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12月16日 初めからこうするべきだった

 今日も朝から雪だった。

 昨日は降りはじめということもあり、地面の雪は溶けかけでびちゃびちゃしていたものの、冷え込みが本格化する深夜にも振り続けていたせいか、今朝は見渡す限りの白い大地が広がっていた。


 この辺りは開けた街中ということもあり、積雪も比較的マシな方だろう。

 北でも南でも、とにかく山に一歩近づくにつれて、積雪量はどんどん増えていく。

 市をひとつ跨げば、路肩に積み上がっる除雪の山の高さが倍になる。

 市街地から車で一時間も離れたら、平均的な女子高生の身長なんて軽く越しているかもしれない。


 そういうわけで、今日はいつもよりも早く家を出ることにした。

 公共交通機関の後れは気にしなくていい場所に住んでいるとは言え、これだけの豪雪の中を歩くのには、いつもの五割増しか十割増しで時間がかかってしまう。

 徒歩通学の民に、交通機関の乱れによる遅刻取り消しの温情はない。

 家が近いのには、近いなりのシビアさがある。


 それともうひとつ。

 今日は早くに登校しなければならない理由があった。


「いやあ、すみませんね。この部屋、備え付けの暖房がないもので。もっとヒーター、寄せます?」


 琴平さんは、クリーム色のダッフルコートを着たまま、放送室の隅にあった電熱ヒーターの摘まみを最大まで捻る。

 すぐにヒーターは温かな色を発するけれど、頬にチクチクと沁みるほど寒い部屋の空気に対して、どれだけ効果があるのかは不明だった。


「万が一、って本当にあるもんですね」

「何の話?」

「覚えてないなら結構。それで要件は?」


 そんな話したっけと記憶を掘り起こしている間に、琴平さんはサクサクと話を進めてしまう。

 こんな寒いところに長居したくはないし、私もサクサクと本題に入る。


「スワンちゃんのこと。なんかもう、全然わかんなくなっちゃって」

「それについては、ワタシもそちらの状況がよく分かっていないんですが」


 それもそうかと、私は昨日のことを話す。

 その朝「吹かない」と言った須和さんは、本当に練習でも一切演奏をしなかった。

 代わりに指導に力を入れてくれたので、個々の演奏スキルは上がったような気がするけれど、楽器に振れもしない彼女の姿を見るのは初めてのことだった。


「なのに、トランペットなら吹けるとか……ますますよく分かんない」


 そこまで話す間に、傍らでトントンとリズミカルな音が鳴り響く。

 私の隣に座って琴平さんと向き合う、雲類鷲さんの貧乏ゆすりの音だった。


「たぶんアレだろ? 別に、狩谷になら話していいんじゃねーのか?」

「流翔ちゃんは、いつでも直球勝負ですね。白羽ちゃんが話してないなら、言う必要はないんじゃないかって、ワタシは思ってたんですけど」


 少なくとも今の口ぶりで、ふたりが何か知っているのは明白となった。

 私は、ふたりの会話を促すつもりで、何も言わずにじっと琴平さんのことを見つめる。

 彼女もまた私の視線に気づくと、息をため込んでから、大きなため息をついた。


「わざわざ流翔ちゃんも連れて来たのが、この空気を作るためだとしたら、たいしたものですね。流石は南高校の生徒会長」

「元ね」


 雲類鷲さんは、なんだかんだで面倒見がいいし情に厚い。

 実際のところ、こうなるのを期待して同席をお願いしたところが大きい。

 だったら雲類鷲さんに聞けばいいじゃんって話かもしれないけど、彼女も彼女で、自分ひとりの判断では話したがろうとはしなかった。琴平さんが言うほど直球勝負じゃない……というより、雲類鷲さんなりの免罪符を欲しがっているかのように思えた。


