャパは別枠って言うか」

「何それ。体力も気力も一本気だから同じでしょ」

「違うんだよ~! 右脳と左脳の関係みたいな感じなんだよ~!」


 それが例えとして適しているのか分からないし、ユリの言う感覚も全く理解できなかった。


「てか、それを言うなら部活頑張ってた時も、勉強は勉強で頑張れたってことになるよね」

「うぐ……それは、身体はひとつって言うか……限りある資本の中でできる限りのパフォーマンスを目指しているというか」

「じゃあ、やっぱり一本気なんじゃない」

「うわーん! 星が正論でイジメてくるよー!」

「イジメてないし」


 ユリが、子供みたいにじたばたと駄々をこねるので、私は呆れてブランケットを肩に巻きなおした。

 てか、泣き言を言ったところでそれを聞き届ける人は誰も居ないわけで。

 結局、私がフォローをするしかないわけで。


「まあ、テスト前とか最低限は頑張ってたわけだし。やれる範囲のことはやってたのかもね」

「そう! それだよ!」


 ユリは、鬼の首を取ったように飛び起きた。

 有利になったとたん現金なやつめ。


「今までは部活と勉強で7:3だったとしたら」

「9:1でしょ」

「むう……9:1だったとしたら、今は勉強が9って感じ。残り1の行き場に困って、スーパーノヴァが起こりそう」

「それ、存在消滅するけど大丈夫?」

「あれ、じゃあ、ビッグバン?」


 誕生しても困るんだけど。

 とはいえ、地理を取ってない私の頭脳じゃだいぶうろ覚えなので下手なことは言わないでおく。


「もしかして……クリコンに誘わなかったこと、気にしてる?」


 なんだかすごく回りくどいアピールを受けているような気がして、どーでもいい話をしながら考えていたけど、たどり着いた結論はそこだった。

 私の問いかけに、ユリは両のこめかみを人差し指でぐりぐりと押さえながら、身もだえするように唸った。


「むう……むううううう!」


 実際、身もだえしていた。


「本音を……! 本音を言えばね……!」

「うん」

「一番最初に相談して欲しかったなって」

「……うん」

「でもね、星のことだからいろいろ考えた結果なんだろうなっていうのは分かるからね。だからあたしも、文句言うのは違うよなっていうのは分かっていてね……!」

「それは――」


 違うとは言い切れないのが、正直なところ。

 実際は、文句を言う選択肢すら与えなかったのだから。

 相談をしなかったという事実は、何をしても変わらない。


「あたしもね、分かってるの。アヤセはもう大学決まってるし、星も心炉ちゃんも志望校の判定良い感じで、余裕があるからできてることで……あたしはね、他のことやってる暇ないんだろうなって」

「それを言ったら、私も余裕があるわけではないんだけど……」

「応援するってのは、あの日のうちに決めたの。でもね……やっぱり最初に相談して欲しかったなって」

「……ごめん」


 謝る以外のことは、今はできなかった。

 私がそうした。

 私がそうさせた。

 これを自業自得と言うのなら、謝る以外に私ができることは何もなかった。


「でも、ほんと応援はしてるから! 当日はたぶん行けないけど……でも、応援してるからね!」


 そう言って、ユリはいつもみたいに満面の笑みで笑っていた。

 いつもみたいに、というのが少し心の中で引っかかってしまったのは、今この時、彼女が何を考えているのだろうかと私自身が信用できていなかったことに他ならないのかもしれない。

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