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12月15日 銀世界

「うわ……」


 カーテンを開けるとそこは雪国であった。

 腹の底が煮えくり返るかと思った。


 雪景色を喜ぶ年なんてとうに過ぎていて、頭をよぎるのはびちゃびちゃの地面に、面倒な雪かき。

 降り注ぐ雪も「わ~、雪だ~」なんてにこやかに見上げるものじゃなく、「ぎゃ~! 雪だ~!」と傘に両手でしがみつきながら、一歩一歩踏みしめるように歩かなければならないもの。


 軽いホワイトアウトというやつだ。

 考えただけで背筋が震えた。


 学習机の椅子に掛けておいた厚手のカーディガンをひっつかみ、肩に羽織る。

 すっかり冷え切った袖に腕を通す気にはなれなかった。


 そう言えば、ユリがいない。

 いつもなら、『ゆきやこんこん』の歌みたいに、喜んで駆け回っていそうなのに。

 窓の外を見つめながら静かに感傷に浸っていられたのも、彼女がこの場に居ないからというのが大きかった。


「や~、すごいね!」


 リビングへ降りると、ちょうどユリが玄関先からやって来た。

 雪の粒がついたコートを着て、髪の毛にもふわふわのかき氷みたいな雪の塊をくっつけている。

 まさかとは思うけど、ホントに庭駆けまわって来たの?


 とりあえず、洗面所からフェイスタオルを一枚持って来て、彼女に渡してあげた。


「風邪ひくよ」

「ありがとー。これ、今日の登校は大変だ」


 タオルを受け取ったユリは、雪を払った後の髪の水気を、ぽんぽんと叩くようにふき取る。

 そのまま稼働中のヒーターの前までトコトコ駆けて行って、手のひらを向けて暖を取った。


「あー、ぬくいー」

「そんなんなるまで何してたのさ」

「雪かき手伝ってたの。いきなりで、まだ庭の融雪つけてないっておじさんが言ってたから」


 それはまた、お勤めご苦労様です。

 また体調崩したらどうすんだと、お小言のひとつでも添えてやろうと思ったけど、言葉を引っこめる。

 代わりに、コートを脱いだ彼女の肩に、羽織っていたカーディガンをかけてやった。


「星がやさしい……」

「雪かきをしてくれたこと以上に、褒めたたえるべき美徳は無いから」


 これは本当に、雪国の人間にしか分からないかもしれないけど、朝一番に雪かきをして家の前に道を作ってくれた人は、その日一日――は言い過ぎだけど、半日くらいはその家のヒーローだ。

 少なくとも朝ごはんの間くらいは一切支度を手伝わずに、食事も、飲み物も、誰かが目の前に運んでくれるのを待ちながら、ぼんやり情報番組の星座占いを眺めているのが許されるくらいだ。

 そんな現実がこの世の中にはあるので、今日は私が甲斐甲斐しく働くほかあるまい。


 登校してからも、クラス中、雪の話題で持ち切りだった。

 クラスに足を踏み入れた瞬間、みんな示し合わせたみたいに「あー」と大きなため息をつく。

 歩いている間にも傘に雪が積もるという、ほとんど罰ゲームみたいな登校時間を終えて、ようやく教室までたどり着いた。

 その達成感と、無駄に朝から体力をすり減らしたことに対するやるせなさとが成す、「あー」のひと言だ。


「雪、ヤバくない?」

「これ、二番と三番は遅れるかもね」

「一番に乗ってきて良かったー」


 教室の片隅で交わされる会話は、おそらく電車組についてのことだろう。

 この雪なら確かに遅れても仕方がない。

 だけどどれだけ降っても運休にはならず、しかも遅れたところで二十分程度というのが、訓練された雪国の鉄道会社の底力だ。

 しかも、そんな彼らの意地なのか分からないが、一番――始発電車に限っては、どんなに豪雪の中でも決して遅れることすらない。


 実際にそれに乗って来る人曰く、水しぶきを巻き上げて大海原を進む船のように、雪をもうもうと巻き上げながら電車が走って行くのだという。

 乗らない人間からしたら「事故らないのかな」と心配になるばかりだけど、「決して遅れない」という一点に信頼を置いて頼りにする学生や会社員は大勢いるようだ。


 そんな浮ついた朝の喧騒の中、教室の外を見覚えのある影が横切った。

 別に、廊下を気にしていたわけじゃないのに、思わず目を引いてしまった。

 この一面の、窓から差し込む光すらも白銀の世界の中で、彼女の姿は相変わらず漆黒に包まれていた。


「スワンちゃん」


 私は弾かれたように立ち上がって、廊下に向けてそう声を上げていた。

 駆け出すように教室を出ると、須和さんは静かにこちらを振り向いていた。


「お、おはよう」

「おはよう」


 声をかけたのに、特に理由はなかった。

 二日も学校を休んだのだから、何となく、心配になって?

 形式的な挨拶を返してくれた彼女は、相変わらず氷のように冷たくて、その表情だけは銀世界に完全に溶け込んでいるように見えた。


「休んだって聞いてたけど……」

「ごめんなさい」


 短い言葉で彼女が謝る。感情の見えない、淡々とした謝罪。


「まあ……とりあえず、出て来れて良かった」

「練習は出る」

「え……あ、そう」

「でも、私は吹かない」

「え?」

「もしかしたらコンサートも」

「ちょ……まって、どういう――」

「ごめんなさい」


 私の言葉を遮るように、彼女の謝罪が響く。

 ズバンと、鋭利な刃物で切り捨てるような、有無を言わさぬ一声だった。


「責任はとる。代わりは用意する」

「代わりって……」

「もしくは例の作戦を前倒しにする」

「例のって、宍戸さんのこと?」

「彼女がサックスを吹けるようになれば……トランペットなら、おそらく吹ける」


 吹けるというのは、須和さんが、ということなのだろう。

 ますます、訳が分からない。

 しかも「おそらく」って言うのが、実に彼女らしからぬ言葉だ。


「何か困ってることがあるなら、力になるけど。私で力になれることなら、だけど」


 ようやく絞り出したのは、そんな言葉だけだった。

 何もわからないなら、そう言うしかない。

 とにかくただ、味方であることを伝えるほかない。


 須和さんが、小さく息を吸うのが分かった。

 かすかな空気の音が聞こえてしまうくらいに、彼女の言葉に集中して、耳を傾けていた。

 あるいは外の雪が、この世の音のという音をすべて吸い取ってしまったかような静寂の中で、彼女の挙動だけが真っ黒な波紋のように響いていた。


「ない」


 たった二つの言葉を前に、私は何も言い返すことができなかった。

 須和さんは、かすかに笑っていたような気がした。

 すべてを諦めた時の、どうしようもなくこぼれる笑顔のようだった。

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