 ここ半年絡む機会がたびたびあったけど、この三人組の力関係は、いまいちよく分からない。

 なんだかんだで琴平さんが全権を握っているような。

 でも一方で、琴平さんは、物事に積極的に関わるのを嫌っている。


 一方で雲類鷲さんは前に出たがるけど、案外、ひとりで何かを成すのを嫌う。

 学園祭の時も、私が散々引っ張り回されたし……。


 そして須和さんは、この中では一番の個人主義だ。

 なんでもひとりで決められるし、結果も出せる。

 面倒な性格はしているので、ふたりの方が陰ながら彼女を支えているとも言えるのかもしれないけど。


 同じ三人組でも、私たちとは大違いだ。

 まあ、こっちは心炉もレギュラーになって四人組だけれど。


 そして放課後がやって来た。

 今日は金曜日だから、全員が集まれる日。

 いつもの教室にセッティングを済ませたところで、練習が始まる前に口を挟む。


「スワンちゃん。やっぱり、みんなにも説明してもらっていい?」

「何を?」

「ここのこと」


 そう言って私は、自分の頬を指先でトントンと叩く。

 須和さんが、かすかに息を飲んだような気がした。

 でもそれはほんの一瞬のことで、薄い唇から細い吐息がこぼれる。


「佳織?」

「ごめん」

「いや、いい」


 首を振った彼女に、実際、怒った様子は無かった。

 そのままメンバーみんなを見渡して、ただ一言、完結に語る。


「顎関節症」

「え……?」


 驚いたような声をあげたのは、宍戸さんただひとりだった。

 他の人たちは「何をいきなり」と、戸惑った様子で彼女を見つめる。


「クリコンの練習で発症したわけじゃないんだよね……?」

「昔から」


 琴平さんたちにはそこまで聞いていたけど、須和さんの口からそれを聞いておきたかった。

 顎関節症――簡単に言っちゃえば、顎の怪我みたいなものだ。

 原因はいろいろあるけど、とりわけ顎や口内に負担を強いる管弦楽の演奏者が患いがちのものだ。


「とっくに、付き合い方は心得てる」

「悪化してるんでしょ?」


 須和さんは何も答えない。

 彼女の場合、それは肯定の意思と取っていいと思った。


「もしかして、サックスだから……ですか?」


 宍戸さんの消え入りそうな声が響く。

 たどたどしい、震えるような声だった。


 そして、それもおそらく正解だった。

 専門じゃない楽器で、彼女が十二分な演奏ができる理由は、考えてみればすぐに分かること。

 それだけ練習をしている。

 これまでの練習で須和さんのミスで演奏が止まったことは、先日のたった一回を除いて一度もなかった。

 そのレベルに至るまで、彼女は陰で練習を重ねていたということ。

 塾を辞めて時間を確保して、慣れないサックスを、自分が納得できるレベルまで。


 でも、慣れない楽器は、身体への負担のかかり方が変わる。

 いつものトランペットであれば、症状とうまく付き合いながら実力を出す術も身に着けているのだろう。

 実際、職業病みたいなものだと割り切っているプロの演奏者は大勢いる。


 慣れない楽器。

 本番までの短い期間。

 負担を度外視で練習した彼女の身体は、あと少しというところで悲鳴を上げてしまった。


「確認なんだけど……トランペットなら吹けるの? というか、吹いて大丈夫なの?」

「問題ない」


 須和さんは、迷うことなく答えた。

 だが口にした瞬間、僅かに伏し目がちになって、そのままゆっくりと瞬きをする。


「本当は、サックスも吹ける。けど、受験の前にこれ以上悪化させないようにと……ストップを掛けられてしまった」


 それはそうだ。

 いくらトランペットなら慣れているとはいえ、この時期に悪化を重ねたら、受験本番で何の影響もないなんてことはあり得ない。

 目の前のたった一度の演奏か。

 これから先の人生が掛かった試験か。

 主治医か、もしくはレッスンの講師かは分からないけど、彼女にストップをかけた人の判断は正しい。

 誰が聞いても、疑いようがなく。


「残念ですが、そういう事なら私たちは、受け入れるしかないでしょう」


 何とも言えない気まずい空気が、心炉のひと言で僅かに弛緩――みんなが少しだけ安堵したのが分かった。

 彼女の言葉による〝正しいこと〟に対する説得力は、やっぱり段違いだ。

 アヤセも、素直に受け入れた様子で頷く。


「そうなったもんはしゃーないとして、現実問題、スワンちゃんが抜けた穴はどうすんだ? 今からサックスなしの構成に切り替えて間に合うか?」

「代わりの手配はしてる」

「代わり?」


 聞き返したアヤセに、須和さんはそれ以上のことは答えない。

 手配はしてるけど確定じゃないということなんだろう。


 そこまでは私も聞いていたし、特に口を挟むことはない。

 そう思っていたら、須和さんはおもむろに腰をかがめた。


「でも、もっと確実な方法がある」


 彼女は、足元に置いていた楽器ケースを掴み上げると、そのまま教室を横切って、宍戸さんの間の前へ歩み寄る。

 完全に、虚を突かれた。

 彼女が何をしようとしているのか分かったのは、たぶん私だけ。

 つまり、待ったをかけられたのも私だけだったのに、言葉が間にあわなかった。


「あなたがサックスを吹く」


 楽器ケース――自らのサクソフォンを突き付けられた宍戸さんは、「ひっ」と小さな悲鳴をあげる。

 そのまま怯えた顔で須和さんと、サクソフォンとを見比べて、やがて噛み切ってしまうんじゃないかっていう勢いで、唇をぎゅっと噛んだ。


「初めからこうするべきだった」


 須和さんは本気だ。

 そもそも、彼女が本気じゃないなんてこと一度もないのだろうけど。

 だからこそやっぱり、その言葉は凶器だった。


「無理です、私……」


 宍戸さんは、泣きそうな声で言う。

 対する須和さんは何も言わない。

 それ以上、何も言う必要が無いから。

 無言の圧力に、宍戸さんの瞳から、本当に涙がこぼれてしまった。


「ごめんなさい……無理、なんです……」

「歌尾さん」


 慌てて穂波ちゃんが駆け寄って、その場にうずくまった宍戸さんの背中をさする。

 須和さんは、突き付けていた楽器ケースを、彼女たちの足元に置いた。


「ごめんなさい」


 ただ一言だけ口にして、なすすべなくその場に立ち尽くす。

 静寂に小さな嗚咽だけが響く。


「……今日は解散にしようか。準備したとこ悪いけど」


 ようやく声を出すことができた私の提案に、特に意義を唱える人はいなかった。

 やっぱり、話題にするべきじゃなかったのだろうか。

 でも、みんな薄々異変を感じていたところで、そのままにしておくこともできなかったし……なんてのは、おそらく言い訳に過ぎない。

 参った。

 本当に、参った。


 夕方になって、雪は勢いを増していた。

 粒の大きい本格的な豪雪。

 結果論としてだけど、暗くなる前に解散して良かった。


 そして夜になって――穂波ちゃんから、一本の電話が届いた。

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